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無常  作者: 七瀬遥
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胎内回帰のまどろみ

隼人君は、ずっとパソコンの画面と睨めっこをしている。  カタカタと乾いたタイピング音が、私と彼の間の埋められない溝を刻んでいるようだった。大学の課題だろうか。難しい数式か、あるいは私の知らない社会の仕組みについて論じているのか。  そこには、私の入り込める隙間なんて一ミリも存在しない。 (ああ……もう私なんて、いらないんだわ)


 現実から逃げ出したくて、私はスマートフォンの画面に潜り込んだ。  際限なく流れてくるショート動画、思考を停止させる音楽、派手なエフェクトのゲーム。画面を注視しすぎて酔いそうになるけれど、この胸のムカムカに比べれば、機械的な吐き気のほうがずっとマシに思えた。  結局、私はあの頃と何も変わっていないのだ。  会社を半年で辞め、実家の自室で五年間も泥のように眠り続けたあの日々と。今の私は、場所が彼の部屋に変わっただけの「引きこもり」のまま。  成長も、進歩も、希望もない。ただ「老い」という砂時計だけが、無慈悲に落ち続けている。


 胃の奥から、酸っぱい不快感がせり上がってきた。  春のなまぬるい湿度が、私の体内のリズムを狂わせる。和らげようと何度も水を飲み込むが、それは空っぽの胃袋に重石を置くだけの無駄な抵抗だった。何か固形物を食べなければと思うのに、わずかな手持ちの現金を、自分の栄養に変える気力すら湧かない。


 畳に敷きっぱなしの布団に横たわり、光る画面を眺めていた、その時だった。 「由紀子さん、お腹空いた。夜ごはん、まだー?」  背後から、母親におねだりする子供のような、甘い声が聞こえた。  心臓が跳ね、慌てて上半身を起こす。枕元には、隼人君がいつのまにか正座して私を見つめていた。 「……っ、今、準備するわね。ごめんね、隼人君」 「今日は何作るの?」 「ごめんなさい……まだ、何も決めてなくて……」


 情けなさに消え入りそうになる私を、彼はじっと見つめ、その細い指先で私の額に触れた。 「由紀子さん、顔色すごく悪いよ。……僕が作ろうか?」 「いいの、隼人君は大学の課題があるでしょう?」 「そんなの、ずっと前に終わったよ。……由紀子さん、さっきはごめんね。無神経なこと言って。今から、由紀子さんが好きなカルボナーラ作ってあげる」 「大丈夫だから、私が……」 「大丈夫だよ。僕でも、パスタくらい作れるよ」 「やめて……」 「無理しないで、由紀子さん」


 彼が横から、私の身体をそっと抱き寄せた。  その瞬間、彼の体温が私の肌に伝わると同時に、抑え込んでいた不快感が一気に爆発した。内臓がひっくり返るような熱がこみ上げる。 「隼人君、袋……持ってきて……っ」  差し出された袋の中に、私はすべてを吐き出した。  惨めだった。若くて優秀な彼に、自分の内側の汚れをすべて晒している。彼は戸惑いながらも、私の背中をさすり、甲斐甲斐しく看病してくれた。 「由紀子さん、次はどうすればいい……?」 「もう、大丈夫だから……。ほっといて……」  声にならない謝罪が、涙と一緒にこぼれ落ちる。 「ごめんね……私、本当に、だらしなくて……」


 翌日は休日だったが、私は使い物にならなかった。  激しい頭痛と、視界が回るような目まいに翻弄され、布団から一歩も動けない。結局、十歳も年下の大学生に、部屋の掃除も、皿洗いも、食事の準備も、すべてを委ねてしまった。


「由紀子さん、うどん作ってきたよ」  枕元に折り畳み式の小さな机が広げられ、そこには湯気を立てるうどんが二皿並んでいた。 「隼人君、ありがとね……」  私は弱々しく手を伸ばし、彼の柔らかな髪を撫でた。  彼は、猫のように目を細めて嬉しそうに微笑む。その幼い笑顔を見た瞬間、私の胸の奥に、言葉にできない熱い塊が込み上げた。


「ごめんなさいね。こんなに、だらしないおばさんで」 「おばさんじゃないよ。由紀子さん、まだ二十九歳だよ」 「でも、あなたより十も年上なのよ。隼人君から見たら、私なんてただの無職のおばさんでしょ?」 「由紀子さん、そんなことコンプレックスにしてるの?」 「……当たり前じゃない」 「昔も言ったでしょ。由紀子さんは、年上でも、美しくて、魅力的な人だって」


 彼は私を抱きしめ、耳元で甘い毒のように囁く。 「でも、あと数か月もすれば三十になるのよ。このまま、どんどん年をとって、醜い体になるわ……」 「何言ってるの、由紀子さん。由紀子さんは、中身も美しいんだから。年をとっても、美しいままだよ」


 その言葉は、私の空っぽな魂に注がれる、唯一の栄養だった。  ああ。彼は、私を求めている。この無能で、だらしなくて、社会から弾き出された私を、彼は「美しい」と言って肯定してくれる。  私が彼に尽くし、導くのではない。  こうして弱り果て、彼に全てを委ね、慈しまれることで、私たちはより深く、逃げ場のない関係へと堕ちていく。  彼が私の世話を焼くたびに、私の指先が彼の髪に触れるたびに、私は自分の輪郭が彼の中に溶けていくような、形容しがたい充足感に包まれた。  それは、失われた時間を遡り、再び「選ばれた存在」として生まれ直すような感覚。


「いい子ね、隼人君は……」  私は甘ったるい吐息とともに、彼の頭を再び胸に引き寄せ,彼の後頭部を優しく撫で続ける。  今の私は、社会に怯える哀れな女ではない。  私は彼を抱きしめながら、暗い悦びに身を浸した。このまま彼が、私の無能さを愛し続けてくれるなら。私の老いすらも、彼を繋ぎ止めるための理由になるのかしら。


 私は、ずっと、このままでいい。  静かな部屋に、二人の重なり合う呼吸の音だけが、蜜のように甘く響いていた。

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