2 アンリ・シセ
朝の気配もない林の中で、息をひそめている。
はたから見たらこれほど場違いな二人組はないだろうと思う。垣間見たものは、この世のものだと思わないかもしれない。
それもいいな。
この庭園でこんな時間に不埒な目的で侵入する馬鹿な人間が、幽霊騒動で減るかもしれない。
昼間のにぎわいにも影が差すかな。それでも構わない。この庭園の全てはサンドラの為にあるんだから。
「こんなところにこんな時間に、本当に来るのですか?」
振り向けば、金の糸を流したような髪に包まれたビスクドールが眉を寄せる。
「おや?知らないのかい?あの男の常とう手段なんだけど」
「そ… …うですか」
「根性はあるけど、頭が悪いんだね、オージェ嬢。だから、あの程度の男をまだ手に入れることもできない」
そう言えば、華やかな容姿が色を失うように肩を落とした。
落ち込むことは家でやってほしい。
足手まといになるのは困る。
夜明け前の薄明、ぼやける景色に目を凝らす。
ビスクドールとは言い得て妙だ。そしてそれは僕自身にも当てはまる。
シセ家のビスクドールと言えば、知らぬ者はいない。
天使のようだと、言われることには5歳で飽きた。
僕に会うだけで、涙を流す大人までいる始末でそういう大袈裟な人々の反応が正直面倒だった。
その半面、まるでガラス球をその手に乗せてくるくるともてあそんでいるように、様々な反応を示す周囲の人間を面白がってもいた。
僕はそこにいさえすればいい。
存在するだけで人の気持ちを揺るがすことができる事に、暗い愉悦を覚えるほどだ。
4兄弟の4番目。
それだけで家の者にはかわいがられる。
その上、兄たちよりもずっとはかなく薄い色合いを持つ目と髪と。
見た目だけのビスクドール。
それが僕に与えられた人生だった。
甘んじていたと言っても過言ではない。
そこは苦労なく、自分の思い通りになる場所で誰しもが僕に陶酔し、僕の好意を得たいと僕を甘やかせた。
そんな僕がビスクドールをやめたのは、サンドラ、君と出会ったからだ。
「今日は、あなたにとって大事な人と初めて会う日なのよ」
と僕が7歳のある日、母が言った。
そのころも今と同じ、冬が過ぎて、花の美しいころだった。
人々はまるで冬眠から覚めた動物のようにあちこちを闊歩するようになり、茶会も増えていった。
僕はただ母に寄り添って笑顔を向けていればいいという立場のままでいた。
「はいお母様」
とほほ笑めば、母は満面の笑みで僕を抱きしめた。
「さあ、私の天使。あなたの運命の人なの。サンドラ・アメレールさんとおっしゃっるのよ。年はあなたと同じでね」
そう言われて、もしや結婚相手が決まっているのかと驚いた。
何一つ望まずとも、何もかも最初から用意される。
まるで、着せ替え人形のままごとセットのように。
それにしてもアメレールか。
母の従妹がアメレールだったな。
家柄的も為した財産もほぼ同じ。
末っ子同士をまとめて面倒見るには確かにちょうどよいか。
「仲良くしてね」と母が僕に耳打つ。
仲良く?僕がそんなことに気を使わなくとも、仲良くしようと努力するのは向こうだよ、お母様。
やがてサロンの扉が開かれ、アメレールのおばさまと一人の少女が顔を出す。僕はいつものように柔らかく微笑みながら二人を迎える。
その運命の人とやらは、僕にどれだけ戸惑うだろうか。
顔を赤らめて言葉を失う?
後ずさりして母親の後ろに隠れるか?
それとも魂を抜かれた様に立ち尽くすか?
口元はゆるく微笑みながら、見据えるように彼女を見た。
彼女もこちらを見る。
ところがそのまままっすぐ僕の目の前にやってくる。茶色い瞳をパチパチさせて
「あなた、まるで天使様みたいね!」
と無邪気に言った。
今日のランチはサンドウィッチね、というくらいの軽さで。
そしてその言葉に対する僕の返事も待たずに彼女は立て続けにしゃべり続ける。
「あなたの瞳、水色翡翠ね。知っていて?素敵な色なのよ。水色翡翠というのは… …」 「あの… …」
「ああ、そうだ!あなたのおうちのバラ園が素敵だってお母様がおっしゃってたの!どこかしら?ぜひ見てみたいわ!」
「えっと、向こうに… …」
「向こうね!行きましょう!」
そう言うと、するりと僕の手を取って駆けだす。
日の光の中に輝くブルネットの髪をなびかせ、濃い青のワンピースを翻し、彼女はぐんぐんと僕を引っ張って庭園の方へ走る。
遠くに母たちが和やかに笑い合うのを聞きながら、僕は手を取られたまま一緒に走る。
やがて庭の中央にたどり着く。
「うわー!すごいわ!トンネルになってるのねー!」
こちらを振り向きもせずに、今度はどんどん母の設えたバラのトンネルへ入っていく。
「見て見て!このバラ、真っ白ね!」
初めてこちらを振り向いて僕を手招きするから、彼女の隣に肩を並べて白バラを見る。
「ぎゃー!!毛虫ー!」
突然そう叫ぶと、僕に抱きついた。ふわりとした髪が僕の頬に触れる。
「大丈夫だよ。触ると危ないけど」
そう言ってなだめようと触れた背中が柔らかかった。
ただそれだけのこと。
「バッタは平気だけど毛虫はダメなのよ、ごめんね、アンリ」
ただそれだけのこと。
こちらを覗き込むように見るその茶色い瞳が「アンリ」と呼んだだけだ。
ただそれだけだ。
それだけで、まるで僕に心が吹き込まれたかのようだった。
白いバラは白く、新緑は緑だった。
空は青く、木陰が黒くトンネルに影を落とし、茶色い髪の少女がバラ色の頬に、淡い口元で僕に微笑む。
「どうしたの?アンリ。急にぼんやりしちゃって。アンリはぼんやりなのね?」
そう言ってくすくすと笑った。
サンドラ。
あの時から、僕はすべてを差し出して、君を望む。
親たちの気まぐれな思い付きで、生まれた時からの婚約者ではあったけれど、君を完全に僕のものにするにはどうしたらいい?
