1 サンドラ・アメレール
「何だか不思議な気持ちになるね、あと3ヶ月でサンドラと僕が夫婦になるなんてさ」
そう言いながら、庭に咲き誇る一輪のバラを折って、アンリが私の髪に挿した。
「サンドラの髪にはやっぱりこの色が似合う」
アンリは満足そうに笑む。確かに私の野暮ったい茶色の髪には何色でも似合うというわけにはいかない。淡いピンクや黄色では褪せて見えるだろうし、かといって深紅じゃ浮きすぎる。まあ白は無難よね。むしろアンリがバラの一輪でも差したほうがいいのではないかと思うほど、日に透かす溶けるような淡い金色の髪は、背景を彩るバラを背負って絵になる容貌だ。
ちょっとこのバラ園の片隅に置いておいたら、いいアクセントになるんじゃないかしら。
実際、ここでずっと立ってらっしゃいと言えば、そうするだろうな、アンリの事だから。
等と考えながら私が見上げると、アンリはいつも通りににこにこしながら、うちの庭のバラ園をいつも通りにぐるぐると散歩する。というか、さっきからこれ何週目?もういい加減足もくたびれた。
「アンリ」
私はその淡く無駄にきらめく翡翠の瞳をまっすぐに見て言った。
「疲れた。足も痛いし。バラ見るなら一人でどうぞ。それではごきげんよう」
「え… …、ちょっと、サンドラ!」
私は踵を返し、さっさと屋敷に戻る。最近アンリの考えていることがますますわからない。
まあ確かに昔から、それこそ5歳か6歳ころからアンリはぼーっとした少年だった。
綺麗な花や景色を見て、すっかり思考を飛ばしてしまえるほどで、おかげでそのお花畑を最近は仕事方面に発揮して、美術史やら骨董やらを専門にした城の役職についているらしい。
城内のお花畑も管轄で、より美しく丈夫で香りの良い花の種を開発しているとか。
世の中何が役に立つかはわからない。
その容貌と相まって、いい年をして未だに花の王子様と呼ばれているんだから、噂で聞いたときには頭を抱えた。本人は全く気にしちゃいないけど。
とはいっても、伯爵家のどうせ四男だし、親の期待よりも猫かわいがりされた末息子なんだから立派にその役目を果たしていると言えば果たしてる。
かくいう私も等しい家柄の伯爵家は四姉妹の一番下。いろいろやらかしても、末っ子という立場で笑ってごまかせるというポジションを堅持してきた。
そんな私たちは、ほとんど人生に期待されていないという点と、母親同士が従妹であるという共通項に、その母親たちの少女的発想から、生まれた時から結婚を決められていた。
それが彼女たちにとってこの上なく素敵な約束に見えるのは、この母親たちもまた、蝶よ花よと育てられた末っ子同士だからかもしれないけれどこれは単なる私の偏見。
そして月日は流れてアンリも私も共に18歳になった今、いよいよ3か月後に式を控えているというわけだ。
でも私は知っている。
あのぼんやりアンリが、時々真剣な顔で視線を止めていることを。
そしてその先に、誰がいるのかも。
ぼんやりアンリはずっとぼんやりしていたらよかったのに。
アンリは、きれいなものが好きだ。だからそれが異性に向いても納得できる。
アンリが真剣に見つめるその先は、花のように美しい子爵家の娘。
どこの社交場でも口に上らないことはないほど愛らしい。一度見かけたら忘れられないほどのかわいらしさで、さらさらと流れる美しい金髪とぱちりとした青い目と、アンリと並べばまるでそこだけ童話の世界のようだと、噂にもなっていた。
これがさ、12歳とか13歳の話なら良かったのよ。淡い初恋なら、ダメになるにしろ実るにしろ、そこから5年もあればいろいろ変わる事があるのが今ならわかる。
そういうことが一段落あって、それでまあそれは別として結婚でもしましょうかというのはよくあることだ。
だけどね、18歳で突然目覚めるなんて。
ぼんやりアンリらしいといえばらしいけど。
でもどうするの?
その思いを抱えたまま私と結婚なんかして。
きっとぼんやりアンリの事。何の手立ても思いつかないまま、私と暮らし始めるだろう。
けれどぼんやりだから、私と結婚した後もきっとぼんやり見つめ続ける。
そんな横顔を見ているのはごめんなの。
ぼんやりアンリ。
私が注意しなくちゃ、うっかりフォークに刺さったステーキが床に落ちるまでぼんやりしてしまう。
私が気が付かなきゃ、こっちを見たまま花壇に頭から突っ込んでしまうことだってあるの。
小さいころからずっと世話を焼かせて、焼きすぎたせいか年の割には困った男になっちゃったけど、けれど私はその分、アンリには幸せになってほしい。
私のそばに置いとけば、花壇に落ちたりステーキ落としたりすることもない。
私のそばに置いとけば、ぼんやりの失敗だって防げると思ったけれど。
でもそれだけが人生じゃない。ぼんやりの失敗を防ぐのが人生じゃないのよ。
*****
アンリが手掛けた花と緑あふれる庭園は、ご令嬢が盛んにお茶会を催す人気の社交場となっている。冷たく寒い季節が去って、しばらく花の盛りの日々が楽しめる今こそ、この庭園があふれんばかりの花たちで人々の目を休ませる。
今日もあちこちからさざめく話し声を背景に、私はというとアンリと向かい合ってお茶を飲んでいる。
18歳になって結婚まで数ヶ月となると、ことあるごとにアンリはここに私を呼びだして、一緒にお茶を飲もうと言う。
普段から仲良くはしていたが、そう毎日会って話すこともない。なんでこう毎日毎日とは思ったが、結局このおかげでアンリの恋心を知ることができたけど。
アンリがふと視線を外に投げる。私もつられてそっちを見る。
するとざわめきの中に、花の姫君が現れる。
今日もふわりとした淡いオレンジに花を散らしたような刺繍が裾を飾り、その華奢な両肩に流れる金色の髪はまるで光の筋だ。
「きれいね」思わず私が言うと 「うん。すごくきれいだ」と、アンリが真剣なまなざしで彼女を見る。
恋を知らない私が、アンリの恋心を知ることはできない。
だけど、そんなに真剣に、そんなに思いつめた顔をするなら、私が何とかしてやりたいと思うのに不思議はないでしょ。
アンリは、率直に「あなた好きな方がいるのね。それでは婚約破棄しましょう」と言って引き下がるタイプじゃない。
ああ見えて案外頑固だ。
ぼんやりしている割には、妙に正義感があって、筋の通らないことは頑として受け付けない。
今回の場合、アンリにとっては不覚にも筋の通らない恋に落ちてしまったけれど、翻って生まれた時からの婚約者である私に筋を通そうとするだろう。
うーむ。ぼんやりしている割に侮れないのだ。
この「筋を通す」ということがポイントなのよね。
逆に、筋を通すことができない拠無い理由というものが、世の中にはあるということをこの際アンリが知るのもよいかもしれない。
そうよ。ぼんやりしていても、あれだけ熱い視線を彼女に送るくらいなんだから、激情とやらに身を任せてみてもいいと思う。
それにしてもあのアンリが、身を焦がすような激情!
