✽ 元女公爵、昔語りをする ✽ 第10章 祖母の後悔(フランソワーズ視点)
私が王宮に通っていたころ、兄のドクトールは学園を首席で卒業して、領地経営を一手に引き受けていたわ。
父が第一騎士団の団長をしていたので、領地のことはずっと家令任せにしていたから。
確かに剣は振るえなかったけれど、兄は大分健康になっていたわ。
そしてその優秀さは皆の知るところになり、兄がモントーク公爵家の後継者になることにもう誰も余計なことを言わなくなっていたの。
後は兄を支えてくれそうな婚約者が早く見つかればいいなと、私や両親や周りの人間は願っていたのよ。
確かに私はあの二人の王子達を手懐けてしまったことで多少目立ってしまったわ。
けれど、小娘に過ぎない私のしたことなんて、一部の人間しか知らないと高を括っていたの。
あの頃は兄の立場も盤石になっていたからすっかり安心していたのよ。
ところがその美貌と優秀さで、兄がスラレスト王国の女王の目に留まってしまったの。そして王配になって欲しいと言ってきたのよ。
いくら女王といっても小国だったし、こちらはこの国起源からある名門公爵家の嫡男よ。
ふざけるなって話だったから、当然両親は速攻お断りしたわ。それなのに兄本人がそれを受けてしまったの。
私は泣きながら兄を止めたわ。そりゃあ必死で。
だって、私は愛する兄のために、あのクズ王太子の婚約者候補並びに側妃候補になったのよ。
それなのに、なぜ後継者の地位を捨て小国の王配になんてなるの? 女王を愛しているならともかく。
すると兄はこう言ったのよ。
「六年前、僕も必死に君があの男の婚約者候補になることを止めたよね。屈辱的な側妃候補のときも。
でも君は私の意見に耳を貸さなかった。
君が僕のために自身を犠牲にしたことは一目瞭然だった。
君は兄の僕を愛してくれていたからそんな行動をとったのだろう。
しかし、僕だってそれと同じくらい、いやそれ以上に妹の君を愛していたし、幸せを願っていたのだよ。
君は本来の自分を覆い隠して、ただおとなしく目立たないように、無駄な時間を過ごしていたよね? 大切な少女としての貴重な時期に。
そんな君を見続けなければならなかった僕の気持ちがわかるかい? 兄として男として情けなくて惨めだったよ。
もちろんただ嘆くだけではそれこそ辛いから、いつか君の役に立てるように僕なりに頑張ったつもりだ。
だけど、君は僕の力なんて必要としないで、あの国王を蟄居させてしまった。
しかもクーデターとかではなく、誰も傷付けることもなく、国益を損なうことなくだ。
そして王宮で泣き寝入りしていた女性だけでなく、多くの国民の未来も救った。
その上、二つの隣国とまで友好関係を築いた。脱帽だ。もう僕の出る幕なんてないよ」
「ち、違います。確かに国のための一助になれたとしたら幸いです。しかし、私一人では何もできませんでした。
国王陛下から甘い汁を吸っていた貴族もたくさんいたと聞いています。
その方々を説得して一致団結させたのは、お父様やお兄様の尽力があったからだと伺っていますわ」
「そんなことは君のしてきたことと比べたら些細なことだ。君は本当に素晴らしい。僕の自慢の妹だよ」
そう言って兄は笑ったけれど、私はその笑顔を初めて怖いと思ってしまったの。
心の中では私を憎んでいるよう目をしている気がしたのよ。
そのとき私は、ようやく、大きな間違いをしていたのだと遅まきながら気付いたのよ。私は兄の矜持をボロボロにしていたの。
それでも私は、嫌われても憎まれてもいいから、その後も必死に兄に縋ってスラレスト王国へなんか行かないでと、泣きながら訴え続けたわ。
でも兄の決意を変えることはできなかった。
「モントーク公爵家の嫡男で、しかもとても優秀で素晴らしいお兄様なら、ご自分が望まれる方といくらでも結婚できるでしょう。
それなのに、なぜわざわざ小国の愛してもいない方の王配になどならなくてはいけないの?」
「お前だって、愛しているどころか、大嫌いで軽蔑している相手の婚約者になろうとしていただろう? それとどう違うのだ。
いや、僕は君と違って女王を嫌っていないし、軽蔑もしていない。
むしろまだ若い女性の身で立派に国を守っている彼女を尊敬しているよ。
あの国は小国だが貴重な地下資源が豊富で、他国との交渉次第でさらに繁栄できるだろう。
我が国にとっても大事な貿易国になるに違いないよ。だから、両国にとって僕は役に立てると思う。
確かに今はまだ愛はないが、一緒に暮らしていけばそのうちに愛も生まれるだろう。君の選択よりずっとましだと思うよ。
それに僕は王族とでも結婚しないと都合が悪いのだよ」
最初は大反対していたはずなのに、なぜか両親も兄の意思を尊重すると言い出してしまい、結局兄は女王と結婚するためにスラレスト王国へ行ってしまった。
それからずっと私は泣き続けて、その後学園へ通えなくなったわ。
まあ、卒業するための単位はすでに取っていたために、そのこと自体は問題がなかったのだけれど。
私はタウンハウスから領地へ戻って、自分の部屋の中に引きこもったわ。
兄が大好きだったから、兄に公爵家の跡を継いで欲しくてして、ずっと頑張ってきた。
しかしそれは私のただの独り善がりで、兄を傷付け、苦しめて続けてきたのよ。