僕だけを瞳に写すように、僕の名前だけを呼ぶように。
サンドラに必要なのは僕だけだから。
誰かの心を自分の思うようにするのは、割と簡単な事だった。
僕はただ微笑めばいい。
人は僕に心酔し、微笑まれるだけで陶酔する。
けれど、そんなことはサンドラには通用しなかった。
「ぼんやりしてちゃ危ないわ」とサンドラはいつもそう言って笑う。
いよいよ僕の容姿も効かなくなったかと他所で試せば、危ない人間に狙われそうになった。
どうやらサンドラにだけは通用しない。
サンドラは僕を好いてくれたし、僕と一緒にいることを楽しんでいた。
それでいいのかもしれない。
彼女は僕としか交友しなくても、それに対して不満を言ったことが無かった。
だから、僕という人間が彼女を本質的に引き寄せなくても、他の誰とも関わる事が無ければ、彼女は必然的に僕しか見ない。
僕しか知らないということになる。
僕は自分の持ちえるすべての時間でサンドラのそばにいた。
飽きられない様に注意しながら、僕だけで十分だと、よく思い込まさなければならない。
鳥が初めて見たものを親と思うように、サンドラの瞳に僕しか映さなければ、僕しか映らないのだから。
サンドラには僕だけがいればいい。
そうすりこむのに、もう11年も注意深く時を過ごす。
それでも、一度危ない時があった。
家庭教師が同じ年の子供が集まる催事に連れて行った時だ。
僕はいつものごとく人目を引いた。皆が一様に僕を見て戸惑った。
さあどうする。
僕がどう出るか、彼らは様子を見ているんだ。
ここでどのようにふるまえばいいだろうと思案しているうちに、サンドラが僕の手を引いて何でもない様に「天使みたいでしょう?」と言った。
その「特別な事は何もない」という雰囲気に押されて、僕は急に普通の子供の位置まで下りた。
誰もが僕を普通に扱った。
戸惑いはしたけれど、こんなことに気おされるほどまぬけじゃないから、僕は本当に久しぶりに同じ年の連中と走り回った。
まだ幼かったからうっかり遊びに夢中になってサンドラを視界から外していた。
やがて夕暮れ時、さあお開きの段になって、サンドラが一人一人と名残惜しげに頬にキスをするのを見た。
それは僕にとって、地面が割れるほどの衝撃だった。
一人一人がしっかりとサンドラと目線を合わし、誰もが別れを惜しんだ。
そしてサンドラの心も、僕以外の人間に心を揺さぶられているんだ。
さよならしたくないって。
帰路に着くころ、僕は決意する。
もう二度とこんな催しには行かせはしない。
あんなにも簡単に他の誰かをその目に映すなら、サンドラの目を奪ってしまいたいくらいだった。
いっそ見えなくなれば、僕は喜んでその目になろう。僕だけを映す目になろう。
そんな暗い考えを隣でめぐらしているとは知らず、馬車の中で興奮気味に今日一日の思い出を語るサンドラ。
ああ、もう言わないで。
僕の知らない景色などいらない。
あの唇が他の誰かの頬に触れるなどと。
*****
研究所の窓を開けると、庭園からの甘いバラの香りをはらんだ風が吹き抜けていく。
サンドラとの将来を考えた時に、いつまでも実家に飼われるのを僕は嫌った。
サンドラを生かすのは僕の手で、他の何も入れたくは無かった。
そうは言っても4人も兄がいれば、僕に回ってくる場は大したところではない。
結局シセ家が任されている国の庭園の一つの管理という、隠居した老人がやるような仕事が回ってきた。
「働かなくともいい」と言われているのをごり押ししている以上、そうは文句も言えない。
国の庭園の管理なんて全くやる気が起きないが、庭園をサンドラの為に造り替えていくことにすれば、それはなかなか興味深い仕事となった。
サンドラはバラが好きだ。
この庭園をバラで埋め尽くそう。
庭園をサンドラコルダナで飾り、彼女の好きな白いバラをメインに据え、迷路がいいと言われればそれを作り、トンネルももちろん設えた。
全てはサンドラのために。そう告げても、サンドラは「ありがとう」と綺麗な笑顔を返すばかり。
サンドラに余計な気持を教えたくなくて、小さなころから恋愛に関わる物語の一切を近づけなかった。
知らなければ、知らないままだ。
彼女は冒険談も好きだったし、図鑑の類も好きだった。歴史書も好きだった。物語に不足はない。
同じ年頃の女性が集まる会にも行かせなかった。
そっちへ行きたいと思われないように、彼女の気を引くことを懸命に考えた。
年頃の娘たちが愛だの恋だのと語り合っている頃、僕たちはバラの名前を覚え、鳥の巣を探した。
サンドラは僕を見つめて微笑む。
とても親密で信頼に包まれて、そんな穏やかな日々。
けれど、それだけでは足りないと頭の片隅で何かが執拗に叩く。
僕が望むようにサンドラが僕を見つめてくれたらと。
けれど、そんな気持ちを知った後に、彼女が他の誰かにその思いを抱くことを僕は恐れた。
多くの人々は、僕が見つめ返しただけで溺れるような視線を返した。
けれど、サンドラは僕以外の誰と接するときでも同じだった。
僕はいつまでたってもサンドラの特別になれない。
そういうジレンマと、募る僕の思いとで息が詰まりそうになる。
だから強く彼女を閉じ込める。幾重にも壁を張り巡らせ囲い込み、世の中の流れなど知らせぬように。
サンドラはただ僕の作った庭園でバラを眺めその香りを吸い込み青い空の下、笑っていればいい。
それなのに、彼女はいつだってどこへでも自由に飛んで行けるのよという顔をして、僕を苦しめる。
君のそばにいることに至上の喜びを感じながら、煉獄を味わうかのように。
けれどきっともう少し。
あと三カ月もすれば僕とサンドラは結婚する。公然に君が僕のものになれば、身を焼くようなこの思いにさいなまれる日々も、終わりが来るだろうか。
三ヶ月後を夢に見ながら、僕は少し油断をしていた。
結婚に向けてやらなければならないこともいくつかあったし、庭園の管理の件が功を奏して、政務に関わる仕事に就ける見通しもでき、急に身辺が忙しくなったこともあった。
もうあと三カ月と期限を切っているのに、まさかその隙をつかれるなんて思ってもみない。
日の光が降り注ぐ庭園の広場から、研究所へ歩み寄る人影が見えて目に手をかざして透かし見る。
黒い髪が揺れる。
すらりとしてバランスの良い体躯は遠くから見ても目立った。
「アンリ・シセ」
僕の名を呼ぶと、口の端を持ち上げた。
嫌な笑い方をする。
レオン・バルドー。騎士団の一人だ。
そのずば抜けた容姿と手慣れた態度で女性をたぶらかすので有名だ。
この庭園をよろしくご利用している彼故に、知り合いたくなくともおかげで知り合うことになった。
「お前が女だったらかなりな上玉なんだがな。まあ男でも楽しめない事もないが」 「くだらない話ならお引き取り願おうか」 「相変わらず冗談が分からないやつだな」 「あなたと軽口をたたき合う仲でもないが?」