……どうにもうまく想像できないけど、あの真摯なまなざし。
あれは幼少時の虫の観察以降見た事がないくらいだ。虫の観察にあれだけの情熱を注げるなら、例の花の姫君にもそれだけの熱い思いを抱くことができるというのはあながち間違いじゃない。
そうよ、アンリ!ちょっと遅かったけど、あなたは未知の目くるめく愛の扉をいよいよあけてしまったのね。
私は膝の上に置いた、一冊の本を握りしめた。
この本は、お母様が見事に揃えた愛の本である。
まさに、めくるめく愛の劇場がこの手の中に眠っているのだ。もちろんアンリのような道ならぬ恋も語られているはず。
アンリの恋心に気づいた私は、書庫からお母様の蔵書の中のこの一冊を選びだし、アンリにアドバイスをしようと思っている。なんなら今日、この庭園で麗らかな日差しと花の香りに包まれながら、優雅に愛について考えようと思っていたところなのだ。
アンリは私がよっぽど暇を持て余していると思っているのか、こうして呼び出されて向かい合っているため、私はこの本のページを捲ることもできない。
もちろん完璧にこの本を読み終え、完全に理解した暁には、アンリに素敵なアドバイスを親身になってするつもりだけれど、今はまだその時じゃないの。
アンリが何かを話していても、私はそれどころではない。
アンリの視線が花の姫君にふと向けられるたびに、待って!待ってよ!今にその恋私がなんとかしてあげるから、とにかくこの本を読ませてほしいと強く念じた。
「サンドラ、お茶をもう一杯どうかな?」
伝わらん!!
*****
庭園から帰ると、我が家の書庫へ直行した。
これ以上誰かに読書の邪魔をされたくない。
なにしろ結婚まであと3ヶ月なんだから!
足早に過ぎる渡り廊下には花が咲き誇り、確かここにも日陰に強い花をアンリが用意してくれたなと思う。全く、花においては右に出るものはいない。ここまでいけば脳内お花畑も無駄じゃないよ。
花の匂いに送られて、書庫のドアを開ける。静かな伯爵邸だけど、ここはよりいっそう音を感じない。紙とインクに囲まれて私は深呼吸をする。いつもならここで心置きなく好きな本を読むんだけど今日は違う。
突き当りに備えられた大きな椅子を窓際に動かし、ドスンと座って今日一日握りしめていた本をやっと開いた。
中は蜂蜜で書かれているのではないかと思うほどの甘い言葉が滴っていた。
うひゃあ。こういうのは手に取ったことは無いけれど、まあとにかくアンリの為よ。
それにしても回りくどい事ばっかりやってるのねなどと感想を頭に浮かばせながら、参考になりそうな話にしおりを挟む。
どれも、一同総ヒステリー状態で恋愛をこなしているというのは判った。ここでふと私は指を止める。
この私が、ヒステリー状態になったとしたらどうかしら?
アンリのように誰かに恋をしていて、とてもこの気持ちのままアンリと結婚なんかできない、という状況になるのよ。
長い付き合いの中で、私が恋にのぼせるなんてところ、アンリは見た事がない。というかむしろそんな私、私がお目にかかりたいくらいだ。
にもかかわらず!ここで私が!恋い焦がれる!
これはなかなか説得力があるわ。
しかもアンリ自身が現在進行形で渦中にあるんだから、私がノイローゼ状態であるというのも容易に共感してもらえるかもしれない。
とは言っても、昨日の今日でいきなり恋の病ですじゃ、どんだけはやり病でもそんな即効、全く信憑性がない。
ここはさらに一計を案じるべきね。
気付けば書庫に差し込む日はすでに黄色を帯びていた。
私は参考になりそうな本を他に二、三小脇に抱えて、書庫を後にする。
夕陽が渡り廊下に長い影を作り、日陰の花たちがひと時金色に染まる。
それを知っているのかアンリがそろえたこの花たちは、黄昏のこの時、日陰にいた時とは比べ物にならないほど美しく輝く。しばし見惚れて、アンリの審美眼に感服した。
夕食を終えて、寝るまでの間、ランプの灯りの元で私は気になった個所をもう一度さらう。
素直にそのまま「私は好きな人ができました」とアンリに伝えるのではなく、この噂を使うという婉曲さはどうだろうか。
これらの恋愛小説のほとんどは、本人に直接聞きゃいいものを、噂頼りに、すれ違いもすれ違いまくり、読者を焦らしに焦らす。全く不親切だ。やや憤慨したけれど、そんな小説の作法はさておき本題である。
結局激情に身悶える私、なんてものは大嘘なんだから、妙に鋭いところがあるアンリに見抜かれる恐れがある。
勝算危うい試合を今ここでやるわけにはいかない。
なんといってもこれにはアンリの人生がかかっているのだ。
そうよ、噂よ噂。そして私は伯爵令嬢。噂話のタネになるには格好の的だわ。
手段は噂と決まった。あとは内容よねえ。いくらなんでも根も葉もない噂を流すんだから、あんまり迷惑かけない相手を選ばなくちゃねえ。
本をいたずらにパラパラしながら、どんな噂にしようか考えていて、ふと思い出した噂があった。
身分は男爵家で、ちょっと低いんだけど、ものすごい美丈夫いるという噂だ。
もうとにかく歩いている姿を見るだけで心奪われるとかいうとんでもない輩だ。
本当に存在したらなんという公害。でも噂というのはそうしたものである。尾ひれに腹びれに背びれもついていくものだ。
ありとあらゆるご婦人方の心を奪い、関係した方々も数知れず。普通に聞いたらそんな男いるわけないと気付きそうなものだが、そうだそんな噂が確かにあった。
よし、そうしよう。その噂に乗っかってみよう。そんな噂の男なら、ここに一つ伯爵家の末娘の話がくっついたとて、大した話じゃない。これが花の姫君の意中の人でなんて言ったら大騒動になるが、しがない末っ子で目立つ容貌でもなく、社交場にもめったに顔を出さないような薄い存在の私の片恋くらい、バラの花びらが一枚増えたか増えないかくらいの作用しかないだろうしね!
と決まればさっそく筋書きよ。お母様もびっくりの、一大恋愛小説(ただし設定のみ)を書き上げて見せるわサンドラ・アメレール伯爵令嬢(18)!
生まれた時から決められた結婚を三か月後に控え、今日ものんびりとバラ園を散策していた。まだ夢見がちな彼女は、そう遠く無い未来を思って頬を染める。と、咲き乱れるバラの向こうに人影を見る。
誰かしら。
彼女はその人物をよく見ようと目を凝らした時、人生で初めて、雷に打たれたような衝撃を受ける。
流れるような美しい黒髪(未確認)をなびかせ、彫像のような横顔(未確認)、切れ長の瞳は夜の闇のように深く(未確認)その横顔に、彼女は心臓をわしづかみにされたのだ。
これが、恋!彼女はめまいを覚えながらその場に崩れ落ちる。
このような胸をかき乱すような気持ちを彼女は知らない。知ってしまった今、知らないふりなどできない。
不意に訪れ、サンドラの心を根こそぎ奪っていったかの人は、茂みの奥からひっそりと、まるで野の花のような可憐さで彼を見つめるサンドラには気付かない。彼女にとっては人生を変えるような出来事であったにもかかわらず!!!!