申し訳なくて切なくて苦しくて、どうしていいのかわからなかった。
私のせいで兄は、後継者の地位を捨てて他国へ行ってしまった。もう二度と会えないかも知れない。
いくら後悔してもやり直すことはできない。私は一人で真っ暗な世界の中にいたわ。
そんな私を側でずっと見守っていてくれていたのがマーチン、貴女のお祖父様だったのよ。
兄から結婚式の招待状が届いたその日、自室に閉じこもっていた私は、半ば無理やりマーチンに庭に連れ出されたの。そこは秋薔薇が咲き乱れてとても綺麗だったわ。
「ようやく美しく咲いたのに、主に見てもらえないのでは、この薔薇達も哀れでしょう?」
なぜこんなところへ連れて来たのかを訊ねると、マーチンはそう言ったの。
「主? 私が?」
「ええ。庭園のこの一角はフランソワーズ様のものですよ。そしてここに咲いている薔薇の名前は『フランソワーズ』といいます。
貴方がお生まれになったころに品種改良で誕生した新種の薔薇だったので、ドクトール様がそう命名されたそうです。
そしてドクトール様がユリアーナ様の三歳のお誕生日のプレゼントとして、この場所に『フランソワーズ』をたくさん植えられたのです。
ところが貴女ときたら「花より団子」だったのであまり興味を持たれず、兄上はとてもがっかりされていましたよ。
それでもいつか年頃になれば、この薔薇を愛でてくれるだろうと期待されていました。
しかし、貴女は花を愛でるより剣術に明け暮れて、庭園には見向きもしませんでした。
その上王太子の婚約者候補になってからは、そもそも領地にはあまり戻らなくなってしまいました。
それでもドクトール様は、よくお一人でこの薔薇の手入れをされていましたよ。
貴女が愛する人と幸せな結婚をするとき、この薔薇でブーケを作ってやるのだと言って。
貴女の結婚式は秋じゃないと挙げさせないつもりだったのでしょうかね?」
マーチンは笑ってそう言ったが、私は泣いた。その場所には私への兄の愛が溢れていたから。
なぜ私は外敵にばかり目を向けて、守りたかった大切な人や場所から目をそらしてしまったのだろう。本末転倒もいいところだわ。
身近にある大切なものにちゃんと寄り添っていれば、もっと兄の愛情に気付くことができただろうに。
ずっと泣き続けて、もう涙なんて枯れてしまったと思っていたのに、後から後ら涙が溢れてきて止まらなかった。
そんな私の涙を止めたのは、マーチンのこの一言だった。
「フランソワーズ様、俺と結婚してください」
「結婚? 婚約じゃなくて?」
「ええ。婚約だけでは強い圧力をかけられたら、解消させられてしまう恐れがありますからね。
今、周辺の国々の王室から、貴女に婚約の申し込みが殺到しているので」
「えっ? 私に?」
「スカーレット様が王太子の婚約者に決まる以前から、国内外から貴女との婚約を望む声はかなりあったのですよ」
「でも今の私は婚約者には選ばれず、落選者のレッテルを貼られたのに?」
「そもそも貴女が数合わせで選ばれた形式的な候補者だということは、誰の目から見ても明らかでした。
だからそんなことは最初から問題にもされていませんでしたよ。
なにせ貴女は、名門モントーク公爵家のたった一人のご令嬢。
しかもお淑やかで儚げな、守ってあげたくなる絶世の美少女を演じていましたからね。男なら皆コロッと騙されますよ。
その上、ドクトール様がスラレスト王国の王配になることが決まりましたからね。
各国の王家や高位貴族家から、婿入りしたいという申し出がそりゃあもう殺到していますよ。
でも旦那様や奥様、そして王妃殿下は、王家の鉄壁の後ろ盾であるモントーク公爵家に他国の人間を入れたくはない。
かと言って、我が国の高位貴族の令息の中には、残念ながら貴女を支えられる男が存在しない。
ということで、私に白羽の矢が立ったというわけです」
「なるほど」
私はいつの間にか泣き止んで、マーチンの説明を聞いていた。
初めて知ることばかりだった。私は驚き過ぎて、何のリアクションもできなかった。
兄が後継者を降りてしまったら、自分が後継者になることは当たり前だった。
それなのに、その時までその問題を頭の中から追い払っていたわ。
それまでは、兄を後継者にすることにしか頭になかったから。
えっ? 国王の側妃候補を外れた後について、私がどう考えていたのか?
まあ、親の決めた相手のところへ嫁ぐのだと漠然と思っていたわね。
きっと父なら、さすがに国王よりはマシな相手を見つけてきてくれるに違いないって思っていたの。
そもそも国王とのことだって両親は最初から破談にするつもりだったのよ。
それを強行しなかったのは、偏に私自身が王太子の婚約者候補になることを強く拒否しなかったからなの。
私は兄を後継者にしたかったし、どうせ想い人とは結ばれないのならば、誰と結婚しても同じだと思っていたのよ。
それなのに、その思い人からプロポーズされたのよ。頭ではその言葉の意味を理解できても、心がそれに追いつかなかった。
本当なら夢のようだと歓喜するところだったのでしょう。
けれど、私は素直には喜べなかった。
それが愛の告白だったら、きっとそれまでとは違う涙をこぼしていたと思うわ。
でも、彼の発した言葉は結婚しようだった。しかもそれは、王家や両親から命じられて言わされたものに感じられたのよ。