甘い火花と見えない視線
新作「潮寄せ煮」の成功は、海猫亭にこれまでにない一体感をもたらした。しかし、当主である紗栄子の手綱は緩まない。熱気が冷めやらぬ閉店後の店内で、彼女はさらなる課題を二人に突きつけた。
「寄せ煮の成功は見事だったわ。でも、食事の締めくくりが良くなければ、お客様の満足は完結しない。次は……デザートを任せるわ」
二人が顔を見合わせる。紗栄子は眼鏡を光らせ、言葉を継いだ。
「ただし、今度は合作じゃない。葉月、あなたの一品。貞子、あなたの一品。それぞれ独立した新作を出しなさい。どちらを正式に採用するか、あるいは両方置くかは、出来栄え次第よ」
「……個人戦ってことね。望むところよ!」
葉月が拳を握り、闘志を燃やす。
一方で、貞子は静かに頷いた。
「分かりました。自分のルーツ、そして今の自分にしか作れないものを、考えてみます」
翌日から、厨房には奇妙な緊張感が漂い始めた。
葉月は「博多っ子が元気になれる甘味」をテーマに、得意の餡子と季節の果実を組み合わせ、何度も煮詰め方を変えていた。
「うーん、もっとパンチが欲しいのよね。食べた瞬間に『あ、明日も頑張ろう』って思えるような……」
鍋をかき混ぜる葉月の背中は、情熱の塊そのものだった。
対する貞子は、一人静かに「水」と向き合っていた。
彼女が考えていたのは、猫島で見たあの透き通った海、そして石仏たちが求めていたであろう「清らかな安らぎ」
「(影を癒すような、透明な甘さ……。舌の上で消えてしまうような、淡い記憶のような味……)」
貞子は、寒天や葛の配合を変え、極限まで透明度を高めたデザートを模索していた。
二人は互いの作業を意識しながらも、あえて口は出さない。協力して一つの味を作った時とは違う、個人の感性がぶつかり合う静かな火花が、海猫亭の裏側で散っていた。
そんなある日の昼下がり。
ランチタイムの喧騒が引き始めた頃、一人の男が暖簾をくぐった。
仕立ての良い落ち着いたスーツを纏い、一見するとどこかの大学教授か、あるいは骨董商のような、知的ながらもどこか掴みどころのない雰囲気の男だ。
男はカウンターに座ると、昨日から正式採用された「潮寄せ煮」を注文した。
「……なるほど。これは、ただの料理ではないな」
男は一口食べると、独り言のように呟いた。その声は、忙しく立ち働く葉月の耳には届かなかったが、厨房の奥で精神を研ぎ澄ませていた貞子の耳には、妙に明瞭に響いた。
貞子がふと視線を向けると、男と目が合った。
男は微かに微笑み、会釈をする。それは一般客としての礼儀正しい仕草だったが、その瞳の奥には、深い観察眼が宿っているように見えた。
「ご馳走様。……次に来る時は、新しい『甘味』も期待していますよ」
男はそれだけを言い残し、会計を済ませて悠然と店を出て行った。
「……何、あの人。ちょっとカッコいいけど、不思議な雰囲気」
沙織が首を傾げる。
「(あの人……何かを知っている?)」
貞子は動悸が速くなるのを感じた。だが、今はそれ以上に、目の前の課題――自分の心を映し出すデザートを完成させなければならない。
男が去った後の空気に、微かな潮の香りが残っているような気がした。それは、100年に一度の潮が動き始めている予兆なのかもしれない。




