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無常  作者: 七瀬遥
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逃げ場なき隣人

隼人君は、まるであらかじめ決められていたプログラムを遂行するかのように、淀みなくすべての試験を済ませて本格的な夏休みに入った。大学の一回生にとって初めての長い、二ヶ月に及ぶ夏。それは私にとって、彼という存在を独占できる甘美な停滞の季節の始まりを意味していた。週に三回の塾のアルバイト以外、彼はほとんどの時間をこの六畳一間の薄暗い部屋で、私と共に過ごしてくれた。外は命の危険を感じるほどの酷暑であり、おまけに私たちには贅沢な外出を謳歌するだけの経済的余地もなかったが、この閉ざされた空間こそが、私にとっては世界で唯一の安息の地だった。 そんなある日、平穏な静寂を切り裂くように、隣の三〇二号室から野太い怒号と、それに縋り付くような女の悲鳴が聞こえてきた。築年数の経った家賃五万円のこのマンションは、壁の薄さが致命的であり、意識せずとも隣人の生活の断片が汚泥のように流れ込んでくる。これまでも何度か、何かが壊れる音や言い争う声は聞こえていたが、今回のはこれまでの比ではないほどに強烈で、暴力的な響きを伴っていた。やがて、廊下の方で乱暴に扉が蹴り開けられる轟音が響き、女の悲痛な鳴き声と男の容赦ない罵声が、すぐ目と鼻の先で繰り広げられた。 日々の退屈に毒されていた私は、その不穏な気配に引き寄せられるようにして、そっと玄関の扉を開け、廊下へと足を踏み出した。そこには、夏の湿った空気の中で、惨めに地面に這いつくばるあの隣人の女――綾乃の姿があった。彼女は、血の繋がった肉親だろうか、端正な顔立ちを怒りに歪めた男に髪の毛を掴まれ、逃げ場のない叱責を浴びせられていた。「いつまでこんなニートみたいな生活を続けていく気だ! 親の脛をかじって、恥ずかしくないのか!」という怒声が、静かな廊下に反響する。彼女と私の視線が一瞬だけ重なり、その虚ろな瞳に宿る深い屈辱の色が、私の内側にある「同族嫌悪」を激しく揺さぶった。 その翌朝、私は珍しく早起きをして、重いゴミ袋を両手に下げて集積所へと向かった。いつもは隼人君が甲斐甲斐しく引き受けてくれる仕事だが、夏休みくらいは彼に朝寝坊をさせてやりたいという、歪んだ慈愛と「尽くす女」としての自己満足が私を動かしていた。そこで、案の定というか、必然というか、私は再び彼女と顔を合わせることになった。朝の暴力的な陽光の下で、彼女はやはり、嫉妬を禁じ得ないほどに美しい漆黒の髪と、透き通るような白い肌を無防備に晒していた。昨日の修羅場が嘘のように、彼女の佇まいは静謐で、けれどその奥には壊れ物のような脆さが漂っている。 「あ……。この前は、ありがとうございました。缶を拾うのを手伝っていただいて……」 彼女が、消え入りそうな声で口を開いた。私はゴミ袋を置くと、努めて穏やかな、大人の余裕を湛えた笑みを浮かべて返事をした。 「こちらこそ。昨日は……大変でしたね。声が聞こえてきたから、少し心配していたのよ」 その言葉をきっかけに、無職という共通の重荷を背負った女同士の、奇妙で濃密な対話が始まった。彼女は私以上に極端に弱気で、言葉を選びながらしどろもどろに自分の身の上を話し始めた。 彼女の名は綾乃といい、私と同じように親からの仕送りだけで命を繋いでいる「同類」だった。それも、名門・同志社大学を卒業したという、私にとっては眩しすぎる肩書きを持ちながら、就職活動という社会の選別でどこにも拾われず、挫折したのだという。本来なら就職と同時に引き払うはずだった大学時代のこの下宿先に、卒業後も幽霊のように居座り続け、外界との接触を断って生きている。私たちは、いかに社会が残酷か、いかに「普通の人間」として生きることが困難かという話題で、驚くほど意気投合してしまった。孤独に蝕まれていた私たちにとって、互いの存在は、鏡の中に映る自分自身を慰めるための装置だったのかもしれない。 「綾乃さんって、その……恋人とか、いらっしゃるんですか?」 会話が途切れた隙間に、私はあえて、自分の優位性を確信するための問いを投げかけた。 「……いません。私なんて、ずっと部屋に閉じこもっているだけですから。由紀子さんは……?」 「実は、私、いるんですよ。それも十歳も年下の大学生なんですけど。周りからは白い目で見られることも多くて、苦労しているのよ……」 私はわざと困ったような溜息を吐きながら、内側では勝利の美酒に酔いしれていた。学歴では負けていても、女としての幸福――自分を愛し、守ってくれる若くて優秀な男の存在――においては、私の方が圧倒的に勝っているのだという残酷な優越感。 すると、綾乃は私の自慢に抵抗するように、頬を微かに強張らせて口を開いた。 「わ、私も……。京大生で、五つ年下の男の子の友達がいるんですよ。同じマンションに住んでいて、とても優しいんです。この前、兄が説教しに来て、耐えきれず外に逃げ出して階段で泣いていたら、彼が優しく慰めてくれて……」 彼女の話が進むにつれ、私の胸の奥で嫌な動悸が鳴り始めた。 「ゴミ捨ての時とかに一緒に行って、よく話すんです。ときどき、私の部屋で一緒にゲームもしてくれて。……今度、勇気を出して、デートに誘おうと思っているんです」 「……その人のこと、好きなんですか?」 私が問い詰めると、綾乃は少女のように顔を赤らめ、「……そうなんです。あんなに素敵な人は、他にいないから」とはっきりと答えた。 マンションの中に入り、階段を上りながら、不穏な確信が私の全身を駆け抜けていた。 「由紀子さんは、何階なんですか?」 「……三階よ」 「あ、私も三階なんです。」 綾乃は、ようやく見つけた友人に心を開くように、無邪気な笑みを浮かべて私の隣を歩く。そして、三〇三号室の扉の前に辿り着いた時、すべての真実が白日の下に晒された。私はわざと、合鍵を使ってその扉を開けてみせた。 「えっ……。由紀子さん、ここなんですか? ……じゃあ、隼人君って……」 彼女の声が、恐怖と絶望に染まって震えた。私が「そうよ、彼が私の恋人よ」と冷徹に告げると、綾乃の顔からは血の気が一気に失せ、まるで死人のような蒼白さになった。 彼女が想いを寄せていた「優しい京大生の友達」は、私の腕の中で甘えている男だったのだ。 綾乃は言葉を失い、喉を鳴らしながら、崩れ落ちるような足取りで自分の部屋へと逃げ帰った。私はその後ろ姿を冷ややかに見つめながら、勝者の悦びよりも深い、暗い泥沼のような共依存の闇が、さらに深く私たちを飲み込んでいくのを感じていた。

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