「ああ、なんて切ないのでしょう!」
先に声を上げたのは、ポーラだった。彼女も恋愛小説のとりこであること私は知っている。というか、そういうメンツをそろえたのだ。
今私が何をしているかというと、いわゆる一つのお茶会である。めったに主催などしない私が、あまつさえ自分のテリトリーに人を呼ぶのを好まない私が、せっせと招待状を手書きしてご招待つかまつったのである。
広く浅く最小限の努力で人脈を繋げといてよかった!
年近の令嬢たちの中でも、特に噂好きでそして恋愛小説が好きなお嬢さんがたを選別してみた!
何しろこっちはあと3カ月しかない。光よりも早く噂を回してもらいたいのだ。
「わかりますわ。わかります!その切ない気持ち… …」
カロリーヌはハンカチを握りしめる。
私の芝居はうまくいったようだ。満足げに彼女たちを見る。
話が重要であることが伝わるように、あえて2人という人数にした。
もっと人数は多い方が噂は回りやすいが、重要なというブランド力をつけるには少数精鋭がよい。
私は私の策士っぷりに思わずうっとりする。
このために私は、くすんだ色のドレスを着て、前髪をわざと多めにおろして目の上に影を作り、さらには赤いチークで目の周りを色づけ、あたかも泣きはらした目のように見せかける。唇はわざと色を消して、顔色の悪さを強調。
そして練りに練ったこの脚本。素晴らしいの一言に尽きる。こんな才能が私にあったなんて! 感激に打ち震えていると、2人は余りの切なさに震えているものと解釈してくれた。
「サンドラ様、さりとてあの方はあまりよろしい噂を聞かなくってよ。そんな方は思い切ってアンリ様とご結婚された方があなたの幸せよ」
「ええ、分っているのよ。結婚は決められているわ。でも私… …」
と、私は下を向く。
「サンドラ様!今はお辛いでしょうが、きっと忘れられる時が来ますわ。アンリ様はお優しいですもの。きっと癒してくださるわ」
「ええ、多分そうでしょう。けれど、与えられるものに真実などあるかしら。真実は掴み取っていかなくてはいけないのではないでしょうか。それが道ならぬ恋であろうと!」
そう言いながら私は天を仰ぐ。
「愚かな私をお叱りください、神よ」
2人もそろって天を仰ぐ。何たる間抜けな光景だ。
「ああ… …」
その場に崩れ落ちる、私。
「サンドラ様!」
駆け寄る2人。
「大丈夫よ、少しふらついただけ。お2人に聞いていただいて少し心が落ち着きましたわ」
「ご無理なさらないで。私たちはこれでお暇しますから」
「ごめんなさいね。つまらないお話して。せっかくのお茶が台無しだわ」
「そんなことありませんわ。少しでもあなたの力になれたなら」
「ありがとう、お二人共……」
私は手をしっかりと握る。彼女たちも私の手を握り返すとこう言う。
「お気を確かにね。きっと幸せになれますわ」
私は何度も彼女らにお礼を言う。少し涙をにじませるのを忘れない。
去って行く背中に手を振ると、彼女たちも振り返って手を振った。
さあ、噂よいってらっしゃい!
一仕事を終えて、私は清々しい気持ちで自室に戻った。果報は寝て待て。しばしの間に膨れ上がった噂はいずれ私の元へ戻ってくるだろう。
さてそれからがさらに難しい。これでアンリと顔を合わせてしまえば、芝居を打ったことが案外簡単にばれてしまう恐れがある。
どうするか。これはひきこもり作戦にするか?まあいい。とりあえず噂が広まるのを待とう。
私は久しぶりに使った脳みそをほぐすようにこめかみをもんだ。
将来、恋愛小説家への道を本格的に考えたほうがいいかもしれない。
*****
ところが私は噂というものを甘く見ていた。
何度も言うが尾ひれどころか腹びれも背びれもついていくものである。なぜこんなにひれに詳しいかというと、幼少時にアンリが、川で捕った魚を詳しく分析してくれたからである。
いや、ひれの事は関係ない。
そのお茶会から一週間たったくらいのころ、最近じゃめったに動かないお母様が、血相変えて私の部屋に飛び込んできた。
「サンドラ!サンドラ!!」
「まあどうしましたの、お母様」
「あなた… …」
そう言って私をきつく抱きしめる。私は何かやらかしてしまったろうかと逡巡した。
小さなころから私が何かしでかす度に強く抱きしめられたものだ。
「お、お母様。苦しいのですが」
「そう、やっぱりそうなのね… …。あなた、そんな苦しい恋を人知れず胸に秘めていたなんて!!」
かろうじてお母様の豊満な胸の谷間から顔を見上げれば、はらはらと涙をこぼしていた。
え?もしかして噂もう回った?
「お母様、何のことでしょうか」
「ごまかそうとしても分っているわ。あなた、お相手はレオン・バルドーで間違いないわね?」
レオン・バルドー?誰だそれ。
いや多分それだ。
この状況で名前が出てきたんならたぶんそれで正解。
私は黙ってうなずく。
「ああ、サンドラ!あなたにはあのような男は上級者過ぎてよ。だから身も心も捧げることになってしまうのよ」
え?ちょっと待ってよ、今聞き捨てならない言葉が無かった?
身?身って何?いつから私は人身御供になったのか?
頭の中で人身御供をぐるぐる回していると、お母様は私をそのまま抱きしめながらこう言う。
「大丈夫よサンドラ。何も心配しないで。アンリとの結婚の件ならお母様に任せてちょうだい。きっとアンリならわかってくれるわ」
私は思わず顔を上げてお母様を見る。
「かわいい子、ええ、そんな心配そうな顔をして。大丈夫よ。純真なあなたは悪い夢を見てしまったのよ。結婚の事なら滞りなく進められるよう、お母様に任してちょうだい」
そうして髪を撫でさする。
いやいやいや、そうじゃない!そうじゃないよ!
そんな何でも無いように流されて結婚の話がすいすい進んだら、私が張り切った意味がない!
