正論の礫
食卓に置かれた通帳の、最後に記帳された乏しい数字。そして、革が馴染みすぎて少しだけくたびれた財布の中身。私はそれらを、まるで失いたくない命の灯火でも数えるかのように、何度も、何度も繰り返し確認していた。指先がページの端をなぞるたびに、現実という名の冷気が背筋を這い上がってくる。
「由紀子さん、さっきからどうしたの? 何か買いたいものでもあるの?」
背後からかけられた隼人君の声に、心臓が大きく跳ねた。不信感を隠しきれない彼の視線が、私の後頭部に突き刺さる。
「……なんでもないわ。ただ、明日の献立を考えていただけ」
「大丈夫だよ、そんなに気を使わなくて。もし何か必要なものがあるなら、僕が奢ってあげるから言ってごらんよ。塾のバイト代、少し入ったし」
その言葉は、本来なら慈雨のように私を癒やすはずのものだった。けれど今の私にとっては、それは煮えたぎる鉛を耳に流し込まれるような屈辱だった。十も年下の、まだ社会の本当の汚れも知らない少年に、生活の困窮を憐れまれ、施しを提案される。その事実が、私の中に辛うじて残っていた「年上の女」としての矜持を、無惨に踏みにじっていく。
「……大丈夫だからっ!」
思わず叫ぶように声を荒らげてしまった。静かな部屋に、私の刺々しい拒絶が残響となって漂う。
「由紀子さん……? そんなに怒らなくても。僕はただ、いつもお世話になってるお礼にと思って……」
隼人君が戸惑ったように眉を寄せ、身を引く。その無垢な善意が、余計に私の醜さを際立たせた。
「……ごめんなさい。ちょっと、虫の居所が悪かっただけなの」
私は謝罪を口にしながら、逃げるようにテーブルへ視線を落とした。その拍子に、無造作に放り出していたスマートフォンの画面が、無慈悲に光を放った。そこには、近所の美容院の「カラー・トリートメント料金表」が映し出されていた。
「……由紀子さん、美容院に行きたいの?」
隼人君が、画面を覗き込む。
「でも、この前行ったばかりじゃん。まだ一週間も経ってないよ」
指摘された通りだった。親からの五万にも満たない仕送りだけで食いつなぐ無職の私が、短期間に二度も美容院へ通う余裕などあるはずがない。一週間前の染髪代だって、結局は彼の財布に甘えて出してもらったものだ。
「その……黒に、染め直したくて。ほら、私……もうすぐ三十になるでしょう? なのに、こんな浮ついた茶髪のままなのは、なんだか……不相応な気がしてきて」
それは、今この瞬間に喉の奥から絞り出した、あまりにも見え透いた無様な嘘だった。本当は、隣の部屋のあの女が持つ、漆黒の輝きが憎くてたまらないだけ。彼女が持つ「隼人君との共通点」を、力ずくで奪い取り、自分のものに書き換えたいだけなのだ。
「別に、三十を超えたって派手に髪を染めてる人なんていくらでもいるよ。そんなの気にしすぎだって」
「……隼人君は、黒と茶色、どっちが好きなの?」
私は、彼の顔色を伺うように尋ねた。
「茶色かな……。今の色、よく似合ってると思うよ」
気を遣ってそう言ってくれた彼の優しさが、逆に私の喉元を締め上げる。
「でも、どうして急に染め直そうなんて思ったの? この前美容院から帰ってきたときは、あんなに嬉しそうに鏡を見ていたのに。……何かあったの?」
「別に……何もないわよ」
「もしかして、誰かに嫌味でも言われた? コンビニの面接とかで……」
隼人君の追求は、合理的で、正しくて、だからこそ救いがない。
「そうじゃないの。ただ……ただ、その……」
「なに?」
「……隼人君とお揃いに、したかっただけなの」
震える声で告げたその言葉は、甘い愛の告白などではなく、逃げ場を失った獣の悲鳴に近いものだった。
「今更? 会ってからずっと茶髪じゃん、由紀子さん。……無理して僕に合わせなくても、今の由紀子さんのままで、十分だよ」
隼人君の放つ「正論」という名の礫が、私の歪んだ思考をさらに狂わせていく。私の持つゆがんだ思考、醜い内面を見れば彼は何というだろうか、それともそれを含めて肯定してくれるのか。私には分からない。
「ありがとう、隼人君。……なんだか、私、疲れているみたいなの……」
私はこれ以上、彼の澄んだ瞳に見つめられることに耐えきれず、顔を隠すようにして彼の胸に縋り付いた。隼人君は、戸惑いながらも私の背中を優しく、一定のリズムで撫でてくれる。
その手の温もりが、今の私には酷く遠い場所にあるもののように感じられた。
思考がぐわぐわと揺らいで、世界の輪郭が溶けていく。
通帳の残高隣の女の黒髪、そして、刻一刻と近づく三十歳の誕生日。
それらが巨大な渦となって、私を暗い水底へと引きずり込んでいく。
私はただ、彼にしがみつくことしかできなかった。何も考えたくない。何も見たくない。
彼の鼓動を聞きながら、私は、自分の心が砂の城のように音もなく崩れていくのを、ただぼんやりと感じていた。




