島の記憶と路地裏の視線
猫島の古井戸に感じた、
「吸い込まれるような黒」
貞子は一度は眉をひそめたものの、その指先をゆっくりと石の縁から離した。今は、この場所を深く詮索すべきではない――直感がそう告げていた。
「……栞ちゃん、井戸はもういいわ。今はただ、この島がどういう場所なのか、もっと別の側面から見てみましょう」
栞は驚いたように顔を上げた。
「調査を切り上げるんですか?」
「調査じゃないわ。この土地の『人』がどう生きてきたかを知りたいの。かつての怨念は浄化したけれど、それを生んだ土壌そのものを、私たちはまだ知らないでしょう?」
二人は不気味な井戸を背に、島の中央にある小さな「郷土資料館」を訪れることにした。そこは古い民家を改装した、職員も常駐していないような無人の施設だった。
埃っぽい室内には、大正から昭和初期にかけての漁具や、手書きの海図が並んでいる。栞は、いつもの巻物に代わる知識を求めるように、古い資料を丁寧に読み込み始めた。
「……面白いです。この島、昔は猫島じゃなくて『根子島』と呼ばれていたみたい。根の国――つまり常世と繋がる場所、という意味を込めて。でも、ある時期から急にその呼び名が消えて、今の名前に変わっている……」
栞が古い手記に目を通している間、貞子はその横で一枚の集合写真を見つめていた。戦後のものだろうか、島民たちが笑顔で写っている。しかし、その写真の隅、一軒の蔵の前に立つ少女の影だけが、不自然に濃く、そして彼女の足元から外に向かって伸びていることに気づき、貞子は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
その頃、博多。
羽田家に戻る道中、水野鳴海は隣を歩く奈緒の「無機質さ」に耐えかねていた。
「奈緒、さっきの商店街の話だけど……」
鳴海が話しかけても、奈緒は「ええ、そうね」と、一分の隙もない、それでいて血の通っていない返事をするだけだ。鳴海が読み取れるのは、彼女の言葉の裏にある感情ではなく、ただ録音された音声を再生しているかのような、平坦な意識の波形だけだった。
「……鳴海姉さん、どうかしたの? 私の顔に何かついてる?」
奈緒が不意に足を止め、鳴海を見つめた。その瞳には、夕焼けの赤が映り込んでいるはずなのに、まるで黒い穴のように光をすべて吸い込んでいる。
「……いいえ。ちょっと考え事をしていただけよ」
鳴海は無理に笑い、奈緒の背中を押して歩き出させた。
羽田家の門が見えてきた時、二人の影は夕日に照らされ、異様に長く伸びていた。鳴海の影は彼女の動きに従っているが、奈緒の影だけは、まるで獲物を狙う蛇のように、鳴海の影の足元へとしなやかに絡みつこうとしている。
鳴海は自身の力が「負の感情を読み取ること」にあるからこそ、この違和感を無視できなかった。奈緒は、奈緒の姿をしている。けれど、その影の中にいるのは、本当に彼女なのだろうか。
猫島の資料館で、栞が見つけた「根の国」というキーワード
博多の玄関先で、奈緒を飲み込もうとしている「自身の影」
「……舞子姉さん、ただいま」
奈緒の明るすぎる声が、静かな羽田家に響き渡った。




