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無常  作者: 七瀬遥
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「春の影」

周囲の華やかさが、春の熱された吐息のような、まとわりつく空気の気持ち悪さと相まって、私のわずかな幸福をじわじわと蝕んでいく。  視界に入るのは、人工物だらけの無機質な通り。道路沿いには、申し訳程度の愛想として街路樹が植えられているだけだ。その低い柵の向こう側では、触れば火傷しそうな高温の鉄の塊たちが、不快な排気ガスを撒き散らしながら高速で走り回っている。左側からは、傲慢なまでに白い石壁が日光を反射させ、容赦なく私の肌を焼きにかかる。


 ほんの少し前までは、私は誰よりも幸福だと思っていた。そう信じていた。けれど今は、この世に生まれてきたこと自体を呪っているような気がする。  若さ。ただそれだけの輝きに囲まれるだけで、これほどまでに胸を掻きむしられるような思いをするのなら、いっそ生まれなければよかった。この無機質な道が、地獄の果てまでずっと続いていくような気がして、私は眩暈を覚える。 (どうしてお母さんは、私を産んだの。苦しいよ……)  ほんの少し、大学の近くを通っただけ。それだけで、自分がゴミ捨て場に放り出された残飯のように惨めに思えてしまう。私は逃げるように、鮮やかな色彩を放つ若者たちの群れを突き抜け、人気の少ない古いマンションへと逃げ込んだ。


「はぁ……やっぱり、ここが一番落ち着くわ……」


 二十代前半の、まだ無知だった頃は、東京のきらびやかな街に住みたいと願ったこともあった。けれど今は、そんな欲望は微塵も感じない。もっと、誰もいない田舎がいい。隼人君と二人きりになれる場所。世間の「時間」から切り離された、淀んだ水底のような場所で、じっとしていたい。  私はようやく荒い呼吸を整え、冷たい壁から手を離して階段を上がっていった。  角を曲がり、廊下の先を見据えた瞬間、私の心臓が嫌な音を立てた。


 そこに、一人の女がいた。  季節外れの雪を思わせる、冷ややかな空気を纏った女。彼女の周りだけ、空気がひんやりと凍てついているようだった。  まず目を奪われたのは、艶やかな漆黒の長い髪だ。腰のあたりまで届くその髪は、触れずとも指の間を滑り落ちるさらさらとした感触が想像できてしまう。次に目を射抜いたのは、不健康なまでに透き通った白い肌。その不気味なほどの白さが、黒髪のコントラストによってさらに強調されていた。


 その美しさが、私の劣等感を極限まで煽る。私は必死に、彼女の欠点を探そうと目を凝らした。  私と違って、胸が薄い。まるで子供のような、起伏のない胸。けれどそれは、私と違って、重力に負けて垂れ下がる心配もないということだ。咎めようにも咎められない。その小ささが欠点なのか、それとも若さの象徴としての美点なのか、今の私の濁った思考では判断することすらできなかった。  女は涼しい顔をして、私が入ろうとしていた部屋の隣――三〇二号室の中へと消えていった。


 部屋に入るなり、私は買い物袋を床に放り出し、鏡の前に陣取った。  ギラギラとした日光と、あの吐息のような不快な空気に晒されたせいだ。家を出る前よりも、肌のコンディションが絶望的に悪化している気がする。 「あ……っ……」  鏡の中の女が、私を嘲笑っていた。ほうれい線が、目の下のクマが、そして細かい皺が、さっきより数ミリ深く刻まれているように見える。 「もっと、電気つけなきゃ……。暗いから変に見えるだけよ」  私は部屋中の照明を、限界まで明るくした。  光の洪水が、肌の凹凸を無理やり飛ばしてくれる。 (そうよ、これが本当の私。さっきのは光の加減が悪かっただけ……あんな暗い廊下じゃ、私の本当の顔なんて分かるはずないじゃない)  自分に言い聞かせながら、ふと、さっきの隣の女の顔を思い出す。  ぼんやりとした記憶の中で、私は懸命に比較を始めた。 (……私のほうが、かわいい。鼻だって私のほうが高いし、目だって私のほうがぱっちりしている。そうよ、私は歳をとっても、そこら辺の若いだけの女より、ずっと綺麗なのよ)  何度も、何度も、呪文のように繰り返した。