「いえ!お母様!私!」
お母様は私の頬を手で包むと優しげに微笑む。
「いいのよ、何も言わないで」
「違うの、お母様!私、アンリとは結婚できないわ!」
そう言うと、お母様はその青くきれいな瞳を丸くさせると、あわてて言う。
「この件なら大丈夫よ、お母様は」
「お母様、私、こんな気持ちのままアンリのそばいることなんてできない… …」
お母様の言葉に重ねるようそう言って私は顔を伏せる。とにかく何かをごまかすには顔を伏せるのが得策だ。
「あなた… …彼の事ならいつか忘れることができるわ、だから」
「いいえ、お母様… …いつかは忘れられるかもしれない。だけど、アンリの顔を見るたびに私きっとこの事を思い出してしまう。自信が無いの。アンリの隣で以前の私のままで笑っていられる自信が!」
そう言って私は両手で顔を覆ってお母様の胸に飛び込む。私はアメレール4姉妹の中でも小柄だからとうとう母より背が伸びず、都合の悪い時はこうやっていつも子供に戻ってしまえる。ラッキーポジションと言ってよい。
「ああ、サンドラ。あなたのためにあの男と結婚を進めることもアメレールにはできるけれど… …」
「お母様、私あの方との結婚は望んでおりませんの。だってきっと私だけを見てくれるわけじゃないのですから… …」
「……サンドラ!」
私とお母様は屋敷のポーチで、ドレスの事など構わずに膝をついで抱き合う。午後の日ざしが私たちを優しく包み、小鳥が囀り、バラの香りが辺りに漂う。すごい、すごいシーンが出来上がったわ。
「ああ、でもお母様、私こんな話をアンリにしなくてはいけないなんて… …」
「わかっているわ。お母様がアンリのお母様とアンリとお話ししてくるわ。大丈夫よ。あなたはこれ以上何も心配しなくてもいいの」
お母様は私の手を取ると立ち上がらせる。そして、私の目を見てしっかりとうなずいた。 無論、私はここで涙の一粒をこぼす事を忘れない。
「お母様… …」
「さあ、サンドラ。今お茶を用意させましょう。テラスにでもいらっしゃる?」 「いえ、お部屋へ戻ろうかと… …」
「わかったわ。今はあなたの思う様になさい。お母様があなたの心配事を一つでも少なくしてあげてよ。大丈夫だからね」
お母様の優しい手が私の背中を押してくれる。私はそのまま静かに階段をのぼり、自室へ戻ってゆっくりと扉を閉めた。
そのまま走っていってベッドにダイブするとごろごろと転がりまわる。
「素晴らしいわ!サンドラ!」
そしてそう声に出してみる。
こういうのを一石二鳥というのね!人身御供になっただけのことはあったわ。
アンリとの直接対決は免れたし、お母様とアンリのお母様が話してくれるなら、きっとアンリも承諾するはず!
何と前半の山場を私抜きで展開できるなんて!
いよいよ、これで後半の山場に向かって止まらぬ愛の暴走馬車は未来に向かって突っ走っていくのよ!私は勢い余ってベッドの上に立ち上がると、窓の外に広がるはるか西の地平線に向かって指差した。 なんだかやることが大袈裟になっていくような気がするが致し方ない。きっとどこかの恋愛小説家もこのような派手なリアクションで話を書き進めているに違いない。
さて。
私はその後の展開について考える。
こうして私との婚約がダメになったアンリはちょっと気落ちするのね。
ずっと仲良くしていた幼馴染がまさかこんなに簡単にこれほどわかりやすい男に引っかかるなんて。
そんな失意の中、例の花の姫君とばったり会う。姫君も私との婚約破棄騒動は噂で知っているだろうから、なんだかんだと慰められて、それで二人は仲良くなる。
私はベッドから降りると、窓辺に向かう。
窓の下にはバラ園があって、新種を作ってはアンリが持ってきた。庭師に的確なアドバイスをして、お母様の自慢の庭園がそこに広がる。
生まれた時から傍にいるからうっかり忘れているけど、アンリは美形だ。
アンリに微笑まれてときめかない女の子はいないと思う。ぼんやりしてるけど、なんだかんだと花をくれるなんてちょっとそこいら辺の男にはできない気遣いだと思うの。
性格も優しいし穏やかだから、きっとアンリは女の子を幸せにできるタイプだ。
世の中はとかくある程度の野性味を男の人の求める傾向だけど、花の姫君のような愛らしい子は、アンリがきっとぴったりだ。
*****
アンリとの婚約破棄話がどうも広まっていないみたいだ。
なぜかというと、もし噂が広まるものならカロリーヌやポーラが一目散にやってくるだろう。 ところがかれこれ一週間。何の音沙汰もない。
というか、お母様からも何の報告もない。「大丈夫よ」しか言わないし。
意外に苦戦しているのかもしれない。
アンリ、世の中には道理ばかりでは掴むものをみすみす逃すこともあるのよ。
内側からの攻めがうまくいかないなら外堀を埋めるしかない。
ここはひとつ派手に噂をまき散らし、外側から私の情報をアンリに流すしかない。
お母様たちがむやみに噂を流すとは思えないし、また私が発するしかないわね。
私は毎日数通は来るお茶会のお誘いから、都合の良いものをいくつか選別する。
一通の茜色の封筒を手に取った。これはカロリーヌからの、毎週催されている定例お茶会のお誘い。こんなの行ったことないけど。
何しろ内容がおすすめの恋愛小説をみんなで読み合わせたりご紹介したりするもの。
恋愛小説自体を読まない私が参加しても仕方がないから今まで断ってきたが、こういう集まりの方が場が盛り上がるよね?
カロリーヌだってあれからどうしたか聞いてみたいとは思うし。
よし、これにしよう。
私は早速返事を書く。本来は自分のおすすめ小説を片手に参加するのが基本だけど、とにかく私は今、片思いに苦しんで、しかも婚約を破棄してしまうほどの追い詰められっぷりだからね。
ちょっと文字を震わせとこうかしら。
カロリーヌとポーラがともに目を泣き腫らし、真っ赤になった鼻をしきりにこすりあげるのを見て、私は満足感に浸っていた。
しかし満足そうな顔をしてはならないため、そっとうつむく。
全く私の才能には、私が一番驚く。こんなに人の心を動かす事ができるなんて思いもしなかった。
思えば幼少時から、私の遊び相手はアンリだけだった。
野山に連れ出され花の名前をあてっこしたり、家にいれば一緒に長い物語を読んだ。
アンリはお人形遊びだって上手だったし、おままごとの相手としても申し分なかった。
そう言えば二人で作ったお話で遊んだこともあったわ。そういうことが今のこれに生きているのね。
それにしても、アンリのお城勤めが決まって、あまり私との時間が無くなってきて初めて、私はアンリ以外の人と時間を共にするようになったのだったわ。
それでもやっぱり基本はアンリだったから、めったに人と会わないし、連れ立って出かけることもなかった。
そういうことをするのはアンリだけだとなぜか思っていたのだ。
だからお付き合いと言ってもお手紙とか、たまに大きなパーティーがある時にちょっと立ち話する程度。
社交デビューをする前なんて、本当に私の遊び相手はアンリだけだった。
アンリはいろんなことをよく知っていたし、お姉さまたちみたいに癇癪を起こしたりしない。
でも、私の話で感極まっている女子2人を眺めるに、なんかいいわね、こういうのって。こういう反応はアンリにはなかった。
おかげで妙な高揚感がある。私は彼女たちと共にする時間を楽しんでいることに気付く。
どうしてもっと早く、女の子の友達を作らなかったのかしら。
小さなころから、アンリが遊べなかったらそれは遊べない日になって、部屋で一日本を読んだりして過ごした。外でアンリ以外の誰かと遊ぼうという考えも浮かばないくらい毎日アンリと一緒にいたのだ。
こんなに楽しいなら、もっと積極的にお友達を作るべきだったのに。
泣きながら私の事について意見を交わし合う2人を眺める。カロリーヌは私が出席するとわかるや否や、お茶会自体を中止して、私とポーラだけの秘密の会合にした。
カロリーヌはカロリーヌなりに、傷ついている私を慮ってくれたのだ。
その気持ちだけで、このあとうっかり秘密の話を漏らしてしまうとしても全然オッケー!
