嵐の前の告白と海鳴りの安らぎ
雨が降り始めた猫島の港で、栞は最後のフェリーに飛び乗った。デッキから遠ざかる島を見つめると、雨に霞む山影が、まるで巨大な獣がうずくまっているかのように見えた。
栞は客室の隅で、震える手でスマートフォンを取り出した。真っ先に連絡したのは、博多の「海猫亭」で貞子を待っているはずの親友、葉月だった。
「……もしもし、葉月さん? 栞です。驚かないで聞いてください」
栞は、猫島で見つけた不気味な祭祀の記録、そして何より、貞子が「自分のルーツに近い何かを感じる」と言って、一人嵐の島に残ったことを手短に伝えた。
「貞子が……一人で? どうして、そんな……」
葉月の困惑した声が受話器から漏れる。栞は唇を噛み締めた。
「彼女、自分の脱け殻と対峙した時の記憶と、この島の井戸の記憶が重なっているみたいなんです。……私は今から、異変の起きた大島の羽田家に戻ります。葉月さん、どうか、貞子さんに電話をしてあげてください。今の彼女には、こちらの世界と繋ぎ止める『縁』が必要なんです」
一方、嵐が本格化し始めた猫島の民宿
貞子は、停電で薄暗くなった部屋で、一人窓の外を眺めていた。叩きつけるような雨の音、激しい波の音。それらはすべて、かつて自分が井戸の底で聞いた絶望の調べに似ていた。
自分を捨てた世界への、激しい怨嗟。
井戸の底に沈められた「影」たちの嘆き。
貞子の意識が、ゆっくりと暗い深淵へと沈み込みそうになったその時、手元でスマートフォンが震えた。
「……葉月?」
画面に映る親友の名前に、貞子の強張っていた肩の力がふっと抜けた。通話ボタンを押すと、嵐の音をかき消すような、明るく、それでいてどこかお節介なほど温かい声が響いた。
『貞子! あんた、何やってんのよ! 栞ちゃんから聞いたわよ。こんな嵐の日に一人で島に残るなんて、相変わらず無茶苦茶なんだから!』
「……ごめんなさい。でも、どうしても確かめたいことがあったの」
『確かめるのはいいけど、ちゃんと帰ってくるのが条件だからね! 明後日、海猫亭の新作メニューの試食、あんたに毒見してもらうんだから。遅れたら承知しないんだからね』
毒見、という葉月らしい茶化しに、貞子の口元に自然と微かな笑みが浮かんだ。
井戸の底の冷たい水ではなく、海猫亭のキッチンに満ちる温かな湯気の匂い。孤独な怨嗟ではなく、騒がしくも愛おしい日常の会話。
「ええ……。必ず帰るわ。……ありがとう、葉月」
電話を切った後、部屋を支配していた不気味な静寂は、不思議と和らいでいた。貞子は「イザナミの鏡」を強く握りしめる。
自分はもう、あの暗い井戸の底で泣いていた少女ではない。
帰る場所があり、待っている人がいる。
「さあ、見届けに行きましょうか。……この島に置き去りにされた、もう一つの『私』を」
貞子は合羽を羽織り、懐中電灯を手に取ると、嵐の渦巻く「根子島」の深部へと、迷いのない足取りで踏み出した。




