静かな夜に明かされた予兆
夜、営業を終えた海猫亭の明かりが消え、博多の街に静かな月が昇った。
貞子と鳴海は、潮風が微かに届く公園のベンチに座っていた。昼間の賑やかさが嘘のように、周囲は深い静寂に包まれている。
「……実は、新作のデザートを始めた日から、ある男性が店に来るようになったの」
貞子は、温かい飲み物のカップを両手で包み込みながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「その人は、私の正体を知っているわけじゃないみたい。でも、あの日……猫島の大干潮の時に、私が祭壇の前にいたことを見ていたのよ。私を敵だと思っているのか、それとも別の何かなのか……とにかく、私を強く『警戒』しているような、探るような視線を感じるの」
鳴海は、遮ることなく静かに耳を傾けていた。貞子の声は、怖がっているというより、その「正体の見えなさ」に戸惑っているようだった。
「『我々にとって、見過ごせることではない』……彼はそう言ったわ。でも、それが組織の人間なのか、それとも私と同じように『あの場所』に縁があるだけの個人なのかも分からない。ただ、あの干潮を待っていた人間が、私の他にもいたということだけは確かよ」
鳴海は、貞子の話を聞きながら、大島で感じていたあの「計測するような視線」を思い出していた。
「貞子さん。……実は、私たちが大島を離れる直前、羽田家にも同じような気配が漂っていたんです。それは、以前のような禍々しい怨念じゃなくて、もっと静かで、こちらの様子をただじっと見極めようとしているような……」
鳴海は、貞子の肩にそっと手を置いた。
「その男性が、私たちの敵なのか、あるいは何かを警告しようとしている味方なのか、今はまだ決めつけることはできませんね。でも、あの大干潮という節目を経て、今まで眠っていた『何か』が、貞子さんや私たちの動きに反応して目を覚ました……。そんな気がするんです」
「……そうね。敵だとしたら、もっと直接的なことをしてくるはずだものね」
貞子は小さく息を吐いた。
一人で抱えていた時は、暗闇の中から狙われているような心地だったが、鳴海に話したことで、その男が「単なる脅威」ではなく「自分と同じ背景を持つかもしれない存在」という別の側面で見えてきた。
「今は焦らず、その人が何を求めているのかを見極めましょう」
鳴海は、貞子の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「貞子さんは、いつも通り海猫亭で美味しいお菓子を作っていてください。あなたはもう、あの頃の弱かった貞子さんじゃありません。何があっても、今度は私と奈緒が、そして大島の舞子姉さんたちもそばにいます」
貞子は、鳴海の言葉に深く頷いた。
「ありがとう、鳴海さん。話せてよかった。……私、まずは自分の足元をしっかり固めるわ。この日常を大切にしながら、その人がまた現れるのを待ってみる」
月明かりの下、二人は立ち上がった。
あのスーツの男が、古くから猫島を知る一族の末裔なのか、それとも全く別の目的を持つ観測者なのか。その正体は依然として謎のままだが、貞子の心には、それを正しく見極めようとする静かな勇気が宿っていた。
「さあ、帰りましょう。明日からは奈緒の学校も始まります。私たちも、いつも通りの毎日を精一杯過ごしましょうね」
鳴海に促され、貞子は一歩を踏み出した。夜風は少し冷たかったが、その足取りは、昨日よりもずっと軽やかだった。