「確かにその通り。だが、今日は面白い話を持ってきた」
そう言うと、レオンはふっと瞳に笑みを載せた。
「お前がすっかり囲い込んでるあの小鳥の話さ。おっと、まあまあ落ち着けよ。その薄氷の瞳でにらまれたらこっちが凍りそうだ」
「いいから早く話をしろ」
「案外せっかちだな、アンリ・シセ。わかったわかった。今話す。この俺と、おまえのあの小鳥が関係を持って、おまえとの婚約を破棄したいそうだ」
「… …はっ。バカバカしい。どこからそんな話が」
「さあてね。直接聞いてみたらどうだ?俺だってお前は早くあの小鳥と結婚でも何でもしてもらった方がいい。おかげで何羽か撃ち損ねている。おまえの容姿は目障りだ」
「そんなことは僕のせいじゃない。あなたの策が幼稚だからだろう」
「言う様になったな、アンリ・シセ。さてじゃあその策でお前の小鳥を撃って見せようか?」
黒い瞳がギラリと光る。こいつ… …。
「そんな怖い顔をするな。冗談だ、冗談。じゃあな、アンリ・シセ」
レオンはそうして庭園の光の中へ戻っていく。
「まあ、話のネタに、小鳥を拝んでみるのも悪くは無いな。せっかく噂になったんだから」
そんな捨て台詞を吐いて。
それにしても一体どこからそんな話が出たというのか。
大体サンドラはレオン・バルドーを知っているわけがない。
そう思ってはっとする。
そう言えば最近、噂好きな女性の集まる茶会に出かけていることを知っていた。
もうあと結婚までわずかだし、少しくらい女性の友達と語り合ってもいいのではないかと判断して口を出さずにいたけれど、まさかそこで何かがあったのでは。
嫌な予感と、レオンの不敵な笑みが相まって、僕は研究所を抜け出し、馬車を飛ばした。
「お前に目はついているの?ハンス」
急に差した影におびえて、そう声をかけられた人物があわてて振り向く。
僕はひざを折って、今し方しゃがみこんでバラの剪定をしていた男に耳を寄せる。
「あの隅のバラの花が色を変えている。そんなことも見えないような目ならいらないんじゃないのか、ハンス?」
「いえ、いえ、申し訳ありません!アンリ様!」
「バラの一枝でも枯れたら、もう永久におまえは私を見ることは無いよ。バラは僕だと思って手入れしなくちゃ。枯れてしまったらもう二度と戻らないだろう?それと同じさ。ねえ、ハンス。でもお前の本分はバラの手入れなんかじゃない。最近のサンドラの様子はどうだ?」
ハンスは冷や汗をしきりに拭う。
「特に変わった様子は見られません」
「そう?妙な噂が出回っているんだ。もう少し働いてもらえないか?」
「はい!承知しました!」
「ありがとう、ハンス」
そう言ってほほ笑めば、ハンスは魂が抜けきったように恍惚とした。
ハンスは僕が個人的に飼っている男だ。
僕の為だけに動ける人物が欲しくて方々探した三年前に見つけた。
元は農家の食いづめで、その場限りの斥候なんかをやっていた男だ。
あまり使い道がないのか常に使い捨てだったそうだが、目がよく耳がよかった。
五感がよい人間はうまく使えば犬より役立つ。
その上、たまに遭遇する、僕を崇拝してしまうタイプの人間だった。
僕がいさえすればいい。たまに微笑めばいいのだ。
もちろん給金は出すけれど、ただ僕を目にするだけの褒美があればいい。
以前はこう言うタイプの人間は切り捨ててきたけれど、ハンスは使いようがある。
実家が農家だけあって、庭の手入れを仕込むのにも手がかからなかった。あとは従順であればいい。
実際ハンスはよく働く。だからアメレール家の専属の庭師としてハンスを送り込んでいる。
もちろん、何かあったらいけないから、アメレールのよくできた執事には話を通してあるけれど、それでも、庭師として紹介してある。
本当の目的は、僕のいない時のサンドラの様子を報告させるためだ。
ハンスから情報が上がってこなかったから安心していたが、話は屋敷の外の事のようだ。
サンドラとは業務の間を縫って毎日会う様にはしてるけれど、かつてのように一日中というわけにはいかない。
少しハンスには屋敷の外を調べてもらう必要がある。
一体何がどうして、レオン・バルドーと関わる話が出てきたのか。
*****
庭園は今日もあちこちで人が輪を作る。
陽光が万遍なくあたりを照らし、穏やかな季節を温かく包む。
バラの垣根を歩いていくと、パキリという音がして、パサリとバラの花が足元に転がった。
またか。
花の様子を見ながら肥料の配分を考えていると、目の前に現れた金糸の髪が目に入った。
そして落ちたバラ。
「フローラ・オージェ嬢」
呼びかけても振り向きもしない。
舌打ちしてもう少し近づく。
「フローラ、フローラ・オージェ嬢」
はっとするかのようにこちらを見返る、ラピスラズリを埋め込んだような瞳。
囚われる者もいるだろうが、囚われているのは彼女自身。
彼女が一切持たない影を愛してやまない。
その気持ちもわからなくもないが、それと、バラを折る事はまた別の話だ。
「『バラを折らないでください』という無粋な看板を、あちこちに立てなければならないですか?」
彼女は僕の視線を受けて足元を見る。
「あああ!申し訳ありません!アンリ・シセ様!」
彼女は幾重にも重ねたレースの裾を気にせずバラを丁寧に拾い上げる。
心がけは悪くない。
それでも、許し難い。
このバラはサンドラの為にあるのだから。
「何度もお願いしたはずだ。知らないかとは思うけど、考えなしにバラを折られて、その折ったところから何かの菌が入り込んで全体が枯れることもある。それが周囲のバラを巻き込むこともある。とても繊細な植物なんだ」
「申し訳ありません… …私… …どうしたのかしら、いつもこんな感じで」
知ってる。
いつも無意識に折ってる。
そんなにあの男が欲しいなら、もっと頭を使えばいいのに。
このかわいそうなビスクドールはそれを知らないんだ。
小さなころからきっとずっと僕のように見た目の美しさにどっぷりつかっていたのだろう。
おかげで、本当に手にしたいものが現れた時に、その視界に自分が入らないと知った時に、為す術がないなんて。
愚かな。
彼女が視線を投げていた方を見れば、黒髪が視界に入る。
「そうだな、あの男に償わせよう。そもそもの原因なんだから」
バラを受け取ってそう言い捨て歩きはじめる背中に、「アンリ様!!」という悲痛な声を聞く。
これで少しは懲りればいい。
レオン・バルドーは今にも細い腰を絡めようと手を伸ばしたところだった。
「これはアラマン夫人、ご機嫌いかがですか?」
にこりと微笑んで名指された夫人を見据える。
驚いて振り返り、僕を見て目を見開く。
「ア、アンリ・シセ様… …いえあの、こちらこそ」
「アラマン伯爵はお元気ですか?」
「あの、今は遠方の領地に視察へ行っておりますの」
パタパタと暑くもないのに扇で仰ぐ。額に浮くのは冷や汗か?
