対極の甘味、一会の決断
翌朝、海猫亭の厨房には開店前から凛とした空気が張り詰めていた。
カウンターの上には、二つのデザートが並んでいる。
葉月の一皿:『博多あかりの果実最中』
鮮やかなベリー系の餡を、香ばしく焼いた最中の皮で挟んだもの。餡の赤は情熱を、添えられた白玉は活気を表している。一口食べれば、酸味と甘みが弾け、体の底から元気が湧いてくるような一品だ。
貞子の一皿:『鏡の海、静寂の雫』
極限まで透明に固められた葛の中に、猫島の夜空を思わせる深い青のジュレが閉じ込められている。添えられたのは、あの橙の香りを移した蜜。光を透かすその姿は、まるで大干潮の夜にだけ現れる奇跡の海を切り取ったかのようだ。
紗栄子は、まず葉月の最中を口にした。
サクッという小気味良い音。葉月の性格をそのまま写したような、真っ直ぐで力強い甘みが広がる。
「……ええ。お酒の後の口直しに、この鮮烈な酸味はとても心地よいわ。葉月、自分の強みをよく理解しているわね」
次に、紗栄子は貞子の雫にスプーンを入れた。
抵抗なく解ける葛と、鼻に抜ける爽やかな柑橘の香り。それは甘味というよりも、心を洗う「体験」に近いものだった。
「……。これは、食べる人を静かな場所へ連れて行く味ね。貞子さん、あなたが見てきた『影の安らぎ』が、たしかにここに宿っているわ」
見守る沙織も二つの味を確かめ、うーんと唸った。
「店長、これは決められないわよ。太陽と月、どっちが必要かって言われてるようなものだもの」
紗栄子は眼鏡を外し、少しだけ目元を緩めた。
「葉月、あなたの最中は、今日という日を笑顔で締めくくるための『希望』よ。そして貞子、あなたの雫は、今日起きたすべてのことを静かに受け止めるための『祈り』だわ」
二人は息を呑んで、次の言葉を待った。
「どちらかを不採用にするなんて、海猫亭の看板に泥を塗るようなものね。……でも、メニューを増やすだけじゃ面白くない。こうしましょう」
紗栄子が指し示したのは、お品書きの最後の余白だった。
「その日の『波の高さ』で決めるのよ」
「波の高さ……?」
葉月がキョトンとして問い返す。
「そう。お客様が元気を求めて、店が活気に溢れている賑やかな夜には、葉月の『あかり』を。逆に、雨の日や、静かに語り合いたい夜、心に傷を負った方が訪れた夜には、貞子の『雫』を出す。……その日の潮目を見て、私と沙織がどちらを出すか決めるわ。名付けて『一期一会の潮目菓子』」
「……一本取られたわ。でも、それって最高に海猫亭らしいわね!」
葉月が晴れやかな笑顔で貞子の肩を叩いた。貞子も深く頷いた。競い合うことで、お互いの色がより鮮明になったことを感じていた。
しかし、この決定が下されたその日の午後、あのスーツの男が再び暖簾をくぐった。
男は迷うことなくカウンターの端、貞子の手元がよく見える位置に腰を下ろした。そして、お品書きに書き加えられたばかりの文字を指先でなぞる。
「……今日は、風が凪いでいる。こちらの『雫』を頂こうか」
貞子は無言で会釈し、透明な葛の中に青い記憶を封じ込めた一皿を差し出した。男はスプーンを手に取る前に、じっとそのデザートを見つめ、それから視線をゆっくりと貞子へと上げた。
その瞳には、単なる客としての好奇心ではなく、獲物を見定めるような、あるいは侵入者を峻別するような鋭い「警戒」の色が宿っていた。
「……あの日の猫島は、ひどい嵐だった」
男が静かに口を開いた。貞子の心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
「百年に一度の大干潮。海が裂け、現れるはずのない祭壇が姿を現したあの刻。……君は、あそこの石板の前で、何をしていたのかな?」
男の問いは、貞子の正体を知っている者のそれではない。むしろ、自分たちが守るべき、あるいは自分たちだけが知るべき「聖域」に、なぜ見知らぬ小娘が入り込み、祈りを捧げていたのか――それを測りかねている、強い疑念の響きがあった。
「私は……。ただ、自分のルーツを探していただけです」
貞子は努めて冷静に、しかし真っ直ぐに男の視線を跳ね返した。男はしばらく貞子の瞳の奥を探るように見つめていたが、やがてふっと視線を逸らし、雫のようなデザートを一口、口にした。
「……。君が何者かは知らない。だが、あの場所を知っている者が、この博多の街でこうして平然と菓子を作っている。それは、我々にとって見過ごせることではないのだよ」
男はそれ以上何も語らず、デザートを完食すると、代金を置いて店を出て行った。
「(我々……。あの大干潮を待っていた人たちが、他にもいたんだわ)」
貞子は、男が触れたカウンターの冷たさを感じながら、窓の外を見つめた。
男は貞子が「鏡の一族」の末裔である確証は持っていない。しかし、あの日、あの場所にいた貞子を「警戒すべき異分子」として認識した。
日常の象徴である海猫亭のカウンターを挟んで、静かに、しかし決定的な「境界線」が引かれた瞬間だった。




