孤独の共鳴
私はこの二日間、マンションの一室という名の繭の中に閉じこもったまま、一歩も外の世界へ足を踏み出していなかった。あの胃の底を掻き回すような気味の悪い不快感を少しでも和らげたくて、私は肺の奥まで冷え切った夜の空気を吸い込みたいという衝動に駆られた。時計の針は既に夜の十時を回っており、窓の外は深い群青色の闇が支配していたが、私にとってはこれこそが活動の合図だった。 「ねぇ、隼人君。少しだけ、夜の散歩に出かけない?」 「えっ、今から? もう十時を過ぎているよ」 「それがいいのよ。日焼けもしないし、人もいないからとっても落ち着くわ」 私は彼の手をそっと取り、指先を絡めるようにして玄関へと導いた。階段を降り、マンションの重い鉄の扉を開けた先には、期待通りの夜が待っていた。そこには昼間の騒々しさも、私の肌を焦がす強い日差しも存在しない。ただ、ひんやりとした夜風が、火照った私の頬を恋人の愛撫のように優しく、そして淫らに撫でていくだけだった。
「私ね、引きこもり生活を送っていた頃は、毎日こうして夜に散歩をしていたのよ」 隣を歩く隼人君に、私はふと自分の秘められた過去の断片を差し出した。 「どうして夜に? 普通は、明るいうちに出るものじゃないの?」 「昼間に歩いていたら、せっかくの肌が日焼けしてしまうでしょう。それに、夜だと人目にさらされることもないわ。……ねぇ、あっちの、鴨川の方まで行きましょう」 私は甘えるように彼の腕に縋り付いた。腕に触れる彼の体温は、冷たい夜風の中で鮮烈な主張を持って私を刺激する。 七年前、大学を卒業した後の私は、まるで死んだ魚のように夜の街を彷徨うのが日課だった。それは外に出るのが好きだったからではない。むしろ、外界との接触は猛毒に等しいとすら感じていた。けれど、退屈さは親の叱責や冷ややかな視線以上に私を外に追いやった。私はわずかな非日常を求めて家を抜け出した。誰もいない公園のベンチや、街灯に照らされた不気味なアスファルトの上にこそ、私の居場所があるような気がしていたのだ。
鴨川の手前に辿り着くと、そこには闇に浮かび上がる夜桜の列が、幻想的な屏風のように並んでいた。 「綺麗ね、隼人君。あなたはいつも、大学へ行くときにこれを見ているのよね」 「……うん。昼間の景色もきれいだけど夜の桜はまた格別だね。」 私たちは河川敷へと続く階段を降り、水面に近い場所へと下っていった。 川の対向岸には、京都という街の歴史を誇示するかのような、古めかしくも風流な木造の建物が軒を連ねている。温かい電球の光が窓から漏れ、黒い水面に揺らめく様は、まるで宝石を溶かし込んだような美しさだった。 私たち二人の間に、心地よい沈黙が流れる。 「ねぇ。夜の散歩も、案外悪くないでしょう? 人の視線を気にしなくていいし、こんなに涼しいんだもの」 「そうだね。僕も、人ごみとかうるさい場所は苦手だから、こういう静かな時間はとてもありがたいよ」 「……わ、私もそうなの!」 思わず声を張り上げてしまい、隼人君が驚いたように肩を揺らした。
「ど、どうしたの由紀子さん。急に大きな声を出して」 「べ、別になんでもないわ……。ただ、ほら、私たちって今まで共通の趣味なんてなかったじゃない?」 「趣味? ……ああ、確かに。まぁ、年齢も離れているし、しょうがないよ。」彼は何気なく、残酷な「年齢の壁」を口にした。 「そうでしょ。だから……今のあなたの言葉が、すごく嬉しかったの。私人ごみにいるだけで、自分が消えてしまいそうな不安に駆られるのよ。電車やバスに乗っているだけで鬱っぽくなるの。何かわからないけれど、世界中から疎外されているような気がして……。」 「それ僕もめっちゃあるよ、バスに乗ってるときとかにほかの乗客とか見てると、なんで自分は生まれてきたんだろうとか、こいつらは何のために生きてるんだろうって、急に空虚な気持ちになるよ」 私は初めて隼人君の言葉に心の底から共感できたような気がした。 震えるような歓喜に全身を貫かれた。これまでどんなに肌を重ねても埋まらなかった心の隙間が、彼の「空虚」という言葉で一気に満たされていくのを感じた。 学歴が違っても、教養の深さが違っても、十年の年齢差があっても。私たちはイデオロギーや社会的な立場を超えて、もっと暗くて、もっと深い、精神世界の底で繋がっていているんだわ。
「人ごみが苦手だから、いつか、将来は誰も知らない田舎に住みたいな」 隼人君が遠くを見つめて呟く。 「私も、全く同じことを考えていたわ。人が少なくて、自然が豊かで、世間から離れた、二人っきりになれる場所……」 「由紀子さんと僕は、なんだか価値観というか、性格というか…とにかく気がよく合うよね」 その言葉を聞いた瞬間、私の中の「女」が熱くうねり、喉の奥が震えた。 ああ、幸せ。 これまでは彼を繋ぎ止めるために、ただ淫らな喘ぎ声を作り、年上の包容力という仮面を被って尽くすことしかできなかった。けれど今、私は彼と「言葉」で、あるいは「傷」で繋がることができた。 共通の趣味がなくても構わない。難しい政治や経済の話ができなくても構わない。私たちはこの孤独の共鳴という、誰にも壊せない絆を手に入れたのだから。
「どうしたの、由紀子さん。さっきから、そんなにニヤニヤして」 「ふふ、なんでもないわ。……ただ、あなたのことが、もっともっと愛おしくなっただけ」 私は隼人君の腕を引き寄せ、自慢の胸を力強く、そして吸い付くように彼の腕に押し付けた。薄いブラウスの生地越しに、私の高鳴る心臓の乱動と、溢れ出すような肉体の熱が、ダイレクトに彼に伝わっていくのがわかる。 私は潤んだ瞳で彼を見上げ、誘惑するように首筋を晒した。 「ねぇ、隼人君。……帰りたくないわ。このまま、夜の闇に溶けて、あなたと一つになれたらいいのに」 私はわざとらしく、けれど本能に忠実な、熱を帯びた吐息を彼の耳元に吹きかけた。 官能的な悦びが背筋を駆け抜け、私は自分の身体が、かつてないほど瑞々しく若返っていくような錯覚に陥っていた。「何由紀子さん、もしかして誘ってるの?そんなにいやらしい顔して」隼人君が少し意地悪そうな声で私をからかう。「隼人君だって興奮してるんでしょ? 私に誘われて、断ったことなんてほとんどないじゃない」 「はいはい。じゃあ、家に帰ったらね」 「別に、ここでしてもいいのよ? 誰も見ていないわ……」「駄目だよ、捕まっちゃう。帰るよ、ほら」 私は彼に胸を押し当てたまま、もどかしさに突き動かされるように、あのマンションの一室へと足早に向かっていた。 この絆を逃したくない。この熱が冷める前に、彼のすべてを私の内側に閉じ込めてしまいたかった。




