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偽りの残像


嵐が大島へと上陸した夜、羽田家の居間は、外の喧騒とは対照的な「死んだような静寂」に包まれていた。


食卓の端で、水野奈緒は静かに茶を啜っている。その所作の一つひとつに、かつての天真爛漫な彼女の面影はない。


「……ねえ、舞子お姉ちゃん。知ってる? この家の屋根裏の三番目の梁、そこには昔、代々の巫女が『自分の名前』を刻んでいたのよ。でも、私の名前だけは、どこを探しても見当たらないの」


奈緒が淡々と語るその内容は、当主である舞子ですら、古文書の端に記されていたのを見たことがあるかどうかの、一族の秘中の秘だった。


「奈緒……もうやめて。あなたは、そんなことを知っているはずがないわ」


舞子の声が震える。だが、奈緒は空っぽの瞳で舞子を見つめ返し、小首を傾げた。


「どうして? 私はずっとこの家にいたわ。この畳の下、壁の隙間、そして……舞子お姉ちゃんの影の中に。あなたが幸せな夢を見ている間も、私は冷たい闇の中で、あなたの記憶を数えていたの」


その瞬間、隣に座っていた鳴海が、限界を超えた共鳴を引き起こした。


「……っ! 舞子姉さん、離れて!」


鳴海が叫ぶと同時に、奈緒の体から、泥のような黒い波動が噴き出した。

鳴海の視界に流れ込んできたのは、奈緒の感情ではない。この羽田家という土地が、数百年もの間、浄化の陰で切り捨て、無かったことにしてきた


「名もなき巫女たちの絶望」


の集合体だった。


「(……この子、奈緒じゃない。奈緒の体を依り代にして、この家が捨ててきた『影』そのものが実体化しようとしているんだわ!)」


鳴海は奈緒の腕を掴もうとしたが、その手は氷のような冷たさに弾き飛ばされた。


奈緒……いや、奈緒の姿をした「何か」は、ゆっくりと立ち上がった。その足元、灯りに照らされた彼女の影は、もはや人間の形を留めていない。いくつもの手が這い出し、舞子と鳴海の足元へと触手を伸ばしてくる。


「鳴海、下がって!」


舞子が鎮魂の鈴を構えるが、奈緒はそれを嘲笑うように冷たく笑った。


「その鈴の音は、神を呼ぶためのもの。……でも、今ここにいるのは、神に見捨てられた私たちよ。ねえ、舞子お姉ちゃん。私の代わりに、今度はあなたがあの『白闇』へ行ってくれる?」


奈緒の背後の襖が、内側から激しい力で叩かれる。まるで、閉ざされた「浄化の箱庭」の扉が、奈緒の共鳴に呼応して、家そのものを飲み込もうとしているかのようだった。


「奈緒……戻ってきて……!」


舞子の悲痛な叫びも、嵐の唸り声にかき消されていく。


猫島で貞子が祈りを捧げた「過去の救済」とは裏腹に、ここ大島では、救われなかった影たちが、最も純粋で脆い「妹」という依り代を得て、ついにその牙を剥いたのだった。

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