ポーラはとびきり上等のお茶菓子を山のように持ってきてくれた。恋の悩みには甘いものだとポーラは言う。どうりで常に誰かにお熱を上げているポーラが、街のスイーツを知らないお店が無いのは、恋の悩みのせいかもしれない。
彼女たちに悪気はなくとも噂は広がるだろう。「とある令嬢がね… …」から始まってうっかり漏らした一言が瞬く間に広がる事を私は知っている。
本当に知られたくないことは本当に黙っていればいいのだ。噂が広まって困るのは、漏らしてしまった自分のせい。
「でも、サンドラ様。私ちょっと気になる事が… …」
ある程度鼻もかんだカロリーヌが、私の様子を窺うように言う。
「気になる事?」
「これでもし、あなたの言うとおりにアンリ様との結婚がなくなったら、あなたはどうなさるおつもりなの?」
「どうって?」
「冷静に考えれば、恋の不可抗力だったとしても、スキャンダルに思う人もいるかとは思いますの」
「私たちはスキャンダルだなんて思ってませんわ。運命とはそう言うものですから!」
二人はこぞってそう言う。だから私はまっすぐな瞳で彼女たちの顔を見渡し、静かな声でこう言った。
「私、アンリ以外との結婚は考えていませんの」
これは本当。私はアンリ以外とは結婚しない。
子供のころから家族同然で生きてきた。だからこの後本当に家族になるよと言われても何の抵抗もなかった。これまでの生活がこれまで通り続いていくだけ。
逆にアンリ以外の誰と結婚できるものか。アンリ以外の誰と家族同然の絆を築けるものか。
私は家族同然に育ってきたアンリが一番大事。だからアンリの幸せが私の幸せ。
アンリが花の姫君と結婚して幸せなら、私もそれが幸せなの。
きっと2人には美しい子供が生まれる。その子供を愛でるのも、私の楽しみでもあるの。
「じゃあ!このまま結婚された方がお幸せになれるのに!」
「いいえ、このままでは私は幸せではないわ。アンリの、あの宝石のような美しい瞳を見るたびに、花を贈られるたびに、私はきっとこの件を後悔するでしょう。ただ一人、アンリを愛することが出来なかったこの身を恨むでしょう。それが、本当に幸せかしら?」
彼女たちは再び、涙を流し、歯を食いしばった。なぜなら嗚咽が漏れてしまう。声を殺しながら涙を流す。なんと心豊かな事よ。その心、大事にしてちょうだい。
私の方の心は、もうはるか遠く未来を羽ばたいていた。きっと私は読者をごまんと抱える売れっ子恋愛小説家になるに違いない。今からサインの練習をしておかねば。
将来、誰とも結婚がダメになっても、私は痛くもかゆくもなかった。
実家に居座る口実もできるし、そうなればどれだけ引きこもって恋愛小説を記そうとも誰にも文句は言われない。その様にちょっと奇人を極めれば、アメレール家にすり寄る殿方に言い寄られることもないだろう。
アンリも幸せ、私も幸せ。なんと輝かしい事か!
それでアンリと花の姫君ののろけ話を目を細めて聞きながら、いつかネタに使ってやろうとほくそえむ、そんな素敵な午後のお茶会が、まるで実際に起こっているかように目の前に広がった。
「サンドラ様?」
あまりに清々しい顔をしてしまっていたせいで、カロリーヌがいぶかしそうに私を見た。おっといけない。まだ舞台は進行中だったわ。うっかり仮面を外してしまいそうになるなんて。 忘れてはいけない、サンドラは、油断をすればすぐ割れてしまう、ガラスの仮面をつけていることを!
それから一週間が経つ。一週間一週間一週間!!積み重なっているうちに結婚まであと2カ月になってしまった!
なんということだ。 脚本上、傷ついた私は伏せっているので、外へ出ることもできないから噂がいったいどうなっているのか知りようもない。
お母様はアンリの事に触れなくなってしまったし、いったい何がどうなっているのよ。
アンリもアンリで、会いたくないと言われて、はいそうですかと、全く音沙汰ないというのもどうなのよ。
私はいらいらしながら扇をぱちりぱちりと鳴らす。
それにしても、これだけ動きが無いというのは、疑うわけじゃないけど、お母様は本当にアンリに婚約破棄の件を話してくれているのかしら。
いやそれよりもむしろ、アンリよ。もしかして、お母様たちの話をまともに取り合ってないんじゃないかしら。「またまたサンドラが面白いことやってるな〜」程度にしか考えてなかったとしたら?
あり得る!!あり得るわよあのぼんやり!
だからお母様頼みだけでなく、噂をまき散らしているというのに!
まさかカロリーヌたちが本気で口をつぐんでいるのかしら?いやもしかすると、噂を聞いてもなおアンリは「サンドラのいたずらもなかなかやるようになったな〜」とか?
私は自分を抱きしめる。なんてことでしょう。こんなにもうまく進んでいた物事が、なに一つアンリに作用していない可能性があるなんて!
むしろそうよ、アンリは研究室にこもりきりになる事もある。そうなってしまうと噂なんかどこ吹く風の可能性もあるんだわ!噂そのものが耳に入っておらず、しかもお母様たちの話を真剣に聞かないとしたら?
なんて無駄な1カ月を過ごしてしまったのかしら!
私は愕然としてベッドに倒れこんだ。まさかまさかこんな可能性があるなんて!
そう、私は敵を読み間違えていたわ。あの天然ぼんやりを侮っていた。
というか、凡人には到底あのぼんやりの考えなど読むことは出来っこないじゃない。
倒れこんだまま私はほぞをかむ。手ではさらにパチパチと扇を鳴らした。もうこの扇の骨が折れたっていいくらいに。
こんなことじゃだめだわ。こんなことではアンリの運命は変えられない。
ひょっとすると、せっかく芽生えた思いを、アンリは気付いていない可能性もある。
ぼんやりと生きてぼんやりと私と結婚し、ぼんやりと花の姫君を見つめ続ける。それが恋だと、もし気が付いて無くて、私と結婚した後に突然それを知ったとしたら。
傷つくのは、アンリだわ。
ぼんやりアンリが悲しい顔をしているところなんて見たくない。アンリはいつもにこにこと過ごしていてほしい。
真剣に花の姫君を見つめる横顔を思い出す。あんな風に女の子を見つめる顔なんて見た事はなかった。それでも変わらず私に微笑む。ぼんやりアンリが、自分の気持ちを隠して私といつも通りに接するなんて器用なことできるはずなかった。
そうか、アンリ。あなたまだ自分の思いに気付いていないのね。
私はゆっくりとベッドから起き上がった。
いろいろ筋書きを変更しなければならない。それにはまず観察からだ。
敵の状況を知らずに戦隊を動かすことはできないわ。
私はにわか恋愛小説家から、にわか戦略家ににわか転向する。
それにはまず敵情視察のため、ただいまより変装を開始いたします!
