欠けた頁(ページ)と異分子の記憶
猫島の郷土資料館。
埃の匂いと潮風が混じり合う静寂の中で、栞は古い手記の頁をめくる手を止めた。
「貞子さん、これを見てください……。『根子島』と呼ばれていた頃の、失われた祭祀の記録です」
栞が指し示したのは、掠れた墨で書かれた、不気味な儀式の写本だった。そこには、古来よりこの島では「影」は魂の一部ではなく、いつか主を飲み込む「外敵」として扱われていたことが記されていた。
「……『影を切り離し、井戸の底に沈めることで、純粋なる光の器を得る』。でも、そんなことをしたら、人間としての心が……」
「……欠けてしまうわね」
貞子が栞の言葉を引き継いだ。資料館の窓の外では、夕闇が迫り、島の猫たちが一斉に山の方を向いて、何かを警戒するように背を丸めている。
「切り離された影は、井戸の底で『根の国』の闇と混ざり合い、いつか自分を捨てた主を求めて戻ってくる。……栞ちゃん、この島の人たちが名前を変えたのは、その恐ろしい習慣を歴史から消したかったからかもしれないわ」
一方、大島の羽田家。
夕食の席には、舞子が作った温かな湯気が立ち上っていた。しかし、食卓を囲む三人の間に流れる空気は、どこか刺々しい。
「そういえば奈緒、今日のお昼に商店街で買ったアジの干物、あそこの店主さん、昔からよくしてくれたわよね」
舞子が何気なく話を振ると、奈緒は箸を止め、小首をかしげて微笑んだ。
「ええ、舞子お姉ちゃん。あのおじいさん、いつもおまけしてくれるものね。五年前、私が初めて一人でお買い物に行った時も、迷子になった私を助けてくれたって、お母様が言ってたわ」
その瞬間、舞子と鳴海の間で、凍り付くような視線が交差した。
「(……嘘よ。奈緒は五年前、まだここにはいなかった)」
舞子は胸の動悸を抑えながら、冷静に問いかける。
「そうだったかしら。……奈緒、その時のおじいさんの顔、覚えてる?」
「ええ。右の頬に大きな痣があって、いつも少し足を引きずっていたわ」
その描写は、かつて羽田家の近所に住んでいたが、奈緒がこの家に来るよりもずっと前に亡くなった、古い知人の特徴そのものだった。奈緒が知るはずのない、「舞子の古い記憶」。
鳴海は、奈緒の隣に伸びる影が、畳の隙間に吸い込まれるようにゆらりと揺れるのを見た。
「奈緒……あなた、今の記憶、どこで手に入れたの?」
鳴海の声は震えていた。奈緒は「何のこと?」と言いたげな、完璧な「妹の表情」で鳴海を見つめる。だが、鳴海が読み取れる彼女の意識の波形は、先ほどから一変していた。そこにあるのは、奈緒のものではない。
まるで、この土地に積み重なった「数百年分の負の感情」が、奈緒という器を使って、一つの人格を形成しようとしているかのような、巨大で歪な意志。
「舞子お姉ちゃん、鳴海お姉ちゃん。……そんなに怖い顔をしないで。私は、ずっとここにいたじゃない。あなたの影の中に、ずっと……」
奈緒が微笑んだ瞬間、居間の電球が激しく明滅し、彼女の影が天井まで一気に跳ね上がった。




