繋ぎ止めるための代償、蜜の毒
予定の時間を少し過ぎた頃、玄関の鍵が回る音がした。 戻ってきた隼人君は、出発前の張り詰めた様子とは打って変わって、春の陽だまりのような穏やかな笑みを浮かべていた。その表情を見た瞬間、私の胸にちくりと小さな棘が刺さる。私の知らない場所で、彼は何か「良いこと」を経験してきたのだ。
「おかえりなさい。……どうだったの、面接は」 努めて明るく声をかける。 「筆記試験と面接を受けてきたんだけど。試験は基本的な問題ばかりだったから、たぶん満点だと思う。面接も、特に詰まることはなかったかな」 「そう……」
満点。その響きが、かつて社会の荒波に揉まれ、何一つ満点を取れずに逃げ出した私の鼓膜を不快に震わせる。彼は優秀だ。私が逆立ちしても届かない、清潔で知的な世界に、彼は軽々と足を踏み入れていく。
「どうしたの由紀子さん、元気ないね」 私の顔を覗き込む彼の瞳は、あまりに純粋で、それが余計に私を惨めにする。 「なんでもないの。ほら、一緒にご飯食べましょう。今日は和風パスタを作ったのよ」 「いつもありがとね、由紀子さん」 彼はいつも以上ににこやかに返事をして、私たちは狭い食卓を囲んだ。パスタの湯気の向こう側で、私はどうしても聞かずにはいられない問いを口にした。
「ねぇ隼人君。どうしてアルバイトなんて始めるの? 親御さんからの仕送りがあるじゃない。大学だって、これからもっと大変になるんでしょう?」 隼人君はフォークを動かす手を止め、少し真面目な顔で私を見た。 「仕送りだけじゃ、お金が足りないんだ。二人分の食費に、これからは専門書の教材費だってバカにならない。それに……実家の父さんも、これからは仕送りを減らしていくって言ってるみたいだし。由紀子さんだって、これからきっと、お金が必要になるでしょ」
「わ、私もアルバイトするから……!」 食い気味に叫んだ私の声が、狭い部屋に虚しく響いた。 「大丈夫だよ、由紀子さん。働くの、苦手でしょ」 隼人君の言葉は優しかった。けれど、その優しさは刃物よりも鋭く私の自尊心を切り裂いた。 「だ、大丈夫よ……。アルバイトくらい、私にだってできるわ。それに、私の親にだって頼んでみる。もっと援助してくれないかって……」
「でも由紀子さん、一年くらい前に飲食店のバイトでいじめられてるって言って、半年も経たずに辞めちゃったじゃないか」
心臓が跳ねた。過去の醜態を、一番知られたくない相手に突きつけられる痛み。 「大丈夫だから……っ。隼人君ばかりに、負担はかけられないわ」 それは、紛れもない本心だった。 私よりずっと細い、彼の肩にこれ以上の重荷を背負わせたくない。彼には、いつまでもこの部屋で、私の膝の上で、純粋な少年のまま守られていてほしいのだ。彼が「稼ぐ男」になっていくことは、彼が私の庇護下から、そしてこの部屋から飛び出していくことを意味する。
「いいよ。今のところお金に困ってるわけじゃないんだから。働かなくて済むなら、それが一番でしょ」 隼人君は、私の提案をにべもなく、けれど決定的な拒絶として突き放した。 「大丈夫。由紀子さんも僕も、そんなにお金を使わないんだから。アルバイトは僕だけでいい。ね?」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。 私たちは金を使わない。そう、二人でこの部屋に引きこもってさえいれば。けれど、今日廊下で見かけたあの「隣の女」のような、若くて美しい存在が彼の視界に入るなら、私は「金を使わない女」のままではいられない。彼を繋ぎ止めるための、もっともっと強力な「何か」が必要になるのだ。
食後の沈黙に耐えきれず、私は震える声で切り出した。 「ねぇ、隼人君……このあと、続き、してくれる?」 「続きって?」 「……ほら、お昼休みに言ったじゃない。私が、我慢できないって……」 自分の声が、消え入りそうなほど細く、卑屈に響くのがわかった。
「ああ……。わかったよ、由紀子さん」 彼は慈しむような微笑みを浮かべた。その微笑みさえ、今の私には「憐れみ」のように見えてしまう。
その夜、私は狂ったように彼を求めた。 言葉で彼を支配できないのなら、肉体で支配するしかない。彼の白い肌に、私の存在をこれでもかと刻み込むように、必死に彼の若い体を貪った。彼が私の要求に応え、その細い腕で私を抱きしめるたびに、私は「まだ大丈夫だ」と自分に言い聞かせることができた。
「隼人君、愛してる……。愛してるの、大好きよ……っ」 自覚しながらも、私は若く、情熱的で、それでいて妖艶な――彼が好みそうな――喘ぎ声を、わざとらしく、けれど切実に絞り出した。私の「女」としての価値を、彼に認めさせるためのパフォーマンス。
「由紀子さん、いい匂い……」 情けなく、甘えた声を出す彼を見て、私はようやく深い安息を得ることができた。 そう、彼は私を求めている。この豊かな胸に、この熟れた体に、彼は溺れている。私の胸に顔を埋め、幼い子供のように甘えてくる彼を抱きしめながら、私はようやく「年上」としての優位性を実感できた。
「かわいいわ、隼人君……。よしよし、ずっとこうしていようね……」 暗闇の中で、彼を抱く私の腕に力がこもる。離さない。絶対に離さない。たとえ私の心が、どれほどボロボロに崩れていようとも。
翌日、目が覚めたのは午前十一時を回った頃だった。 昨夜の興奮の余韻が残るベッド。けれど、隣で抱きしめていたはずの彼は、もうそこにはいなかった。 「いけない……。私ったら、あんなに興奮しちゃったせいで……」 のろのろと上体を起こすと、肌着一枚の自分と、乱れたシーツが目に付いた。 隼人君は、昨夜あんなにも私を求めてくれた。私のすべてを、愛してくれた。
――それなのに。 カーテンの隙間から差し込む、残酷なまでに明るい陽光が、私の肌の衰えを白日の下に晒していく。 (どうして……どうして、こんなに不安なの?)
彼が外の世界へ行き、優秀な成績を収め、新しい場所で誰かと笑い、お金を稼いでくる。 そのステップの一つ一つが、私という「停滞した重荷」を切り捨てるためのカウントダウンに聞こえて仕方がなかった。 私は震える手で、枕元に置かれた自分のスマートフォンを手に取った。液晶に映る、疲れ果てた二十九歳の女の顔。
(なんとかしなきゃ。彼を、繋ぎ止めなきゃ。もっと、もっと綺麗な私にならなきゃ……)