「そうですか。それは大変だ。伯爵に神のご加護を」
そう言って僕は折れたバラの花を渡す。
「まあ、きれいな白バラ… …」
「ええ、でも少し枝の先が折れてしまって」
すると彼女はすっと顔の色を無くして渡されたバラを強くつかむ。
「さあ、アラマン夫人、庭園の入り口にもう馬車が来ておりますよ。足元に気を付けて」
「ま、まあ、そうなの。それならば急がなくては。では皆様ごきげんよう」
逃げるように庭園を後にする背を見送っていると、先ほどから一も発しなかった男がようやく口を開いた。
「お前の口から神という単語が飛び出せば、罪悪感を抱かぬ者はいないな」
「さてね」
振り返れば尋常じゃない目つきでレオンが僕を見ていた。
僕はその目を静かに見返す。しばらくそうやって睨みあい、やがてレオンがふっと視線を緩める。
「いつまでそんな涼しい顔をしていられるか、アンリ・シセ」
僕が小首をかしげると、一度ねめつけて、そして荒々しい足取りで去っていった。
*****
仕事を終え、家に戻ると母がサロンの窓際でうろうろとしながら浮かない顔をしていた。
僕はいつものように笑顔を浮かべ、母に歩み寄る。
「どうされたんですか?母上。どこかお加減が?」
「ああ、アンリ… …」
そのまま視線をさまよわせる。
「ええと、そのね、サンドラの事なんだけど… …」
「サンドラが、何か?」
努めて平静を装うが、母が一歩下がったので何かしら雰囲気が悪いのかもしれない。
「あのね、しばらく… …会いたくないとアメレールのおば様から言伝があって… …」
「しばらく… …?それはどういうわけですか?」
「いえね、あの、多分、マリッジブルーじゃないかと思うのよ」
母は場の空気を換えようと明るく言う。
「ほら結婚前のお嬢さんって少しセンシティブじゃない?思い返せばわたくしにもそんな頃があったから、不安定なんじゃないかしら。ああ!でもそんなことはすぐに解消されちゃうものよ」
そうしてひきつるように笑う。僕は母の目をじっと見つめると、不意に目をそらされる。
「そうですか。わかりました」
案外僕がすんなり引いたので、母はあからさまにほっとした。
「大丈夫よ、アンリ。少しそっとしておいてあげればいいのよ。あなたが思うより女心は複雑なのよ」
僕はそのままサロンを後にする。母がまたゆったりとソファに身を沈める気配を感じる。
静かにドアを閉めて廊下を歩く。
サンドラ、君はいったい何をしようとしてるの?
マリッジブルーなんて有り得ない。
大体サンドラは、結婚についてそんなに思い悩むほど真剣になんか考えちゃいない。
と、自分で言って自分で傷つくが、そのように仕向けてきた。
何も考えさせずに全てを絡め取る為に。
明日にでもアメレール家を訪ねてみたいものだが、如何せん結婚後に就く予定の政務関係の手続きやら説明やらで何度も議会やらなんだに顔を出さねばならず思うように動けない。
そう言えばもう二日もサンドラに会っていない。どうもイラつくのはそのせいか。思い返せば柄にもないケンカを売ってしまったような気もする。
まあでも、今夜の獲物にあり付けなかったあのレオン・バルドーの顔を思い出せば、なんだか胸がすっとした。
*****
いつもの早朝だ。
ハンスが荷馬車に乗ってこの道を通る。
ガス灯がまだ消えぬ時間、朝もやの中から荷馬車が現れる。
「ハンス」
「アンリ様、サンドラ様はアンリ様に会わないと母上様にも家のものにも宣言しております」
「理由は?」
「理由は判りません。しかし、妙な噂が出回っておりますので、広まらないうちに手を打ったほうが… …」
「レオン・バルドー」
「ご明察で。どういたしますか」
「噂の事はいい。噂を消すのは簡単だ。もっとセンセーショナルなものを流せば済む。お前は引き続きサンドラを見ててくれ。頼めるのはお前しかいないからな」
そう言ってほほ笑む。
ハンスは陶然とした後、居住まいを正すと「はい、承知しました」としっかり頷き、靄の向こうに消えていった。
靄の道を歩きながら考える。サンドラが僕を拒否した事は無かった。拒否する必要さえ感じていなかったと思う。
僕がそばにいるのが自然で、いないという選択肢はない。
それがここにきて、特に何という理由のない拒否。
カツカツという靴音が響く。
そのリズムを頭で数えながら、何かが頭をノックしているような気がしてくる。
当たり前だったものへの拒否。
コーヒーは拒否する人間はいるだろう。
だが、空気はどうだ。
空気をあえて拒否したいという話は聞いたことはない。
それは当たり前だからだ。
存在を意識されないからだ。
サンドラの透明な心に、何かが一滴たらされたような気がした。
何かは判らない。
何に作用するかもわからない。
けれどその一滴が僕の望む何かを得る作用を引き起こすとしたら。
靄はいつしか景色に溶けていった。
見慣れた街並みが少しづつ姿を現し始める。
サンドラの心の動きに耳を澄ませる。
淀みなく流れる川の中に手をゆっくりと入れるように。存在を主張するように水流が僕の手を打つ。
けれど、引きあがてみれば、手のひらには何も残らない。
どうして会いたくないなんて言うのかと、尋ねて行って会えないことはないだろうと思う。アメレール家に出向けば必ず通してくれるだろうことは火を見るより明らかだ。あの家の人間の信用と信頼を得るに十分な貢献をし、関係を築いてきた。サンドラに真意をしゃべらせることもきっと簡単だろう。だけど。
会いたくない、と初めて僕に向けられたサンドラの気持ちというものが僕の足を鈍らせた。
