朱に染まる白紙
「舞子姉さん、これを見て!」
栞が叫びながらリュックから取り出したのは、あの日、すべての文字が消え失せたはずの「羽田家の巻物」だった。
居間に充満する過去の巫女たちの情念に触れた瞬間、その真っ白な紙面が、内側から滲み出すような熱を帯び始める。やがて、墨の色ではなく、まるで生々しい血の跡のような「朱色」の文字が、びっしりと浮かび上がった。
「……名前? 曾祖母様が消したはずの、歴代の巫女たちの『本当の名前』だわ!」
栞が広げた巻物には、家系図から抹消された女性たちの名と、彼女たちが最後に抱いた「最期の言葉」が刻まれていた。
『羽田キヨ:十六にて穢れを負い、離れに幽閉。死して後、名を除く』
『羽田サエ:浄化の代償に声を失い、海へ投ぜらる。家譜に記すべからず』
「ひどい……。光を守るために、こんなにも多くの人たちが、存在さえなかったことにされていたなんて……」
鳴海の瞳から涙が溢れる。彼女は、巻物に刻まれた文字を通じて、彼女たちが味わった「孤独」と「置き去りにされた絶望」をダイレクトに受信していた。
奈緒の体を依り代にしている影たちは、栞が読み上げる名を聞くたびに、激しく震え、その輪郭をより鮮明にしていった。彼女たちは攻撃したいのではない。ただ、自分たちがこの家に確かに存在し、羽田の血を繋いできたことを、誰かに「認めて」ほしかったのだ。
「舞子姉さん、今こそ当主として彼女たちを認めてあげて! 彼女たちは『汚れ』なんかじゃない。私たちと同じ、この家を守ろうとした大切な家族なのよ!」
栞の言葉に、舞子は唇を噛み締め、鎮魂の鈴を固く握り直した。舞子は鈴を振るのをやめ、影たちに向かって深く、深く頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした。私たちは、あなた方の犠牲の上に、この穏やかな日々を築いてきました。あなた方の苦しみを知らず、名前さえ忘れ去っていた。羽田家第十九代当主として、ここに改めて刻みます」
舞子が巻物の朱色の文字に手を置くと、舞子の持つ光の力が、朱色の文字を黄金の輝きへと変えていく。
「あなたたちは羽田の巫女であり、私たちの誇りです。……もう、暗い場所に隠れている必要はありません。私たちの心の中に、その名を刻ませてください」
その瞬間、居間を埋め尽くしていたどろどろとした黒い影が、雪解けのように透き通り始めた。
奈緒の瞳から力が抜け、彼女の背後に重なっていた無数の女性たちの姿が、穏やかな光の粒子へと変わっていく。
「……ああ、温かい……」
奈緒の口から、彼女自身の声ではない、何十人もの安堵の溜息が漏れた。
影たちは奈緒の体から離れ、黄金色に輝く巻物の中へと吸い込まれていく。それは「封印」ではなく、ようやく見つけ出した「安住の地」への帰還だった。
嵐は嘘のように止み、雲の間から月光が差し込む。
奈緒はその場に膝をつき、深い眠りに落ちた。その表情は、先ほどの異様さが消え、年相応の幼い少女のものに戻っていた。
「……終わったのね」
鳴海が力なく呟く。しかし、栞は朱色から金色に変わった巻物を見つめ、静かに首を振った。
「いいえ。これは始まりです。私たちは、この家が隠してきた全ての真実を、これから背負っていかなければならないんだわ」
大島の夜は静まり返ったが、彼女たちの胸には、家系図に載らない先祖たちの重みが、確かな絆として刻まれていた。




