鏡の奥の光
秋の深まりとともに、海猫亭の厨房には新しい香りが満ちていた。
貞子は一人、閉店後の店内で、磨き上げられたステンレスの壁に映る自分を見つめていた。かつて、そこに映る自分は「何者でもない空っぽな脱け殻」に見えていた。しかし、今の貞子の瞳には、静かだが消えることのない「芯」が宿っている。
そこへ、忘れ物を取りに戻ってきた鳴海が、ひょっこりと顔を出した。
「貞子さん? まだ帰らないのですか?」
「ええ。……なんだか、今のこの静かな時間がとても大切に思えて。鳴海さん、私ね、最近思うの。あの時、大島であなたたちに出会わなかったら、私は今でも自分を許せないまま、どこかで震えていたかもしれないって」
鳴海はカウンターの椅子に腰を下ろし、優しく微笑んだ。
「それは、私たちが貞子さんを見つけたのではなく、貞子さんの心が、私たちを呼び寄せたんだと思います。……あなたが自分自身を救おうと一歩踏み出したから、光と影が交差したんですよ」
翌日の午後、街に穏やかな秋の陽光が降り注ぐ中、あの「観測者」九条が店を訪れた。
彼はいつも通り、多くを語らずに『雫』を注文したが、その所作には以前のような冷徹な警戒心は消え、どこか安堵したような空気が漂っていた。
「……良い凪だ。君の打つ葛の音が、以前よりも透き通って聞こえる」
貞子は静かに頭を下げた。
「九条さん。あなたは以前、私のことを『略奪者』だと言いました。……今、あなたから見て、私はどう見えていますか?」
九条は、青いジュレをスプーンですくい、光に透かして見せた。
「……今は、そうだな。荒れた海を静める『鎮め石』のように見える。君がここに居ることで、本土に散らばった同族たちの、ざわついていた意識も少しずつ落ち着き始めているようだ」
「……同族たちの、意識?」
「君が自分の影を受け入れたことは、目に見えない波紋となって、同じ血を引く者たちに伝わっている。……彼らはもう、君を排除しようとは思わないだろう。むしろ、君という『前例』ができたことで、彼らもまた、自分たちの呪縛をどう扱うべきか、考え始めている」
九条が去った後、貞子は店を通り抜ける秋風を感じていた。
自分の変化が、会ったこともない遠くの誰かの心まで、静かに癒やし始めている。
「(私一人じゃない……)」
夕方、学校から戻った奈緒が、いつものように元気な声で「貞子さん、今日ね!」と駆け込んでくる。
大島にいる舞子や栞。そして博多で寄り添う鳴海と奈緒。
彼女たちが織りなす「日常」は、今、目に見えない多くの人々の「希望」を支える、大きくて温かな網の目になろうとしていた。
運命の大きなうねりは一度収まり、今はただ、穏やかな秋の潮騒だけが聞こえてくるようだった。
続く。