研究所の一室で薬品の在庫を調べているころ、ハンスが息を切らせて窓辺へやってきた。
「アンリ様!」
「どうした?」
「先ほど、サンドラ様がこちらの庭園に向かうべく、身支度をされておりました」 「それがなんだ?」
「それが、いつもとはちょっと違いまして、あまりお召しにならないようなずいぶんとかわいらしいお衣裳で、髪も普段と違っておろされていて、花飾りをつけておいでです」
童顔な彼女がいつも無理をして大人びて見せようと、きちきちと髪を結っているのを思い浮かべて、それは確かにいつもと違うと頷く。
「ありがとう。もうこちらへ?」
「ええ、もうそろそろ出発されるかと思います」
「わかった。すぐに行こう。おまえはアメレール家へ戻っていてくれ」
「はい、わかりました」
ハンスをそのまま帰し、僕は庭園の入口へ向かう。
サンドラコルダナの垣根の向こうの一番端に、アメレール家の馬車を見つける。
そこから降り立つサンドラはまずめったにお目にかかったことのない甘いピンク色のバラをかぶったようなデザインのドレスで、子供のようにふわふわとした髪を下ろし、大きな花をつけていた。
そして場違いなほど大きな扇で顔を隠すようにして、こそこそと移動している。
全く何をやっているのか見当もつかないが、子供の頃のごっこ遊びを思い出して、懐かしいような恥ずかしいような気分につい下を向く。
サンドラはそのまま腰を低くしてあたりをきょろきょろと伺いながらも庭園へ入り、バラの迷路を目指しているようだ。 やがて、サンドラは迷路へ入ると、その不自然な扇を閉じて周りを伺いながら歩き出した。
僕は外からサンドラの後を追う。
髪を下ろしてアメレールのおば様見立てのドレスを着ているサンドラの姿が、バラの垣根越しに僕の目へ映る。懐かしい過去を映す夢みたいに。
「アンリ!魚よ!」
ブルーム荘はシセ家の夏の間に使う別荘だった。
この辺りは季節が良くなっても、暑さを感じるほどではないが、ブルーム荘まで南下すれば、歩いているだけで汗がにじむほど暑い。
サンドラと僕は、夏の間よくこのブルーム荘で過ごした。
毎年、飽きもせず同じことを、小川を泳ぐ魚の銀のひれを見てはサンドラが興奮したように言う。
「サンドラ、毎度のことだとは思うけどあえてまた今年も言うけど、気を付けてね、落ち」
「きゃーー!!」
バシャンという音に、サンドラは水の中でしりもちをついていた。
今までは水に対して恐れがあったのかこんな事態は無かったのに、僕らは12歳になって、水は膝ほどの深さしかないことを知った。
だからと言ってあり得ない。
もう12歳なのに川沿いを歩くだけで済まさずに落ちるなんて。
サンドラは運動神経は悪くないのに注意力散漫だった。
人はそれをぼんやりって言うんだ。
「大丈夫?早く上がって!」
僕は手を伸ばす。サンドラは水の中で立ち上がる。
簡素とはいえ一応ひざ下までの長さはあるドレスだ。
ところが、腰をかがめてドレスの裾を水に浸すと突然魚を採り始める。
「ちょ!サンドラ何やってるの!余計にドレスが濡れるよ!」
「いいことを思いついたのよ!こうやって服で水をせき止めておいて、手で払う!この前あなたが話してくれた熊の魚釣りを応用してみたわ!アンリさすがね。いい話を聞いたわ」
「そんな解説いらないよ!」
彼女は夢中でドレスにはまった魚をはじき出す。確かに釣れてるけど… …。
「そんなに濡らしたらアメレールのおば様に怒られるよ… …」
「そうね。それもそうだわ。アンリ」
「なに?ってうわあああ!!」
突然掴まれて僕も川に落ちる。
「どうするのさこれ」
「川に落ちた私を必死に助けたアンリの完成よ。さ、服脱いでちょうだい」
「え、服ってここで?」
「何を赤くなっているのよ、女の子じゃあるまいし」
早く早くと急かされて、僕は仕方なしにシャツを脱ぐ。サンドラはさっさと水から上がってぴちぴち跳ねる魚を僕のシャツで包み始めた。
「えええ!サンドラそれは無いよ… …」
いいのいいのと、澄ました顔で言うと、さあ行くわよと裸の僕の手を引いて歩き出す。僕は片手に魚のつつまれた服を持たされる。まるで意識されない上にこの扱いはひどすぎると、12歳の僕は自分の恋心に泣いたこともあったな。
「あらあら、どうしたの、二人ともびしょぬれで。アンリは泣いてるし」
「お母様、川に落ちたアンリを私が助けてあげたのよ。あんまり泣くから魚も取ってあげたの。これを今晩食べたいわ」
母は顔をしかめて僕を見る。
「まあ、アンリったら情けない」
ひどい、話が違う。
夏の思い出に僕は一人で顔をほころばす。
垣根の奥にとぎれとぎれに見えるサンドラ。その後姿が過去を思い出させる。
「ああ!愛しき君よ!その翡翠の瞳!光のような髪の色!バラのつぼみのようなその唇!ああ、全てを私のものにしてしまいたい!」
「サンドラ… …?これ何の遊び?」
いつものようにアメレール家を訪れ、サンドラがいると言われた書庫の扉を開けた瞬間、引っ張り込まれて横抱きにされている。いったい何の罰なの、これ。
「静かにしてよ、忘れちゃうでしょ」
「えええ?」
「さあ、今宵この日にあなたに出会える僥倖を、私は逃しはしない!」
そう言ってサンドラが僕の唇を覆った。サンドラの唇で。
「うわあああああああああ!」
僕はサンドラを振り切って5メートルくらい離れる。
「ちょっと、いいシーンなのに。なによ。しかも泣くことないじゃない」
「だって、だってサンドラ… …なんでこんなことに」
「お母様の本をちょっと読んだらなんかおもしろそうだったからやってみたのよ。ここに出てくる女の子がアンリに似ているんですもの。ほら翡翠の瞳とか金色の髪とか。やだな、意地悪したみたいじゃない泣き止んでよ。いつもと一緒でしょ?海賊ごっことか宝探しごっことか」
