白闇の境界線
奈緒の口から漏れたその言葉は、まるで何百年も地下に閉じ込められていた冷気が吹き出したような、異様な響きを持っていた。
舞子と鳴海が息を呑んだその瞬間、奈緒の瞳から光が完全に消失し、彼女の体は糸の切れた人形のように、ゆっくりと畳の上へ崩れ落ちた。
「奈緒!」
舞子が咄嗟に駆け寄り、その細い肩を抱きとめる。奈緒の体は驚くほど冷たく、心臓の鼓動さえも遠のいているように感じられた。激しく明滅していた居間の電球が最期の瞬きをして弾け飛び、部屋は一転して、深い闇と嵐の雨音だけに支配される。
「鳴海、明かりを! 奈緒の脈が……!」
舞子の焦燥した声に、鳴海は震える手でスマートフォンのライトを点灯させた。白い光が奈緒の顔を照らし出す。その表情は、先ほどまでの冷酷な嘲笑が嘘のように、ただ静かに眠っているだけのように見えた。
数秒、あるいは数分。永遠にも感じられる静寂の後、奈緒の睫毛が微かに震えた。
「……ん、……ぁ……」
小さな、頼りなげな声。奈緒はゆっくりと瞼を持ち上げ、眩しそうに目を細めた。その瞳には、先ほどの「漆黒」はなく、戸惑いと不安に揺れる、いつもの奈緒の色が戻っていた。
「……舞子お姉ちゃん? 鳴海お姉ちゃんも……どうしたの、二人とも。そんなに怖い顔して。私、お茶を飲んでたはずなのに、急に眠くなっちゃって……」
奈緒は自分の状況が飲み込めない様子で、不思議そうに舞子の顔を見つめた。舞子と鳴海は、安堵のあまり言葉を失い、そのまま奈緒を強く抱きしめた。
「ああ、良かった……。奈緒、大丈夫なのね? どこも痛くない?」
「うん、大丈夫だよ。ただ、ちょっとだけ……変な夢を見てた気がする。真っ白な、霧が立ち込めた世界で、誰かが私を呼んでいて……」
奈緒は無邪気にそう笑ったが、その手を握る鳴海は、言葉にできない戦慄を覚えていた。
鳴海の胸に伝わってくる奈緒の心の音は、確かにいつもの彼女のものだった。けれど、その純粋な音のすぐ裏側に、まるで鏡合わせのように、一切の波形を持たない「底なしの静寂」が、薄い膜一枚を隔てて張り付いているのを感じ取ったからだ。
「(消えたんじゃない……あの中に入り込んで、馴染んでしまったんだわ)」
奈緒は自分の中の「異物」に気づいていない。あるいは、あえて気づかないようにしているのか。
嵐は依然として羽田家を揺らし続けていたが、奈緒の変貌は一旦の収束を見せた。しかし、彼女が口にした「白闇」という言葉は、呪いのようにその場に残り続け、姉妹の絆に目に見えない亀裂を入れようとしていた。




