刻まれた空白
嵐が去った猫島の朝
貞子は、昨夜の安らぎを胸にしまい、再び「根子島」と呼ばれたこの島の沈黙と向き合っていた。
石仏の前で感じた「ありがとう」という微かな声。それは一時的な救済にはなったが、貞子の心の奥底にある乾きを癒すものではなかった。なぜ、自分と同じような「影」たちが、これほどまでにこの島に堆積しているのか。その「仕組み」を知らなければ、本当の意味で彼女たちを、そして自分を解放したことにはならない。
「貞子さん、まだ戻らないんですか……?」
栞が去った後の宿で、貞子は店主に、島に伝わるさらに古い記録について尋ねていた。しかし、返ってくるのは決まって同じ言葉だった。
「……あの井戸や祠より先のことは、誰も知らんよ。ただ、昔から『鏡の干潮』の時だけは、海に近づくなって言われてる。その時だけ現れる道は、生きた人間が歩く道じゃないからってね」
鏡の干潮。貞子はその言葉に、説明できない胸騒ぎを覚えた。
貞子は、郷土資料館の裏にある「立ち入り禁止」と書かれた古い蔵の鍵を、店主から半ば強引に借り受けた。そこには、整理されることさえ拒絶されたような、カビ臭い古文書の山があった。
栞がいたなら、これらを魔法のように読み解いただろう。だが、栞はいない。貞子は自分の指先と、肌にまとわりつく空気の重さだけを頼りに、一冊の、表紙さえ失われた墨書きの束を手に取った。
そこには、これまでの羽田家の伝承とは全く異なる、残酷な「計算」が記されていた。
『……影を吸いし器は、満ちれば溢れる。溢れれば島が沈む。故に、満ちる前に削り取らねばならぬ』
「削り取る……?」
貞子が頁をめくると、そこには歪な図解があった。少女の姿をした「器」から、無理やり影だけを分離し、それを「石」や「井戸」に定着させる手順。それは、貞子が経験した「負の感情の脱け殻」との対峙とは似て非なるものだった。
貞子が経験したのは自然な分離だったが、この島で行われていたのは、一族を守るための「魂の外科手術」だ。
『切り離された影は、意識を持たぬまま、永久に島の地下を巡る。主は影を失い、心なき聖女として数年を生き、やがて枯れる』
貞子は戦慄した。この島の人々が「根の国」と呼び、忌み嫌っていたのは、外部の悪魔ではない。自分たちを守るために、最も慈悲深い娘から「心」を奪い、それを地下の闇に投棄し続けてきた、その「忘却のシステム」そのものだったのだ。
「……だから、みんな同じ顔をしていたのね」
石仏たちが皆、特徴のない滑らかな顔をしていた理由が、ようやく分かった。彼女たちは影を奪われ、個性を奪われ、ただの「浄化の部品」として使い捨てられたのだ。
そして、その記録の最後に、震えるような走り書きがあった。
『鏡の干潮。影たちが主を求めて地上に這い上がる時。その道は、断崖の下、波が裂ける場所に開く。……そこに、最初の器が眠っている』
貞子は古文書を閉じた。
外は再び、不気味なほどに静かな凪が訪れていた。潮位が、これまでにないほど急速に下がっていく。
貞子は、誰に命じられることもなく、海岸線へと続く険しい崖道へと向かった。
それは解決のためではない。歴史という名の巨大な闇に、たった一人で「異議」を申し立てに行くような、孤独な巡礼の始まりだった。




