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無常  作者: 七瀬遥
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暗闇での共鳴

日傘の陰と、黒い記憶の再会  朝の光が、埃の舞う六畳間に容赦なく差し込んでいる。隼人君は寝癖のついた頭を気にすることもなく、使い古したキャンパスバッグの中に、講義のレジュメが入ったクリアファイルと、一晩中充電器に繋がれていたノートパソコンを無造作に詰め込んでいた。その手つきはどこか投げやりで、それでいて若者特有の、時間に追われない万能感に満ちている。 「隼人君、もう九時半よ。学校は大丈夫なの?」 「大丈夫だよ。今日は二限からだし、十時半に教室に着けば間に合うから」  彼は呑気に、欠伸を噛み殺しながら身支度を済ませていく。その無防備な横顔を眺めていた私は、ふと彼の頬に走る、わずかな色の変化に気づいた。昨日の散歩のせいか、あるいは連日の登校のせいか、彼の透き通るような白肌が、ほんのりと茶色く、不純物を混ぜたようにくすんで見えたのだ。 「隼人君……あなた、少し日焼けした?」 「そうかな? 自分じゃよく分からないけど」 「ちゃんと日焼け止めを塗らないからでしょ。若いうちのケアを怠ると、後で取り返しのつかないことになるんだから。ほら、私のお古じゃないわよ、一番いいやつを貸してあげるからこっちに来て」  私はドレッサーから、UVカットクリームを取り出した。自分の指先に、真珠の粒のような白濁したクリームを載せる。 「いいよ別に、男なんだし。そんなのベタベタして気持ち悪いよ」 「いいから黙って。じっとしてて」  拒絶する彼を強引に引き寄せ、私はその頬に指を這わせた。指先から伝わる彼の肌は、吸い付くような弾力と瑞々しい熱を帯びていて、私の胸の奥に鋭い嫉妬の針を突き立てる。けれど同時に、彼を自分好みの色に塗り潰し、保護し、管理しているという甘美な支配欲が、私の指先をより丁寧に、より愛おしそうに動かさせた。  私はだらしない女だ。自分の洗濯物さえ溜め込み、昼過ぎまで寝腐っているような、社会から見捨てられた落伍者だ。けれど、隼人君のこととなると、驚くほど甲斐甲斐しく、神経質なまでの世話焼きへと変貌してしまう。彼を汚したくない。彼に傷一つつけたくない。それは愛というよりも、手に入れたばかりの高級な陶器を磨き続ける蒐集家の執念に近いものだったかもしれない。私は彼の頬に残ったクリームを、私は必要以上に何度も塗り広げた。 「はい、これで大丈夫よ。そうだ隼人君、今日はこれも持っていって。私の日傘」 「日傘? 由紀子さん、そんなの持ってたっけ?」 「最近の温暖化は異常だわ。熱中症も怖いし、太陽光は肌の敵なの。新しく、遮光率が高いものを買ったのよ」 「大丈夫だって、そんなの差して歩いてる男なんていないよ。由紀子さんが使うでしょ? 今日、スーパーに行くんでしょ」 「私は昼間には行かないわ。いつも夕方、日が落ちかけてから行っているもの。だからいいのよ、持っていきなさい」 「いいってば、もういいから。行ってくるよ」  逃げるように玄関を飛び出そうとする彼の背中に、私は「もう、子供なんだから」と、わざとらしく呆れた溜息を吐いてみせた。そして彼を呼び止め、スマートフォンを取り出して、数ヶ月前の、大学に入る直前の彼の写真を見せつけた。 「ほら見て。これ、去年のあなたの写真よ。今のあなたと違って、雪みたいに真っ白でしょう?」 「そうかな……。あんまり変わんないと思うけど」 「全然違うわよ。今のあなたは、少しずつ外の世界に汚染され始めているの。私は……前のままのあなたがいいの」  写真の中に映る隼人君は、抜けるような白い肌と、カラスの濡れ羽色のような黒髪が美しいコントラストを描いていた。その清廉な、毒気の抜けた姿に私はしばし陶酔する。しかし、その陶酔の最中、私の心臓を冷たい指先がなぞったような、奇妙な嫌悪感が走った。  この、白と黒のコントラスト。  この、ひんやりとした不気味なほどの清潔感。  どこかで見たことがある。いや、知っている。はっきりと、私の身体が、細胞が、その色彩に対して強烈な「拒絶」を記憶しているのだ。つい最近、どこか、あのマンションの廊下で……。  形容しがたい不快感を胃の奥に抱えたまま、一日は過ぎていった。  やがて日が落ち始め、夕闇が街を支配する頃、私はようやく重い腰を上げた。いつものように「外の世界」と対峙するための武装として、左手には大きなカバンを下げ、右手には一度も隼人君に触れられることのなかった日傘を握り、扉を開けた。  廊下を曲がり、一階へと続く階段を降りようとした時、二階の踊り場でカラン、カラン……と、乾いた金属音が響いた。  私の足元へ、一本のビールの空き缶が転がってくる。  何気なくそれを拾い上げようと視線を落とした先。そこには、乱雑に破れたビニール袋から散らばった大量の空き缶を、焦ったようにかき集めている一人の女性がいた。  街灯の届かない薄暗い踊り場で、彼女の姿が浮かび上がる。  季節外れの雪のような、不健康なまでに白い肌。  腰まで伸びた、艶やかな、呪わしいほどに美しい漆黒の髪。  ……ああ、思い出した。  私を絶望させた、隣の部屋の、あの女だ。  けれど、今の彼女にあの時の凛とした涼やかさはなかった。安物のストロング系の缶を床にぶちまけ、這いつくばるようにしてそれを拾い集める彼女の姿は、私と同じ、あるいは私以上に、この社会の底で窒息しかけている「敗北者」の匂いをさせていた。  私は手に取った空き缶を、ただ黙って見つめていた。  隼人君の中に感じていた、あの「白と黒」の美しさの正体が、目の前で崩れ落ちているこの女と同じ色をしていたことに、私は言葉にならない戦慄を覚えた。隼人君の過去の写真に見ていた「美しさ」と、私の心を掻き乱していた「嫌悪感」の正体が、今、鮮明な形となって目の前に現れた。  私は日傘を握る手に、知らず知らずのうちに力がこもるのを感じていた。

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