静かな巡礼
嵐の咆哮は激しさを増していたが、貞子の心は不思議なほど凪いでいた。
彼女が嵐の中へ踏み出したのは、何か恐ろしい怪物と戦うためでも、強大な闇を封印するためでもなかった。
(……もし、あの脱け殻が見せた記憶が本物なら)
貞子は、ぬかるむ足元を懐中電灯で照らしながら、記憶の中の断片を繋ぎ合わせていた。
暗闇、冷たい水、息ができない苦しみ。それは単なる「呪いの根源」としてのイメージではなく、かつてこの島のどこかで、実際に誰かが味わった「生」の終わりだったのではないか。
生前の、まだ「呪い」になる前の自分。あるいは、自分と同じ運命を辿った、名もなきこの島の少女。
「……確かめたいの。あなたがそこにいたことを」
貞子が目指したのは、井戸そのものではなく、郷土資料館の裏手にひっそりと佇む、風化した無縁仏の墓地だった。
資料館で見つけた「影を切り離す祭祀」の記述。それがもし事実なら、切り離された影(心)を井戸に捨てられた後、残された「器(体)」はどうなったのか。おそらくは、魂を抜かれた抜け殻として、この島の片隅でひっそりと土に還ったはずだ。
「ここね……」
生い茂る草をかき分けた先に、文字も読み取れなくなった小さな石仏が並んでいた。貞子はその前で足を止め、静かに膝をついた。
激しい雨が肩を叩く。だが、貞子は構わず合羽のフードを外し、泥にまみれた石仏の一つにそっと手を触れた。そこには、かつての自分――脱け殻の貞子が語った「裏切り」や「怨嗟」の奥底に隠されていた、ただの少女としての「震えるような寂しさ」が、今も冷たい石に染み付いている気がした。
貞子はそっと目を閉じ、手を合わせた。
「……怖かったわね。独りぼっちで、冷たかったわね」
その言葉は、石仏を通して、かつてこの島で犠牲になった者たち、そして自分自身の過去へと捧げられた。
不思議なことが起きた。
貞子が祈りを捧げると同時に、あれほど荒れ狂っていた周囲の風が、ふっと止んだのだ。雨は降り続いているが、貞子の周りだけが、まるで巨大な繭に包まれたような、温かく静かな沈黙に満たされた。
その静寂の中で、貞子は確かに聞いた気がした。
「……ありがとう」
という、幼い少女の、風のような囁きを。
貞子は、この島に執着した理由をようやく理解した。彼女は戦いに来たのではない。かつての自分と同じ絶望の中に置き去りにされた者たちを、今の自分の「安らぎ」で包み込み、供養したかったのだ。
「もう大丈夫よ。……私は、独りじゃないから」
貞子が再び目を開けた時、石仏の表面に、雨水とは違う、柔らかな光が宿ったように見えた。
だが、貞子の心が救済を見出した一方で、遠く大島の羽田家では、皮肉にもその「救済」から零れ落ちた負の感情が、奈緒という器を借りて最悪の形へ変貌を遂げようとしていた。




