お披露目と繋がる味
ついに「海猫亭」の新作メニュー発表の日がやってきた。
店の前の黒板には、葉月の勢いのある筆致で
『新作:猫島仕込みの潮寄せ煮、数量限定』
の文字が躍っている。
店内に漂う香りは、いつもの甘辛い醤油の匂いに、ほんのりと清々しい柑橘の香気が混ざり、どこか異国の港町を思わせる不思議な調和を見せていた。
開店直前、厨房には張り詰めた緊張感が漂っていた。
「……貞子、準備はいい?」
「ええ。橙の皮も、最高の状態で用意したわ」
二人は視線を交わし、力強く頷く。
その背後で、紗栄子店長は腕を組み、あえて厳しい表情で鍋の中を覗き込んでいた。その横では、沙織が「私が一番に味見したいわぁ」と、箸を手に今か今かと待ち構えている。
「……いいわ。盛り付けなさい。海猫亭の新しい顔になるかどうか、お客様に判断していただきましょう」
紗栄子の号令と共に、暖簾が掲げられた。
最初に入ってきたのは、近所に住む常連の老人たちだった。
「ほう、新作かね。……なんだ、この香りは。懐かしいような、それでいて初めて嗅ぐような……」
運ばれてきた「潮寄せ煮」は、博多風の濃い出汁をベースにしながらも、猫島で貞子が触れた「透き通った海の記憶」を宿していた。一口食べた老人が、目を見開く。
「……美味い。出汁の奥に、海の深みがある。それにこの柑橘……後味が驚くほど爽やかだ」
一人、また一人と新作を注文し、店内は瞬く間に静かな感動に包まれていった。
厨房の隙間からその様子を窺っていた葉月は、貞子の肩を叩いて、声にならない歓喜のポーズをとる。
「貞子! 見て、みんなスープまで飲み干してくれてるわ!」
「……良かった。あの島の石仏たちに、少しだけ恩返しができた気がする」
貞子は、そっと自分の胸に手を当てた。
この味には、切り離された「影」たちを包み込んだあの夜の優しさが込められている。それが、食べる人々の心を温めているのだと確信できた。
中休みに入り、ようやく自分たちの賄い(まかない)の時間になった。
さっそく新作を口にした沙織は、大袈裟に身悶えて見せた。
「ちょっと! これ、悔しいけど完璧じゃない。葉月の力強さと、貞子ちゃんの繊細さが、喧嘩しないで手をつないでる感じ。……負けたわ、私」
「ふふ、沙織さんにそう言ってもらえるのが一番の難関だと思ってました」
貞子が冗談めかして返すと、店中がどっと沸いた。
最後の一口をゆっくりと味わっていた紗栄子は、静かに箸を置くと、二人に向かって頷いた。
「合格よ。……技術もそうだけど、何より『誰かを想う気持ち』が味に出ているわ。貞子さん、あなた、本当に良い顔をするようになったわね」
その言葉に、貞子の視界が少しだけ潤んだ。
ルーツを辿り、自分を受け入れたことで、彼女の作る料理には「命」が宿り始めたのだ。
しかし、賑やかな笑い声が響く海猫亭の入り口で、一人の男が足を止めていた。
男は新作の案内が書かれた黒板をじっと見つめ、それから店内に漂う「猫島の香り」を深く吸い込むと、誰にも気づかれぬよう、不敵な笑みを浮かべて去っていった。
「……見つけた。鏡の家の、残り香か」




