表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/17

潮騒の墓標と、失われた名





お静の言葉を胸に、貞子は北の海岸へと向かった。


空は茜色を通り越し、不気味なほどの紫に染まっている。水平線はかつてないほど遠ざかり、普段は荒波に隠されている漆黒の岩礁が、肋骨のように無数に突き出していた。




「……これが、『大干潮』」




貞子は、ぬかるむ砂地を一歩ずつ踏みしめる。背後では、島に残った猫たちが一斉に鳴き声を上げ、まるで異界へと向かう彼女を呼び止めようとしていた。




やがて、二つの巨大な奇岩が門のようにそびえ立つ場所に辿り着いた。その先には、波に洗われ続けて滑らかになった、円形の石舞台が姿を現していた。


そこは「鏡の家」が執り行ってきた、影を切り離すための秘密の祭壇だった。




祭壇の中央には、数本の石柱が倒れ、その周囲を囲むように、潮だまりに埋もれた無数の石板が並んでいる。貞子がその一つに歩み寄り、表面の海藻を手で払いのけた。


そこには、お静が言っていた「影を剥ぎ取られた娘たち」の名が刻まれていた。




「……ここには確かに彼女たちの生きた証がある」




貞子は次々と石板を拭っていった。やがて、祭壇の最も高い場所に設置された、一際大きな黒い石板の前に立ち、言葉を失った。




『……六代目 てい




「てい……さだ……」




その文字は、長い年月の浸食を受けながらも、鋭く、呪いのような力強さで刻まれていた。その横には、後から書き足されたような微かな文字で、こう記されていた。




『影を奪われし後、海を越え西へ向かう。本体は消え、影は此処に留まる』




貞子の脳裏に、凄まじい勢いで映像が流れ込んできた。


かつて、この祭壇で影を無理やり引き剥がされ、心と言葉を失った少女「貞」。彼女は「聖女」として祀られることを拒み、空っぽの器のまま小舟で海へ逃げ出した。西へ、本土へと。




その「空っぽの器」が本土で命を繋ぎ、長い年月をかけて「貞子」という家系の一部となったのか。あるいは、この島に置き去りにされ、井戸の底に沈められた「貞の影」こそが、怨嗟となって貞子の前に現れた「脱け殻」だったのか。




「(……私は、逃げ出した器の末裔で、あの脱け殻は、ここに捨てられた私の半分だったんだわ)」




貞子がその石板に触れた瞬間、足元の水面が鏡のように輝き、自分と瓜二つの姿をした影が、水底からゆっくりと立ち上がった。


その影は、憎しみで歪んではいなかった。ただ、あまりにも長く孤独な時間を過ごし、誰かが自分を見つけ出し、名前を呼んでくれるのを待っていたかのような、静かな悲しみを湛えていた。




貞子は逃げなかった。彼女は、鏡合わせの自分自身であるその影に向かって、静かに右手を差し出した。




「……もう、自分を削り取る必要はないわ。あなたを、私が連れて帰る」




貞子の指先が影に触れた瞬間、海岸一帯を包んでいた冷たい霧が、黄金色の光となって弾け飛んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