海猫亭
猫島から戻った貞子が「海猫亭」の暖簾をくぐったのは、夕暮れ時、ちょうど開店準備が整った頃だった。
店内に一歩足を踏み入れると、出汁の香りと、使い込まれたカウンターの木の匂いが鼻をくすぐる。それは猫島の潮風や、蔵の埃っぽさとは無縁の、生きた人間が作り出す「日常」の香りだった。
「ただいま、葉月」
貞子の声に、厨房で仕込みをしていた葉月の手が止まった。勢いよく顔を上げた親友の瞳には、一瞬の驚きと、それから溢れんばかりの安堵が広がった。
「……貞子! あんた、本当に帰ってきたのね!」
葉月は濡れた手をエプロンで拭うのももどかしく、カウンターを飛び越えて貞子のもとへ駆け寄った。
「ちょっと、痩せたんじゃない? 顔色も……あ、でも、なんだか前よりスッキリしてる。変なものに憑かれて帰ってきたわけじゃなさそうね」
葉月は貞子の肩を掴んで前後左右から入念に観察し、ようやく満足げに胸をなでおろした。その勢いに、貞子は思わずクスリと笑った。
「変なものには憑かれてないわ。……むしろ、ずっと置き去りにしていたものを、ちゃんと持って帰ってきた感じ」
「難しいことは後! とりあえず座って。今、あんたが一番好きな『特製肉じゃが』、作りたてがあるから。それを食べてから、ゆっくり聞かせてもらうわよ」
開店したばかりの店内には、まだ客の姿はない。
貞子はいつものカウンターの端に座り、湯気を立てる肉じゃがを口に運んだ。
ジャガイモの甘みと、ホッとするような醤油の味。
「……美味しい」
「でしょ? 貞子がいない間、新作の試作が溜まってるんだから。明日からはしっかり働いてもらうわよ」
葉月はそう言いながら、自分も向かいに座り、お茶を啜った。貞子は、猫島での出来事をかいつまんで話した。お静という老婆のこと、大干潮で現れた祭壇のこと、そして、自分のルーツである「鏡の家」と、本土へ逃れた「器」の物語を。
葉月は茶化すこともせず、ただ静かに頷きながら聞いていた。
「……そう。あんたの先祖も、大変な思いをして海を渡ってきたのね。でもね、貞子」
葉月は貞子の手を、温かい掌で包み込んだ。
「その『器』が空っぽだったとしても、その後に代々の人たちが、美味しいものを食べて、誰かを好きになって、一生懸命生きて……そうやって中身を詰め込んできたから、今のあんたがいるんでしょ? 私にとっては、ルーツがどこかなんて関係ないわ。私の親友は、今ここにいる貞子なんだから」
葉月の真っ直ぐな言葉に、貞子の胸の奥の澱が、すうっと消えていくのを感じた。
「そうね……。私、ようやく自分が自分であることを、許せるようになった気がする」
店内の古い時計が、ボーンと時を告げた。
暖簾の隙間から、最初の客が覗き込む。
「いらっしゃい!」
葉月の威勢のいい声が響き、海猫亭の夜が始まる。
注文を取りに走る葉月と、それを手伝うために立ち上がる貞子。
二人の間には、これまで以上の深い信頼と、嵐を乗り越えた者だけが持つ、穏やかな光が満ちていた。