「う、だって… …だって… …それとこれとは… …それにそんな本読んじゃだめだ」
「ええ?なんでー?」
「僕らまだ10歳だし」
「年齢制限なんて書いてないわよ」
「えーっと違うよ、そう!三冊に一冊は恐ろしい怪物の本なんだ。今回はたまたまそんな話だったけど、いつ出てくるかわからないんだ。吸血鬼とか狼男なんて比じゃないよ」
「えええ!そうなの?」
お化けが何より怖いサンドラはその本を床に落とす。全く情けないけど僕はそれをしゃくりあげながら拾うと元に戻した。泣き止まなくてはと思ってもなかなか涙は止まらない。だってサンドラとのキスなんて僕はどれほどそれを夢見ていたことか。こんなのひどい。
淡い記憶をさまよわせながら、僕は夢のようにサンドラを追った。
「ひゃあ!」
突然上がるサンドラの声に僕は我に返る。
「サンドラ・アメレール嬢」
そして聞き覚えのある低く嫌な声に、僕は全身が凍りつく。耳がキーンとして背筋に汗が流れる。レオンは一歩一歩とサンドラに近づき、その大きな体躯と垣根であっさりとサンドラを閉じ込める。
レオンの瞳が垣根越しの僕を見つけると、ふと嘲笑う様な色を浮かべて、そしてサンドラと、あの時の僕らの様に距離を詰めた。
「はわーーーーー!!」
サンドラの、大声とともにがさりとバラの生け垣が音を立てて揺れた。
垣根越しに追っていたサンドラの姿は見えなくなり、そこにはただあの忌々しい黒い瞳。
だけどその眼力は弱められ、しばらくすると心底面白そうに笑い出した。
サンドラが何かを言っている。
あの男はそれでもずっと笑っている。
バラの、垣根の向こうで。
見える世界は夢なのか。
果てしなく現実味のない、ぼやける世界の向こうで、あの男の背中が戯れに僕の視界を横切るから。
心臓の音が耳を打つ。手足がしびれて、感覚が危うい。目の前が真っ赤になるような、感じたことのないひどいめまいから正気のかけらを握りしめ、僕はその場から、逃げた。
耳に突然馬のいななきが聞こえ、馬車ががたごとと音を立て、はっと顔を上げると、危うく跳ね飛ばされそうになっている自分に気付く。
御者が何やら叫んでいて、僕はあわてて身を引く。御者と目が合うと、逆に恐縮されて今までの物騒な言葉遣いを急に改める。
窓からいくつも顔をのぞかす人々を見て、乗合馬車であったことに気付く。
馬車をやり過ごし周りを見渡せば、どうやら市場界隈で、普段なら馬車で通る街並みを歩いてここまで来てしまったようだ。
どうりで足が痛む。
何もかもが手触りを失い、現実味が薄い。いつも馬車の窓から見る街を歩いているせいなのか、不自然なほど景色の流れがゆっくりしすぎて視界がおかしい。
現実の手ごたえを得ようと胸の内ポケットを探れば、二人で作った白バラのしおりがそこにある。
白バラ、『尊敬』『純潔』『無邪気』それから『約束を守る』。
思いつく限りの花言葉を唱える。
ここを抜ければ、屋敷までそう遠い距離じゃない。しおりの感触を手で確かめながら、僕はそれだけを頼りにまた歩き出す。
いつの間にか日は傾き、長い影が石畳にのびた。いつもと変わらぬほどの時間に屋敷に帰り着いたことを知る。
常の屋敷の様子を見れば、感覚はいつも通りに戻ってくる。
「アンリ… …?」
母がまたしてもサロンでうろうろと落ち着かないそぶりを見せていた。僕の姿を見ると、戸惑いながら僕に声をかける。
「ただ今戻りました、母上」
僕はいつものように笑みを浮かべる。母の方はといえば、何か言いだしたいようなそうでないような、落ち着かない。
「どうされましたか?」
どうかしているのはこっちなのに、どうしてお伺いしなくちゃいけないんだという気持ちを何とかもみ消して僕は笑顔を作る。
「あの、サンドラの事だけど… …」
その名前が僕を突き刺していく。小気味よく。
名前だけでこれほど打ちのめすことができるのは、サンドラだけなんだ。
「アメレールのおば様から、あなたにお話ししたいって」
「その件なら、大丈夫とお伝えください」 「大丈夫って」
「大丈夫ですから」
そうしてゆっくり振り返って笑顔で母を見た。
「大丈夫です」
「アンリ… …?」
「もういいですか。ちょっと仕事が立て込んでいて」
「ああ、そうなの、分かったわ… …」
母はまだ何か言いたそうなそぶりだったけれど、そこまで骨を折って聞きだせるほど、もう余裕はない。
そのまま会話を断ち切って僕は自室へ向かう。
真っ暗な部屋にランプを灯せば、天使とサンドラが賞した僕が窓ガラスに浮かんだ。
フローラ・オージェの事をひどくなじる資格は僕にはない、ということはよくわかっていた。
同族嫌悪だ。
フローラがなす術がないように、本当は僕にもなす術がない。
あんな風に鮮やかに、サンドラを奪うことなど僕にはできなかった。
それこそ、11年もあったのに、だ。
変わらぬ思いで君のそばにいて、だけど君はどんどん変わっていった。
無邪気に伸ばされるその手はすらりと細く、魚をたたき出すような手には見えない。 きっちりと結い上げられた髪に続く首筋ははかなく、かつて抱きつかれたときのようには簡単に手を伸ばせない。
体の線はいつしか丸みを帯びて、海賊船を思い描いて二人で船乗りの真似をした、そんな面影はみじんもない。
それでも僕にできることは、ただ閉じ込めているだけ。
そうして、昔のままそばにいるのに、サンドラはどんどん遠ざかるような気がしていた。だけど僕にはそばにいることしかできない。
それを一瞬で踏み越えられた。