 その時、ガチャリと玄関の鍵が開く音がした。 「どうしたの、由紀子さん。こんなに明るくして」  隼人君が帰ってきた。 「な、何でもないの。今日は早かったのね」 「そう? もうすぐ四時だよ」  耳を疑った。私が部屋に逃げ込んできたときは、確かに三時にも満たなかったはずだ。鏡の前で自分を肯定する作業に、一時間も費やしていたのか。  隼人君は疲れ果てた様子でカバンを置き、だらだらと部屋着に着替え始めた。 「隼人君、元気ないね。疲れてるの?」 「うん……」 「せっかく第一志望の大学に受かったのに、最近ずっと元気ないじゃない。大学、楽しくないの?」 「別に。……授業受けて、帰るだけだよ」  その言葉に、私はひそかな喜びを覚えた。 (そっか……隼人君も、私と同じなのね)  大学という、若さが爆発するような場所。そこに馴染めず、独りで帰ってくる彼。私たちは、この狭い部屋というシェルターの中でしか呼吸できない同類なのだ。


「じゃあ、膝枕してあげる。疲れたでしょ?」 「……大丈夫だよ」  小さな声。けれど、そこには明らかな甘えの響きが混じっていた。  やっぱり、隼人君は私の運命の人。この世でたった一人、私を肯定してくれる存在。  私は隼人君の体を引き寄せ、その頬に情熱的なキスを落とした。 「ど、どうしたの急に……?」 「愛してるわ、隼人君……」 「僕も、愛してるよ。由紀子さん」  困惑していた彼の顔が、ふわりと和らいだ。私の頬にキスを返してくれる。その柔らかな唇の感触に、さっきまでの不安も、隣の女への嫉妬も、すべてが溶けて消えていきそうだった。  もっと。もっと深く交わって、この汚い現実から逃避したい。  秘所が疼いて、仕方がなかった。 「ねぇ、隼人君……お姉さん、もう我慢できないの。……今から、私のこと好きにしていいのよ?」  私は彼の首に手を回し、唇を重ねようとした。


 しかし、隼人君の手が、私の肩を優しく、けれど拒絶するように押し返した。 「ご、ごめん。この後、アルバイトの面接があるんだ。……ごめんね、由紀子さん。帰ったら続きしよう」  その言い方は、駄々をこねる子供をあやすようで、耐え難い屈辱だった。  高まった情動が、一瞬で冷え切った羞恥に変わる。自分の淫らさだけが白日の下に晒されているようで、顔が火照った。


「……いつ帰ってくるの」 「たぶん、一時間後くらいかな。近所の塾でバイトする予定なんだ」  甘ったるい快楽の世界から、引き戻された先は、刺すような現実だった。 「由紀子さん、そんなに落ち込まないでよ」 「早く、帰ってきてね。……私、最近寂しくて……」 「うん。すぐに帰ってくるよ」  そう言って、彼は発情したままの私を置いて、着々とスーツに着替え始めた。


 私にとって、そのスーツ姿を見ることすら苦痛だった。  それは、私の忌まわしい社会人時代を強制的に蘇らせる。毎日、何の意味があるのかも分からず、ただ機械的に朝起きて、スーツという拘束衣に身を包み、満員電車に揺られていた日々。  いつか、彼もあちら側の世界へ行ってしまう。  いつか、あの地獄のような日々が、私の元へも戻ってくるのではないか。 (もう二度と、あんな思いはしたくない。サラリーマンなんて、働きたくない。ずっと、ここにいたい。ずっと、引きこもっていたい……)  去っていく隼人君の背中を見送りながら、私は激しい吐き気と、言いようのない孤独に、ただ震えることしかできなかった。

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