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無常  作者: 七瀬遥
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虚飾の染髪

二階の踊り場で時間が凍りついたような錯覚に陥る。足元に転がってきたビールの空き缶を拾い上げた私の指先は、不自然なほど小刻みに震えていた。その音に反応したのか、散らばった缶をかき集めていた女は、拾う手をぴたりと止め、しゃがみ込んだ姿勢のまま、弾かれたような俊敏さで私の方を振り向いた。 「あ……あの、これ……落ちましたよ」  私はなぜか、自分より幾分か年下であろうその女に対して、抗いようのない恐怖を抱いていた。まるで、自分の心の奥底に隠している醜い腐敗をすべて見透かされているような、そんな得体の知れない圧迫感。震える手で缶を差し出すと、彼女もまた細い指を伸ばし、私たちの指先がわずかに、けれど決定的な接触を持った。  その瞬間、背筋に冷たい電流が走った。  彼女の指は、湿った初夏の熱を帯びている私の手とは対照的に、驚くほど冷徹に冷え切っていた。それはまるで、陽の光を一切知らない地下室に置かれた磁器の欠片のようで、私は生理的な拒絶反応から思わず指を引っ込めそうになった。命の温もりが感じられないその冷たさは、彼女の病的なまでの白さを、より一層際立たせていた。  彼女もまた、突然の隣人との接触にどぎまぎとした様子で、「あ、ありがとうございます……」と消え入りそうな声で応えた。  俯いた彼女の視線の先には、破れたビニール袋から溢れ出した大量のビールのアルミ缶が無造作に転がっている。安っぽい、アルコール度数の高いストロング系の缶。その数を見れば、それが一人で消費されるものであることは、同じように「夜の住人」である私には一目で理解できた。  彼女は私の視線に気づくと、恥辱に染まったように頬を一瞬だけ強張らせ、とっさに取り繕うような言葉を口にした。 「え、えっと……これは……あの、今日、友達がたくさん私の家に来る予定なので……。それで、多めに買っておこうと思って……」  それは、今この瞬間に思いついたばかりの、見え透いた無様な嘘だった。彼女の震える声も、泳ぐ視線も、何一つその言葉を裏付けてはいない。友人が大勢集まるような人間が、こんな平日の夕暮れ時に、たった一人でコンビニ袋を破きながら階段で缶をぶちまけるはずがないのだ。  私は、その惨めな嘘に対して、冷笑を浴びせたい衝動を必死に抑え、なるべく平然を装った「大人」の声を出す。 「そうなんですか。……でも、飲み過ぎは体に良くないですよ。お互い、気をつけましょうね」  親切な隣人を演じながらも、私の内側では醜悪な観察眼が牙を剥いていた。至近距離で見る彼女の容姿。私は必死に、彼女の美しさを否定するための欠点を探し求めた。目尻の形、鼻の高さ、肌の質感。けれど、探せば探すほど、彼女の持つ「残酷なまでの若さと透明感」が、私の胸を鋭く刺し貫いていく。  彼女は残りの缶を、まるで盗んだ宝物を隠すような必死さで拾い上げると、逃げるように階段を駆け上がっていった。パタパタという乾いた足音が遠ざかるにつれ、私の中に残ったのは、激しい拒絶と怒りだった。 (許せない……)  何が許せないのか。彼女が酒に溺れた生活を送っていることではない。自分と同じように、何者にもなれずに繭の中に引きこもっていることでもない。  ただ、あの女が。  私が愛してやまない、隼人君と同じ「漆黒の髪」と「透き通るような白い肌」を持っていることが、たまらなく許せなかった。  夕闇の中で、彼女の黒髪がふわりと揺れた瞬間の残像が、網膜に焼き付いて離れない。それは、私がかつて写真の中で陶酔した、あの頃の隼人君のコントラストそのものだった。  それに引き換え、今の私はどうだ。  私は、踊り場の窓ガラスに映る自分の姿を、呪わしいものを見るかのように凝視した。  一週間ほど前、気分転換に美容院で染めたばかりの、明るい茶色の髪。当時はそれが「華やかな大人の女性」に見える魔法だと思っていた。けれど今、あの女の漆黒の輝きを目の当たりにした後では、この髪色は、単に若作りに失敗した色褪せた枯れ草のようにしか見えなかった。  隼人君の隣に並ぶべきなのは、この汚い茶髪の女ではない。彼と同じ、純潔で、冷ややかで、深い闇を湛えた黒を持った者であるべきなのに。 (……黒に、染め直そうかしら)  一万円以上もかけて整えたばかりの髪を、すぐにでも黒い絵の具で塗り潰したい衝動に駆られる。後悔が、どろりとした液体となって喉の奥に込み上げてきた。  私は、日傘を握る手に力を込め、逃げ去った女が残した微かなアルコールの臭いを振り払うように、一歩一歩、重い足取りでスーパーへの道を急いだ。  隼人君。  私は、あなたにふさわしい女になりたいだけなの。  そのためなら、この身を何度だって塗り替え、何度だって偽ってみせるわ。  たとえ、その代償として支払うのが、もう二度と戻ってこない自分の魂だったとしても。

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