ただきれいなだけのビスクドールは、見た目だけで関心を引き寄せるしかないから。
だから天使だと言われればそのように。
サンドラが賞するならそのように。
いつでも変わらぬ微笑みで、サンドラの嫌なことはしない、気持ちを押し付けない、望まれることは何でも。
そうすることで一番そばにいたかった。
愛されることがないならば嫌われたくなかった。
僕だけを見させることができないなら、他をサンドラの視界から消すだけ。
そうやって君のそばに居続けた11年は、君にとってどんな価値があったろうか。
目を閉じれば、過ごした日々が目に浮かぶ。
僕たちの過ごした11年は、あの男の口先だけの手練手管に負けるだろうか。
甘い風を吹かす事なら、僕は到底あの男にはかなわないだろう。
けれど、僕はただ黙って座っていたビスクドールじゃなかった。
本当の僕の気持ちは届いていないかもしれないけれど、いつだってサンドラだけを愛してきた。
いつだって心から。
*****
いつもの朝に、ハンスが靄の中から現れる。
「アンリ様、レオン・バルドーが結婚をするらしいとのうわさで昨夜からこの界隈では大変な噂です。相手こそまだわからないということですが、その様子から、おそらくは」
「もういい、わかった」
「どういたしましょうか」
僕は僕でしかない。
今やあの手品師が、サーカスのブランコみたいにサンドラの気持ちを大きく揺さぶるけれども、それが本当にブランコなら。
「アメレール家の仕事が終わったらすぐに研究室へ来てくれ」
「はい」
「そして今日は、サンドラがどこにいたのかを知らせに来るんだ。どこにいたかだけでいい。それ以上は聞きたくない」
「わかりました、アンリ様」
朝靄の中に荷馬車を見送り、研究所へ向かう。
しっとりと露に濡れた草を踏みしめ、バラの迷路を抜けると、途中で例のおかしな扇を見つける。
拾い上げればそれもすでに濡れている。
飾りの羽が閉じ、重い感触が手に残る。
顔を寄せればサンドラの匂いがかすかに頬を撫でていく。
研究所の机から便箋を取り出し、ペン先にインクを含ませ文字を綴っていく。
お前も同じビスクドール。けれどお前も部屋を飾っているばかりではないだろう。その心は、今何を思う?噂にかき乱され、またバラの枝を一本折るくらいの覚悟しかないのなら、どこぞの貴族のお飾りにでもなっておいた方が、相応だ。そうでないというならば、噂の中の真実をひとつ教えよう。レオン・バルドーが誰に熱を上げているというのか。
その目で確かめて、その身を決めるがいい。
やがてハンスがやってくる。僕は丁寧に封をし、手紙をハンスに渡す。
「これをフローラ・オージェ嬢に確実に渡せ」
「はい、アンリ様… …あの、大丈夫ですか?」
「詮索するのか?」
「いえ!まさか」
「お前は僕を見ていればいい。他に望みがあるとでも?」
「いや、とんでもありません!では、確かに手紙を!」
「ああ、そのほうがいい。余計なおしゃべりは破滅を呼ぶ」
ハンスを血相変えて走り出す。何があの男をここまで惹きつけるのだろうか。
サンドラの心ひとつも動かせないというのに。
やがて今日も暮れていく。
どんな時も、この庭園を鮮やかに染め上げていく。
けれど何色も僕には感じられない。
ただの色の諧調に過ぎないその現象は、僕の瞳に色を差すだけ。
「アンリ様… …本日はサンドラ様は、この庭園のミモザの下にいらっしゃいました」 「そうか」
「明後日は早朝からお出かけになるようです」
「早朝… …そう」
「… …アンリ様!あの!」
「今日見た事は、すべて忘れろ。今すぐに」 「… …はい」
ハンスが茜色に染まる丘を越えて、庭園へ戻っていく。あの丘の向こうにミモザが風に揺れる。
****
「アンリ!」
サンドラが僕に手を振って、軽やかに歩み寄る。
庭園の管理に就任することが決まった日。
僕にとっては不満でしかない、期待もされない閑職は、少なくとも、サンドラに僕を見直してもらえるような職ではなかった。
子供の頃と同じように土と戯れ草木を愛でる。
僕はこんな仕事に就く為に、サンドラと会う時間を減らしてまで勉強していたわけじゃなかったのに。
「アンリが賢いことは皆知ってるわ。そしてアンリが、一生懸命頑張ることをちっとも苦に思わないこともね。皆はもっと、一生懸命をさぼるのよ。頑張る事は苦痛なの。だけどアンリは違うわ」
そう言ってほほ笑んだ。僕だって苦しいことは好きじゃない。辛いことから手を引きたい。
だけど、僕は僕にとっての苦を知っているから。
サンドラ、君と離れることに比べたら他の何も、苦とは言えない。
そう伝えられたらよかったのに。
伝えられる術を持っていたなら。
「ありがとう、サンドラ」
だから僕はそう言う。
「あなたまだ15歳よ?そんなに急がなくても大丈夫よ」
うん、だけど、サンドラ、僕は早く君と結婚したいんだ。
二人だけの世界で二人で生きていきたい。
誰にも邪魔されず誰にも脅かされないところで。
子供の頃のように、サンドラが自然に僕へと手を伸ばし、優しく繋いでくれた頃の僕のままで、何も変わらずに何も知らず何も気付かないうちに。
身の内に沈む薄暗い気持ちを、君に知られたくなかった。
けれどそれは間違いだったのだろうか
茫洋とした一日もやっと終わりに近づく。
いつもの夕焼けの中からハンスが現れる。 「アンリ様、今日は来客がありました。貴族のお嬢様方と、それからフローラ・オージェ様」
「そう、あの人形も、やっと動く気になったかな」
僕はまた一通手紙を取り出すと、ハンスに託す。
「今すぐ行って、フローラ・オージェにこれを渡して」
