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日常の中の観測者





翌日、博多の街には活気が溢れていた。




夏休みが終わり、ランドセルを背負った子供たちの声が響く中、奈緒もまた「いってきます!」と元気に水野の家を出ていった。




一方で、海猫亭の開店準備を進める貞子の心は、なぎのように落ち着いていた。昨夜、鳴海にすべてを打ち明けたことで、正体不明の不安が「向き合うべき課題」へと変わったからだ。




「貞子、今日の『雫』の準備は万端?」




葉月が威勢よく声をかける。




「ええ、バッチリよ。少しだけ甘さを控えて、より透明感を意識してみたわ」




「おっ、さらなる改良ね。負けてられないわ!」




そんな二人のやり取りを、店長の紗栄子はカウンターの隅で見守っていた。彼女の鋭い眼差しは、貞子の僅かな変化――以前よりも深い落ち着きを持って客席を見渡すようになった姿を捉え、静かに満足げな笑みを浮かべていた。




その日の午後、ランチのピークが過ぎた午後二時。


予測していたかのように、あのスーツの男が再び暖簾をくぐった。


男はいつものカウンターの端ではなく、今日は店全体が見渡せる二人掛けのテーブル席に座った。貞子は、鳴海の言葉を思い出しながら、深呼吸をして彼の前へ進み出た。




「いらっしゃいませ。……今日は、『雫』と『あかり』、どちらにされますか?」




男は顔を上げ、貞子をじっと見つめた。その瞳には、前回の刺すような警戒心ではなく、どこか品定めをするような、あるいは懐かしむような色が混じっている。




「……今日は、君が選んでくれ。今の私の気分に合う方を」




試すような言葉。貞子は一瞬考え、それから迷いなく『雫』を準備した。




「今のあなたには、こちらを。……外の風が少しずつ、秋の冷たさを帯びてきましたから。心を鎮める味が必要かと思いまして」




男は運ばれてきた透明な菓子を、一口、ゆっくりと味わった。そして、ボソリと独り言のように言った。




「……猫島の祭壇で君を見た時、私は君を『略奪者』だと思った。我々が守ってきた静寂を、かき乱しに来た無作法な部外者だとね」




貞子は手を止めず、グラスを磨きながら耳を傾ける。




「だが、この味はどうだ。……君は、あそこの影を奪いに来たのではない。あそこの影を、自分の一部として慈しむために行ったのだな」




「……私は、ただ、知りたかっただけです。自分の本当の名前を」




貞子の答えに、男は初めて、小さく声を立てて笑った。




「名前、か。……いいだろう。私は『九条くじょう』という。君が何者であるか、私はまだ知らないし、知る必要もない。ただ、君がその味を作り続ける限り、私はここへ足を運ぶことになるだろう。……この博多の街で、あの島の『潮の香り』を正しく覚えている者は、君くらいのものだからな」




九条と名乗った男は、それ以上は何も語らず、デザートを平らげると、一通の名刺をテーブルに置いた。そこには名前と電話番号だけが記されており、所属も肩書きも一切ない。




「敵でも味方でもない。ただの、観測者ですよ」




男が店を出て行った後、貞子は名刺をそっとエプロンのポケットに仕舞った。




彼は本土に散った「鏡の一族」の末裔なのか、それとも一族を見守る役割を持った別の存在なのか。依然として謎は残るが、少なくとも、もう彼は「闇から狙う脅威」ではなかった。

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