鏡の前に立つと、まずきっちりとまとめあげた髪を下ろす。
私は小柄なうえに顔も童顔だから、ぎりぎりと髪を上に引っ張ることにより、目を吊り上げる。こうするとお母様に似た甘い目元がすっきりして年相応に見えるからだ。
ふわふわとした巻き毛も子供っぽさを増長するから、髪をまとめるというのは得策なのだ。
しかしそうであるからこそあえてここは下ろすと、昔お母様からプレゼントされた大きな花の髪飾りをつける。
お母様はとかく私を子供っぽく装わせたがる。
猫かわいがりもいいけれど、私はもう18なのにな。
侍女を呼んで、同様にお母様からのドレスを選んでもらう。最近は私が自分でデザインを決めているが、お母様が作るとドレスも甘くなりがちで、もったいないけれど一度も着ていなかったピンクのフリルをふんだんに使用したものを選ぶ。
まさかこれに袖を通す日が来るとはね。
侍女はそんな私を「サンドラ様はやっぱりこういう方がお似合いになりますね。かわいらしくて」と満足げに見ていたが、私はすっかり変装気分だ。
常と変わるのなら変わるだけ良い。何しろ、 斥候の大役を果たさねばならないのだから。
天気も上々。まさしく偵察日和。私は意気揚々と、かつこそこそという上級テクニックを駆使していつもの庭園へ向かう。
出来るだけ目立たぬ場所に馬車を止めてもらい、扇で顔をなんとなく隠しながら庭園へ入った。
今日も目を奪うバラの数々に癒されるが、のんびり鑑賞しているわけにはいかない。
人目をはばかりながら庭園の東にあるアンリの研究室へ急ぐ。
ここはやや遠回りだが、バラの迷路を通って行くのが一番人目につかない。
余談だがバラの迷路は実は私が作ったと言って過言ではない逸品だ。
バラの迷路があったらすてきね、と図案をアンリに渡したらそれを再現してくれたのだ。
おかげで迷路は恋人たちのメッカになりつつある。やはり恋愛の演出の達人としての才覚が、こんなところにもにじみ出てしまうが、今だけはそれを返上し、偵察に徹さなければ。
恋人たちが集うのも日暮れ以降のこと。太陽燦々おはようさんな、きらめく日差しのさわやかなこの時間にわざわざ迷路やってる酔狂な人はいない。
そこで私は気兼ねなく足を踏み入れ、さくさく歩みを進める。
ここを右へ曲がると見せかけて実は正解は左なのよねとちょっとばかり迷路を楽しみながらするりと曲がると、突然私は壁にぶつかる。
「ひゃあ!」
どんとぶつかって私はよろめいた。
いたた、こんなところには壁はないはず、と鼻をさすりながら目を開けると、そこには、流れるような美しい黒髪をなびかせ、彫像のような横顔に、切れ長の夜の闇のように深い瞳が私を見下していた。あれ、この表現どっかで見覚えが?
のけぞるほどに背が高いなと遥かに見上げながら、こういう時は距離を取るべきだと後ろにちょこちょこ下がる。
だいぶ下がって私の首の角度もそうおかしくないところまで下りた。
そして今一度壁の全身を見やって息を飲む。
こ、これは。
これは相当レベルの高い美形に属する人間だ。
普通だったらうっとしいと思える緩やかにうねる黒髪が顔を縁取り、冷たそうな印象をあたえそうな黒い瞳が案外大きく、年齢を分らなくさせている。背の高さに伴って、頑丈そうだし、騎士団か何かの類の職業かしら。
それにしても、アンリのおかげで美形慣れしているからいいけど、そん所そこいらのご令嬢がこんなシチュエーションでばったり出くわしたら、がっつり持ってかれるわね。
等と観察していると、向こうも観察していたように視線を上下させてぴたりと私の目で止めた。
すごい眼力だ。目の力だけで心を動かせるわね。私の一芝居とちょっと段階が違う感じだわ。
しかし私は負けない。
取り立てた力はない上に特筆すべき特徴もない茶色い目ん玉は、だてに18年、天使ですか?と言われるほど美形なあのアンリの、輝く水色の瞳を見ていたわけじゃないのよ。
しばし対峙していると、黒い瞳がふっと笑んだ。こちらを懐柔せんとする色がじわじわと浮かぶ。
どうということはないと胸を張って見返していたわけだが、その様子に私は一歩引く。
私がこうして髪を下ろしてお母様的センスの出で立ちにしているのは、何も私がサンドラ・アメレールだとアンリにばれないようにするためだけではない。
黙っていれば家柄とセットで数段見栄えがよく見えたとしても、私もまあまあそこそこそれなりレベルの容姿を何とか保持してきた。まあ、アンリに比べちゃ天使とリス程度の開きはあるが、リスはリスなりに人の心をつかむでしょう。だから、人並みに世間を警戒して生きてはいる。
しかし、斥候となればそうもいかない。侍女連れてどうのなんてやってたら敵に見つかってしアンリまう。
わざわざ子供っぽくした鏡の向こうの私は、どこかの童話でウサギと戯れているような、10代前半の少女にしか見えない。
と、自分で言い切っておいてそこそこ傷つく。わざわざ、なんていうのは過言だった。
単に普段の身支度の手間を4分の1に減らしただけなんだから。
いやそうは言っても、周囲の年頃の男性たちからの目くらましとしては十分な対策だ。
さすが私!敵に遭遇する前の危険を察知し、それに対応しているんなんて!
まさかこれほどまでに斥候に向いているとは!恋愛小説家を返上して本格的に斥候になったほうがいいのではなかろうか。
いやしかし、私には待たせている読者がいる。
なんていうことだ。神は私に才をあたえすぎだ。
しかしながら、私は今自分の読みの浅さに、やはり斥候より恋愛小説家だという思いが頭をよぎっている。色を持って見つめる黒い双眸に私は身の内でエマージェンシーコールを聞く。世の中には少女偏愛という種類の人間がいるということを失念していたのだ。
もしかしてこれは非常にまずいのでは。
私は壁の肩越しに逃げ道を探る。だけど先ほど迷路で、右に曲がるのはトラップだと自分で言いながら左の美形の壁から距離を取るために、自ら袋小路の右に入ってしまっていた!
何たる迂闊。背中に冷や汗を垂らしながら、じりじりと距離を詰める美形壁から逃れるようにさらに一歩一歩、袋小路のどん詰まりに足を進めるしかなかった。
やがてさすがの私の顔にも恐怖が浮かび上がってきたのか、美形壁は歩みを止めた。
そして片頬を上げるようににやりと笑ってこう言った。
「サンドラ・アメレール嬢」
突然自分の名前を発せられて、私は驚愕する。なぜこの男が私の名を。
というか知っていたとして今の出で立ちでなぜわかる!
「あ、あなたは誰?!どうして私の名前を知っているの?!」
弱冠声が震えてしまったのは致し方ない。
すると美形壁の方はさも心外だという風な顔をした。俺を知らないとはって感じかしら。
はん!美形だからって国中の女が知ってるとでも思ったか!この井の中の蛙め!
世の中にはアンリだっているんだから!
