独りの夜
海猫亭の賑やかな灯りを後にし、貞子は自分のアパートへと戻った。
古びた階段を上がる足音だけが、静かな夜の空気に響く。鍵を開け、暗い部屋の灯りをつけると、そこには一年前に引っ越してきた時と変わらない、質素ながらも整えられた空間が広がっていた。
「……そういえば、もう一年になるのね」
貞子はポットにお湯を沸かし、一人分の茶を淹れた。湯気の向こう側で、この一年間に起きた出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
あの日、神奈川の羽田にある「海門」の封印に立ち向かった時の、あのアザミの花のような、切なくも力強い感覚。羽田梓の力を引き継ぎ、自分が何者かの意志を継ぐ存在であることを自覚した激動。
自分自身の負の感情が「脱け殻」となって現れ、鏡に映る自分と対峙するように、その醜さも悲しみもすべて受け入れた葛藤。あの時、逃げ出さずに自分を抱きしめたからこそ、今の「芯」のある自分がいるのだと、貞子は改めて噛み締める。
そして、先日の猫島――
自分のルーツが、切り離され、捨てられた「影」の系譜にあることを知った。けれど、それは決して絶望ではなかった。呪いを恐れるのではなく、それを「癒し」に変えることができるのだと、お静さんや石仏たちが教えてくれた。
「(色んなことがあった。……本当に、色んなことが)」
貞子は自分の掌を見つめた。かつては冷たく、何かを掴むことさえ怖がっていたこの手が、今は料理を通じて誰かを温め、葉月や沙織さん、店長といった「家族」のような人々と繋がっている。
ふと、机の端に置かれたデザートの試作ノートに目をやる。
そこには、自分にしか作れない「静寂の味」へのヒントが、いくつも書き込まれていた。
「ルーツを知った今の私だから、作れるものがある。……空っぽの器として逃げてきた先祖たちが、最後に見つけたかった安らぎを、形にしたい」
窓の外では、博多の街の灯りが遠くで瞬いている。
この街のどこかに、あの不思議な雰囲気の男や、大島で自分たちの道を歩む四姉妹がいる。
潮が動き出し、隠されていたものが姿を現わしたこの年に、自分がこの場所に居合わせたのは、決して偶然ではないだろう。
貞子は、冷めかけた茶を最後の一口まで飲み干すと、静かに立ち上がった。
不安はない。一年前の震えていた自分はもういない。
「……明日も、頑張ろう」
一年の重みを力に変えて、貞子は明日、葉月との「真剣勝負」に挑む。




