表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無常  作者: 七瀬遥
3/14

埋まらない断絶

ふと、恐ろしい事実に指先が冷たくなるのを感じた。  私と彼は、肌を重ねること以外に、一体何で繋がっているのだろう。  出会った頃から、私たちは会えば互いの体を探り合い、快楽に逃げ込むことばかりを繰り返してきた。それ以外にあるのは、せいぜい一緒にスーパーへ買い物に行くか、たまに外食をするだけ。  私たちには、共通の趣味なんて一つもなかった。


 そもそも、私には胸を張って趣味と言えるようなものがない。  引きこもり時代に暇つぶしで始めた、指先だけで完結するスマホゲーム。ネットのサブスクで流し見する安っぽい恋愛映画。あとは、自分の衰えを誤魔化すための化粧品。どれも、私の空虚な時間を埋めるためだけの「砂」のようなものだ。


 対する彼の世界は、あまりに高尚で、私にとっては毒のように難しい。  政治、囲碁、哲学。彼が熱心に語る言葉は、私の頭の上を虚しく通り過ぎていく。以前、彼が政治家の不正を熱烈に批判していたことがあった。 「リベラルが」「ナショナリズムのデマゴーグが」  彼が口にする単語の一つひとつが、私には異国の呪文のようにしか聞こえなかった。相槌を打つことすらまともにできず、ただ口角を引き攣らせて笑うしかなかったあの時の、心臓が凍るような疎外感。  彼だって映画やゲームを楽しむことはある。けれど、彼が選ぶのは歴史の裏側を描いたドキュメンタリーや、頭を使う戦略ゲームばかり。私が愛用している乙女ゲームや、頭を空っぽにして見られる恋愛映画には、彼は欠片ほどの興味も示さない。


 そんなことを考えているうちに、玄関の扉が開いた。 「ただいま」 「あ……隼人君。も、もう帰ってきたの?」  慌てて布団から這い出した私を、彼は少し意外そうな目で見つめた。 「だって今日は二限だけだもん。もしかして、由紀子さん、今起きたの?」 「う、うん……。なんだか、あんまり体調が優れなくて……」  時計の針は十二時半を回っていた。カーテンの隙間から差し込む陽光が、昼下がりの倦怠を部屋中に撒き散らしている。 「本当に? 昨日の夜はあんなに元気だったのに」  冗談めかした彼の言葉に、顔が熱くなる。昨夜、しがみつくように彼を求めたのは、こうして昼間の光の中で「空っぽな自分」を突きつけられるのが怖かったからだ。


「お昼ご飯、僕が作るよ。由紀子さん」 「えっ。隼人君、お料理できるの?」 「できるよ。安くて美味しいカレーライスを作ってあげるね」  期待した私が馬鹿だった。彼は棚から慣れた手つきでレトルトカレーを取り出し、無洗米を炊飯器に放り込んだ。 「レトルト……なのね」 「いいでしょ別に。フライパンも汚さなくて済むし、合理的だよ。由紀子さんだって、今から一から料理するのは大変でしょ」


 合理性。それは、私のような無駄な感情だけで生きている人間を、もっとも効率よく切り捨てるナイフだ。  ご飯が炊けるのを待つ間、彼は当然のようにスマートフォンを取り出した。 「隼人君、何見てるの?」 「政治系のブログだよ。見てよこれ、酷いデマだと思わない? 何のソースもないのにこんなこといちゃって…」  彼が画面をこちらに向ける。そこには文字がぎっしりと並んでいた。私はその文字列を見ただけで眩暈がして、視線を逸らした。


 深い孤独感が、足元からじわじわと這い上がってくる。  同じ部屋にいて、同じ空気を吸い、昨夜はあんなに密接に肌を合わせたのに。今、私の隣に座っているこの少年は、私とは全く違う次元の、眩しくて冷たい世界を見つめている。  出来上がったレトルトカレーの匂いが、安っぽく部屋に充満した。  私たちは向かい合って、味気ないカレーを口に運ぶ。スプーンが皿に当たる音だけが、耳障りに響いた。


「隼人君……ごめんなさい。私、今日、送り迎えできなくて……」  せめて、朝食を作ってあげたかった。玄関で、「いってらっしゃい」と笑顔で見送る「良き年上の恋人」を演じたかった。それが、私に残された唯一の繋ぎ止め方だったのに。 「いいよ別に。気にしないで」


 隼人君はカレーを飲み込みながら、あっさりと答えた。  その言葉は、優しさなどではなかった。私がいようがいまいが、彼の世界は滞りなく回り、彼の腹は満たされる。私は、彼にとって「いなければならない存在」ではなく、ただ「そこにいるだけの居候」に成り下がっているのではないか。


 ――いいよ別に。


 その一言が、私の心の中で何度もリフレインし、抉る。  今にも泣き出しそうなのを必死に堪えながら、私は冷めかけたカレーを、砂を噛むような思いで飲み込んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