凪の島と見えない綻び
猫島に到着した二人が目にしたのは、拍子抜けするほど穏やかな光景だった。
かつての禍々しい「神隠し」の噂が嘘のように、港では島民たちが網を繕い、その傍らで無数の猫たちが日向ぼっこを楽しんでいる。
「……本当に、静かですね。あの時の重苦しい空気が、まるで悪い夢だったみたい」
栞は、重い肩の荷を下ろすように小さく息を吐いた。今回の目的は、何かを解決することではない。狗ヶ岳での決戦後、一時的な封印を施した「古井戸」と「祠」が、その後どう馴染んでいるかを確認し、土地を労うための、いわば「お見舞い」のようなものだった。
二人はまず、山の中腹にある祠へと向かった。
貞子が持ち歩いている「イザナミの鏡」は、今はこの地の平穏と共鳴するように、冷たく澄んだ輝きを保っている。祠の前に着くと、栞は持参した水で周囲を清め、丁寧に手を合わせた。
「巻物には『浄化の後は土地が枯れることがある』とだけ一筆あったけれど……ここは大丈夫そうね。緑も深くなっているわ」
栞が祠の石肌をそっと撫でる。狗ヶ岳での一件以来、彼女は巻物を「答えが載っている地図」ではなく、先人が残した「使い古された日記」のように捉えるようになっていた。そこには今の自分たちが直面している事態の正解など載っていない。ただ、かつて同じように苦悩した誰かの、微かな足跡があるだけだ。
祠の点検を終えた二人は、そのまま島の裏手へと続く散策路を歩き出した。
目的地の「古井戸」へ向かうにはまだ時間がある。二人は急ぐこともなく、島特有のゆったりとした時間の流れに身を任せることにした。
「貞子さん、見てください。あんなところにも猫が」
栞が指差す先、古い石垣の上に、黒猫がまるで見張り番のように座っていた。二人が近づいても逃げる様子はなく、金色の瞳でじっとこちらを見つめている。
「この島の猫たちは、土地の気の流れに敏感なのよ。彼らがこうして寛いでいるのは、今のところ大きな『歪み』がない証拠ね」
貞子が歩みを止めると、黒猫は一度だけ小さく鳴き、尾を揺らして茂みの奥へと消えていった。
潮騒の音、木々のざわめき。時折、古びた民家の軒先から干物の香りが漂ってくる。
何気ない景色。何気ない会話。
けれど、貞子はふとした瞬間に、足元の影が自分たちを追い越していくような、奇妙な錯覚に囚われた。
「……栞ちゃん、何か聞こえなかった?」
「え? 潮の声と、鳥の鳴き声くらいですけど……どうかしたんですか?」
「いえ……。ただの空耳だとは思うのだけれど。誰かが、ずっと遠くで名前を呼んでいるような気がして」
貞子の視線の先には、島の中央に鎮座する古井戸の森があった。
空は晴れ渡り、太陽の光が降り注いでいるというのに、その森の入り口だけが、まるで吸い込まれるような濃い藍色に染まっている。
二人はそれ以上言葉を交わさず、示し合わせたように井戸へと足を向けた。
平和な島の日常の裏側で、古井戸の底に溜まった「静寂」が、まるで息を止めて誰かの来訪を待っているかのような、奇妙な圧迫感を放ち始めていた。




