新作の迷宮と見守る眼差し
嵐のあとの静寂を塗り替えるように、「海猫亭」には活気あふれる日常が戻ってきていた。
店長の紗栄子は、カウンターの奥で帳簿を付けながら、時折チラチラと厨房の方へ視線を走らせていた。今回の新作メニュー開発に関しては、あえて二人に「丸投げ」を宣言している。
「いい? 葉月、貞子。今回はあなたたちの若い感性に任せるわ。私は一切口を出さないから、納得のいくものを作ってみなさい」
そうは言ったものの、紗栄子の手元にあるペンはさっぱり進んでいない。新作が店に馴染むか、二人が喧嘩していないか、心配でたまらないのだ。
厨房では、葉月が額に汗を浮かべながら、大きな鍋と格闘していた。
「……うーん、やっぱり何かが足りない。猫島で貞子が食べてきたっていう『島の家庭料理』の要素を入れたいんだけど、どうしても博多の濃い味に負けちゃうのよね」
葉月が挑んでいるのは、里芋と近海魚を使った「海猫流・寄せ煮」だ。
貞子が島から持ち帰った、素朴だが深い味わいの記憶を形にしようとしていた。
貞子は隣で、繊細な手つきで薬味の準備をしていた。
「島では隠し味に、少しだけ天日干しの柑橘を削り入れていた気がするわ。……葉月、これを少しだけ試してみない?」
貞子が差し出したのは、橙の皮を極限まで細く刻んだものだ。猫島でお静の家の庭で見かけた、あの香りの記憶。
「それよ! 貞子、ナイス!……よし、もう一回出汁からやり直し!」
葉月の勢いに、貞子も思わず苦笑しながらも、その目は真剣だった。以前のような「どこか心ここにあらず」だった貞子ではない。
今の彼女は、自分のルーツから得たインスピレーションを、この店の味として昇華させることに、かつてない喜びを感じていた。
そんな二人の様子を、ホールで開店準備をしながら、先輩の沙織がニヤニヤと眺めていた。
「あらあら、熱心ねぇ。貞子ちゃん、島から帰ってきてから一段と手際が良くなったんじゃない? まるで何かに目覚めたみたい」
沙織は雑巾がけをするふりをして厨房の入り口まで忍び寄り、二人の鍋の中身を覗き込もうとする。
「沙織さん! まだ味見は禁止です! 最高の状態で出しますから!」
葉月に一喝され、沙織は「おっと」と手を挙げて退散した。そのまま紗栄子の隣へ移動し、声を潜める。
「店長、見てくださいよ。心配しなくても、あの二人、いいコンビになってますよ。特に貞子ちゃん。あんなに自分の意見をはっきり言う子でしたっけ?」
紗栄子は帳簿を閉じ、眼鏡を指で直しながら、小さく微笑んだ。
「そうね……。あの子、何を見つけてきたのかは話してくれないけれど。今の貞子さんの目には、迷いがないわ。……でもね沙織、焦がさないかだけは見ておいて。火力が強すぎるわよ、今の葉月は」
「はいはい、承知いたしました」
海猫亭を包むのは、新しい味を生み出そうとする熱気と、それを支える家族のような温かな眼差し。
新作「根子島風・寄せ煮」が完成するまでには、まだ何度かの試作が必要そうだが、その過程さえもが、今の貞子にとってはかけがえのない「生きている実感」だった。




