井戸の静寂と博多の落影
猫島の古井戸を囲む木々は、日の光を遮るように濃い影を落としていた。栞は、いつもなら無意識に手が伸びるはずの羽田家の巻物を、今日はリュックの底に沈めたままにしている。
狗ヶ岳の決戦以来、その巻物は文字が掠れ、今の彼女たちが直面している「静かな違和感」については何も答えてはくれない。
「……手がかりがないって、こんなに心細いものなんですね、貞子さん」
栞がぽつりと呟く。かつては巻物の知識で事象を定義し、安心を得ていた。だが今は、自分の指先の感覚と、肌で感じる冷気だけが判断材料だ。
貞子は井戸の縁にそっと触れた。
「知識は、誰かが歩いた後の『足跡』に過ぎないわ。足跡がないということは、私たちが新しい道を歩いている証拠よ。……それより栞ちゃん、この井戸、何かおかしいわ」
貞子が井戸を覗き込むと、水面は鏡のように静止していた。だが、そこには空の青も、貞子の顔も映っていない。ただ、どこまでも深い、吸い込まれるような「漆黒」が広がっているだけだった。
同じ頃、博多。
活気ある商店街を、水野奈緒は一人で歩いていた。姉の鳴海は、近くの薬局で舞子のために頼まれた常備薬を買っている。
「アジの干物、お姉ちゃんたちの分も買って……あとはお豆腐かな」
買い物袋を手に、奈緒はふと路地裏の入り口にある大きな姿見に目を止めた。衣料品店の店先にある、年季の入った立て掛け鏡だ。
奈緒は何気なく自分の姿をチェックした。
だが、次の瞬間、心臓が跳ねた。
鏡の中の「自分」が、笑っていなかった。
奈緒自身は驚きで目を丸くしているのに、鏡の中の奈緒は、無表情なまま、ただじっとこちらを見つめている。
「……え?」
奈緒が思わず一歩下がると、鏡の中の自分は、逆に一歩前へと踏み出してきた。鏡の表面が、水面のようにわずかに波打つ。
奈緒は自分の足元を見た。
正午の太陽が真上にあるはずなのに、彼女の影は不自然に長く、細く伸びていた。その影の指先は、奈緒の動きを無視して、鏡の置かれた路地裏の闇へと這い寄っていく。
「奈緒! 何してるの?」
背後から鳴海の声が響いた。
その瞬間、鏡の中の無表情な自分も、影の指先も、弾かれたように元に戻った。
「あ、鳴海姉さん……ううん、なんでもない。ちょっと、鏡にゴミがついてるのかなって」
奈緒は動揺を隠して微笑んだが、鳴海は鋭く妹の顔を覗き込んだ。鳴海は「人の感情を読み取る力」を持っている。だが、今、奈緒から伝わってくるのは、いつもの温かな感情ではなく、まるで深い井戸の底から吹き上がるような、からっぽな風の音だけだった。
「(奈緒の心の音が……聞こえない。そこにいるのに、いないみたいだわ)」
鳴海は不安を抑え込み、奈緒の手をぎゅっと握りしめた。
「……帰りましょう。舞子姉さんが、家でお茶を淹れて待ってるわ」
猫島で静まり返った井戸を見つめる貞子と、博多で「自分の影」に違和感を覚える奈緒。
二つの場所で、静かな日常が、音もなく剥がれ落ちようとしていた。