私はいささかの憤りを力にして、その黒く底光りするような目を睨んだ。
そんな私を面白そうに見やると、揶揄を込めたような口調でこう言った。
「レオン・バルドーに熱を上げて婚約を破棄したというサンドラ・アメレール嬢だと思ったんだが、違うサンドラ・アメレール嬢でしたかな?」
私はぐっと息を詰める。的確な噂が流れていることははっきりした。
しかしその事で何か茶化されるのは腹立たしい。
「そうよ!それが何か?」
「俺がその、レオン・バルドーですが、サンドラ・アメレール嬢?もしや、初めまして?とご挨拶したほうが?」
な。 今、なんて… …。
「顔も知らない男に恋焦がれて婚約まで破棄したとは、なかなか面白い話だな。それとも、そういう駆け引き?」
また更に間合いを詰めるように、レオン・バルドーは一歩一歩とこちらに近づく。だけど私はもう一歩も引けない。
なぜならアンリが作った白いバラがなめらかな花びらで背中を撫でるから。
やがて伸ばされた手が私の顎に触れると、ゆっくりと上を向かされる。
「関係した事もない女に、関係したと言われるのは嫌いでね」
そう言いながら、レオン・バルドーは私の顔をまるで陶器の鑑定でもするみたいに細めた目でじっくりと見る。
「わ、悪かったわ!」
悪いと思ったらすぐ謝る。これ鉄則ね。もうね、どう考えてもあっちが優勢でしょこれ。どんな言い訳も言い逃れも通用しない気配が充満しすぎて窒息する!
「悪かった、とは?」
「説明するからこの手を離して」
「そうか。じゃあとりあえず、お詫びのしるしをいただこうか」
そう言うなり、私の顔に影が落ちてくる。漆黒の瞳には夜空みたいな細かい光が散っていて……っ!
ちょっと待て!
「はわー!!!!!!!」
私はとっさに叫ぶと一気にしゃがんだ。
前後左右がダメなら下があるのよ!パンがなければクッキー!!
見上げると、すんでのところで白バラに顔を突っ込む寸前で踏みとどまっているレオンがいた。
さすがの体幹ね!トゲだらけのバラの生け垣に顔を突っ込むところ、ちょっと見てみたかった!
私はドレスの裾を抱えて、するりとレオンの背後に回る。
形勢的には逆転である。
私は腰に手を当てて、姿勢を正し、いまだバラの生け垣と向かい合っているレオンに言った。
「犬や猫じゃあるまいし、そんなに顔を近づけないでよね!」
しかしいつまでもレオンはこちらに振り返らず、生け垣に張り付いてるみたいに動かない。
「……ちょっと、ちょっとあなた?聞いてるの?」
直立不動のバランスの良い後ろ姿が、不意に肩を震わせ始めたと思ったら、次の瞬間にはまるで馬鹿みたいに笑い出した。
「なんだって……いま…なん…はわ?はわーー?…っく」
笑いながら、自分の発言にまた笑う。なんていうのかしらこういう現象。
「何がおかしいのよ!」
「どこから出てきた声だっ!く… …俺を笑い殺す気か!ほんと、これ、腹が痛いっ… …」
やっとこちらに振り返ったかと思ったら、その冷たそうな眦に涙を浮かべながら、文字通り身をよじって笑っている。
「はわーーがそんなに面白いかしら?気合よ!気合!はわーー!!」
「やめろ!やめてくれ!令嬢が……気合で……はわーー!?」
そのうち立ってられなくなったのか、座り込み、それでもまだ笑う。
私は逆にこの男を見下ろす形になった。
目の前で笑い転げるさまは、さっきの身がすくむような威圧感と相反して、まるでオオカミが笑いでのたうちまわっているような滑稽さがあった。いやそんなことあり得ないけど。
「はーーーーー!まったく、何がなんだか……」
まだ不自然に顔を歪めながら、レオンは髪をかきあげ、全身の息を抜くように大きく息を吐いてから、すっかりくつろいだようにあぐらをかいた。
「さて?顔も知らない俺にべたぼれしているというご令嬢が、近づいて見れば、しっぽを振るどころか、変な掛け声で気合一発、逆毛をたててるとは?」
顔を傾げて頬杖をつく。何をやっても絵になるとはこのことね。
「今更見惚れられてもな?最初からやり直すか?」
「はわーー!すごい自信家ね!」
「……っつ!!!だからその間の抜けた声ではわーとかなんとかいうの……頼むから……も…やめろっ!!」
肩で息をしながら叫ぶレオン・バルドーは、もしかすると笑い上戸なんじゃないかしら?
世の女性をたぶらかす壮絶な美丈夫が実は笑い上戸って、なんか良い感じの設定じゃない?
意識を小説家の世界へ飛ばし始めた私に、レオン・バルドーは大きなため息をついた。
「察するに、これは俺が怒っても良いような話なんじゃないのか?」
笑いを飲み込んで、じとっと私を恨めしげに見上げる黒い瞳にはたと我に返った。
単なる噂のネタとはいえ、本来は了承を得るべきだった。
これで気分を害したなら当然謝罪すべきだし、ここからこの話が私のでっち上げだと周囲にばれてしまうわけにはいかない。
勝手に巻き込んで申し訳ないけれど、ほんのちょっとの間だけでもお芝居に付き合ってもらわなくては。
そこで私は詳細は話さずにかいつまんで状況を説明する事にした。
ここでアンリの思い人の名を明かすわけにはもちろんいかない。
黙って私の話を聞いていたレオンは、思いのほか真剣だった。もっと馬鹿にするとか揚げ足取るかと思ったのに、相槌は打っても茶々は入れなかった。
「なるほどねえ」
レオンはそう言って何度目かのため息をついた。
「あのアンリ・シセが大空に文字を書くようなことをしても、全然通じない人間というのが存在するんだな」
は?何の話?この人ちゃんと聞いてたんじゃなかったの?