遠く色が引いていく空を背に、僕はサンドラの家へと目指す。
ゆれる馬車の中で、通いなれたこの道に、隣にいるはずのサンドラがいない。
漠然とした右隣の向こうに、もうすぐ暗闇が迫る。
追い立てるように闇がやってくる。
優しく穏やかな時間はその速度ですっかりと変えられてしまう。
僕は目を閉じる。
こめかみが痛い。
そういえばしばらく寝ていない。
部屋中を埋める闇が僕を責めるから。
馬車がアメレール邸にたどり着くと、執事のワルターがやってくる。
僕が馬車から降りるのを見て、何かを言いさすのを手で制する。
「いいんだ、今日はサンドラに会いに来たわけじゃないんだ、ワルター」
「はい、アンリ様」
「明日… …サンドラは何時に家を出るの?」
目を合わせれば、何かを告げてしまいそうになる。ワルターは幼いころから僕たちを見守っていてくれたから。
目を伏せながらそう問えば、上背のあるこの執事の、いつものように優しい声が上から降ってくる。
「明朝4時でございますよ、アンリ様」 「わかった。ありがとう」
「アンリ様、大丈夫でございますよ」
その声に促されるように顔を上げれば、静かに何度も頷く灰色の目。
「明朝、朝食をご用意してお待ちしております」
「… …ありがとう」
ワルターが微笑む。
大丈夫、という言葉がざわついた心を鎮めていく。
暗い淵に一人立たされているような不安の中で、大丈夫と、そう言ってくれた事に僕は初めて呼吸を思い出したような気がして、深く息を吸い込んだ。
やがて街はすっかりと夜に明け渡す。
景色は黒に染め上げられ、ぽつりぽつりと明かりが灯る。
仮眠もできない暗闇では、僕の影を窓に映すこともない。
ひどい顔をしているような気がする。
指先がとても冷えていて、自分の鼓動を強く聞く。
喉が渇くから水差しからコップに注ぎ、一息に飲む。
僕はもう一度上着を着なおすと、馬車で夜明け前の庭園に戻る。
途中、オージェ子爵邸へ立ち寄れば、ぼうっと白い影が僕を待っていた。
「来るのか?オージェ嬢」
「ええ」
青白い顔がこちらに向けられて、ランプに照らし出されたのは、まるで陶器で作ったかのように何の表情もない。
「あきらめないんだな」
「もう本当にこれきりですわ」
そう言って伏せた瞳に光は無い。
無言のまま馬車は庭園を目指す。
ガス灯の明かりさえ届かない庭園は真の闇で、朝が訪れる気配などみじんもなかった。
もうすぐ幕が上がる。
舞台は整った。
「こんなところにこんな時間に、本当に来るのですか?」
「おや?知らないのかい?あの男の常とう手段なんだけど」
「そ… …うですか」
「根性はあるけど、頭が悪いんだね、オージェ嬢。だから、あの程度の男をまだ手に入れることもできない」
「アンリ様、あなたは噂を耳にして、どうしてサンドラ様を取り戻さないのですか?」
色を失った瞳が僕を責める。
「あなたなら、あなたとサンドラ様の間なら、そんなことは容易でしょうに」
「君と一緒だよ、オージェ嬢」
「… …私と?」
「怖いんだよ、とても」
ランプの下で、息を飲む気配を感じる。
「怖いんだ。レオン・バルドーを僕もよく知っているからね。何でもない様に入り込んでさらって行ってしまう。僕には到底できやしない」
オージェ嬢がそれを分っても分らなくても、どちらでもいい。
僕はただ広がる闇にしゃべり続ける。
「彼らの間に入ってサンドラを連れて帰るなんて簡単かもしれない。だけど、その瞳にもう僕が映ってなかったら?サンドラだけを連れてきたって無駄だ。心をあの男が握ってしまったらもうそんなことはなんの意味もない。それを知るのが怖い」
「アンリ様… …」
「君がここへ来たということは、レオンが完全にサンドラへ心を受け渡してしまったわけじゃないと、そう思っているからじゃないのか?」
そう言うと、オージェ嬢はふっと声に笑いを乗せる。
「私はあなた様ほど賢くありませんもの。ただの、未練ですわ」
「自分の逃げ道ばかりを作っているからさ」 「逃げ道?」
「本当にあの男が欲しかったら、もっと本気で欲しがればいい。他の女がいても良いなどと、自分勝手な逃げ道を作っている限り、あの男は手に入らない」
遠くに明かりが見える。ゆらゆらと揺れるランプが次第にこちらへ近づいてくる。
「僕は臆病で卑怯だ。だけど、逃げ道は作らなかった」
寄り添う様な二人の姿に、僕は手を握りしめる。
次第に空が明るみ始め、彼らのシルエットを浮かび上がらせる。
黒いマントの中に囲い込まれたサンドラの瞳には何がうつっているの。
二人の会話が耳に届く。
かわされる言葉の中に、僕は僕とサンドラの日々を探す。
「アンリ様… …!」
オージェ嬢の押し殺した声が、背後に聞こえる。
押し倒されたサンドラの上に、レオンがのしかかる。「アンリ様!!」 オージェ嬢の声が震える。
手のひらに爪が食い込んで血がにじむ。
「アンリ!アンリ!」
その声は、確かに僕に届いた。
必死に僕を呼ぶ声を僕は聞く。
君が僕を呼ぶ。
僕を。
君が手を伸ばすその先に、僕があることを知る。
君が見ようとする場所に、僕があることを知る。
もう、それだけで。
頬を伝う涙をぬぐう。
「アンリはぼんやりで、泣き虫ね」と笑うサンドラ。
そうだね、僕には君の心をバラ色に染めるような格好のいいところなんて一つもありはしない。
唇に笑みが浮かぶ。こんなに格好悪いのはちっとも天使じゃないけれど。
朝陽が一筋の光を投げる。
闇はいつも光に切り裂かれるのだ。
僕はその光の中に一歩踏み出す。
「サンドラ」
第二部完結です。
第三部 レオン・バルドー に続きます。