「え?ちゃんとわかってる?」
「ああわかってるよ。もちろん協力してやろう」
「ええ!本当に?」
まあ私の深い脚本の内容について、思い及ばないということもあるだろうけど、とにかく協力してくれるなら何でもいいわ。
「他言無用よ」
「当然だ。その代わり条件がある」
「条件?」
「そう」
条件ってなんだか不穏よね。でも協力は頼みたいし。
「実は俺も一芝居打ってほしい相手を探していたんだ」
「え?あなたも」
「ああ。でも内容が内容だけに、うっかり誰かに頼めなかったのさ。どうだ?」
そう言う顔はかなり真面目なものだった。
「とりあえずその内容とやらを聞かせてくれる?」
「俺は内容も知らずに巻き込まれたのに?」
「悪かったわよ」
「まあいいさ。これ以上の意地悪はやめておこう、今後のために」
「今後ね。そうね。乗り切るまでは仲良くありたいものだわ」
「わかってないんだろうけど」
「何がよ?」
「いや、別に。俺の場合はこうだ」
と、話し出す内容がまさになんというか神の啓示みたいに今の私に好都合だった。
レオン・バルドーに今、結婚を迫ってくる女性がいるそうだ。ところがこれがレオンの全く好みではない。
だからと振り切る為にやっきになって浮名を流そうとも、彼女はずっと追ってくる。
どんな女と遊んでいても構わない。結婚しても遊んでたって構わないって。
なんかそんなの、この男にはずいぶん都合がいい話だと思うんだけど、レオンにしてみればそうやって自由にさせてもらったとしても結婚したくないくらいタイプじゃないそうだ。
ふーん。しかも身分が彼女の方が上だから、彼女のご両親が動いてしまえばあっけなく結婚させられてしまうらいい。
でも素行が悪いせいかなかなか向こうのご両親は首を縦に振らない。
まあ当然よね。
だからこのまま逃げ切れるだろうと踏んでたのに、いよいよ彼女の方は結婚できなくば尼になると大騒ぎしているそうだ。
やれやれ。ヒステリー状態だ。
彼女の家はなんと兄弟姉妹がおらず、彼女が尼にでもなられたら家はそれで潰えてしまう。だからご両親はこの際レオンでいいからという話が持ち上がってきた。
「でも、あなたにとってはいい話じゃないの?今まで通り女性と遊んでいい上に、身分もつくのよ?あなたが将来的に継ぐことになる爵位よりも上の身分になれるのに、それでもいいの?」
「爵位なんてものは面倒だ。与えられた領地の面倒を見るほどまめじゃない。俺は今まで通り、騎士団でやってく方が身にあってるからな」
へえ。そういえばアンリも爵位が無かったんだわ。
とにかく、結婚話が急に現実味を帯びてきて、これに驚いたレオンは何とか逃げる一手を考えたところ、今までは遊びまわっていたけれど、もしこれで本気の恋をし始めたら、その思いを知ってる彼女なら身を引くのではないかと考えた。
だけれど、そう簡単に本気の恋に落ちることなんかあり得ない。
これには私も同意するわ。恋愛小説ではよくあるけど、いきなり本気なのよね。
そんなことあるわけないじゃない。世の中なんてそうは単純にできてはいないものよ。小石に当たる勢いで運命の人とぶち当たるなんて。
そこでフリをしてくれる人がいいのではないかと考えたそうだ。
とはいうものの、釣り糸たらす直前でもう釣れてしまう勢いのレオンが、フリだけと言ってそれで済む女性がいるとは思えない。
思えないだって!
自分でそんなこと言えちゃうなんてなんて自信家なんだかと思って私が高笑いすると、またしてもじとりとした目でにらまれる。
まあ、そうね、そんな目で見られたら鳥が自ら落ちてくるかもね。
ははは。
で、本日私と遭遇したと。
なるほど、これは天の計らいかもしれない。こんな偶然が一度に重なるなんて!
というか、きっと神に愛された容姿のアンリに、神が導いてくれたのよ。
この際私の方が天使じゃないか。
「で、どうだ?」
レオンはまっすぐ私を見る。
話してみればそんなに嫌なタイプじゃなかった。
今私を見る目も、探るような値踏みするようなそれじゃなくて、友好的で気さくで、本当に困ったもの同士助け合おうという気持ちに満ちていた。
そうよ。あと二カ月しかない。
噂とお母様だけでは物事を動かすのは難しいと分かったばかりじゃない。
お母様の説得には応じてないみたいだし、噂はどこ吹くのアンリ。
これは本気でかかっていかなければ、なし崩しにアンリと結婚してしまうだろう。
ぼんやりと笑うアンリをが目に浮かぶ。
何はともあれアンリを幸せにするためなら、私はもっと頑張れる!
「あ、ところで、その尼になるほど思いつめてる方ってどちらの方なの?」
「それを言うのははばかれるな」
「でも、身分があって一人娘で… …もしや年ごろからずいぶん外れているとか?」
「いや、年は今年で17のはずだ」
「まあ!なんというかばっちり年頃じゃない。いったい何が好みじゃないのよ」
「俺は今年で25なんだ」
「へえ、別にいいじゃない。そんなに離れていないと思うけど」
「俺が16で、そのお嬢さんが8歳の時に出会ったんだ」
「はあ」
「わかるか?そのころから延々と俺は追いかけられ続けている。こんな子供のころから知ってるのに、そんな気持ちになるか!」 「へえ、そんなものなの」
「そんなもんだ。邪険にすれば泣きわめく。今だから急に大人ぶってるが、どう考えても無理だ」
「年が17で、一人娘っていうと… …」
「フローラ・オージェ」
レオンは私を見るとそう言い切った。
「… …えええええええ!!!!」
「なんだ。知っているか?」
知ってるも何も。
私は運命というものの偉大さを知った。
フローラ・オージェ。
花の姫君。
そうそれはアンリの思い人。
「それで、どうする?」
言いながらレオンは立ち上がる。ズボンに着いたほこりを払う。そして体を起こすとしっかりと私を見据え、やがて片手を私に差し出す。
「さあ、サンドラ・アメレール。俺の手を取るか?」
差し出された手は大きくて頼りになりそうだった。向けられた目は真摯に私の手を待った。
だから私はその手を取った。
アンリの為だ。
フローラも不毛な片思いから抜け出し、もっと幸せな人生を手に入れられる。
「成立だな」
私の手を取った瞬間、レオンはにやりと書いてあるような笑みをその顔に浮かべた。そして強く引き寄せたので、バランスを崩しその胸の中に飛び込んでしまう。
そうするとレオンはきつく腰に手を回すから私はのけぞるようになった。
「ちょっと、さっきも言ったけど、犬や猫じゃないんだから!!そんなに近づかないでちょうだい!」
「わんわん」
「……へ?」
「犬だと思えばいいんじゃないか?結婚2ヶ月前とは思えぬ最上位の初心者さんのようだからな」
「な、何言ってんのよ」
「俺とお前さんは恋仲のはずだろうが」
「これもう始まってんの?」
「わんわん」
「ちゃんと喋って!」
「わんわん」
「ちょっと!」
「わんわん」
頭上から恥ずかしげもなく澄ましてわんわん言ってる顔を見てやろうと見上げてみると、先ほどの友好的な雰囲気は煙みたいに消え失せて、まるでべろりと化けの皮がはがれましたというほど嘘みたいに黒い瞳がギラリと光った。
「せっかくだ、楽しませてもらおうか」
そんな小声が耳元をかすめる。
あれ、あれ?なんか私、もしかして間違った?
一抹の不安が頭をよぎる。
思うに任せて顔中に不安を広げると、レオンは不意に腕の力を抜いて、私をまっすぐに立たせ「さて、行くか」と片手を自分の腰に当てて、私の腕を促す。
「え?行くってどこへ?」
「決まってる、庭園だ。噂に信憑性を持たせるんだ。このまま二人で出ていけば相当説得力があるからな」
そうして、目でレオンの腕に手をかけろと催促するからそっと腕に手を添える。
「こんなよそよそしい仕草じゃ全然ダメだ。もっとこっち」
指摘されるからちょっと近づくが、レオン・バルドーからもっともっとと指摘される。
「もっと、こうだ!」
しびれを切らしたのか、ぐいと腰を掴まれて、そのまま手を回された。
「はわーー!!」
「それは!もうやめろ!腰に手を回すくるいで、はわはわ言うな」
腰に手を回すか否かどころじゃないでしょ。寄せられた体はぴたりと私の体に沿ってるほど近いのよ!
ちょっと、これはちょっと、男性どころか女性であっても、アンリでさえもこんなに体を寄せた事はない。
「こんなに近いと歩きにくいわ!」
「そうか?アンリと歩いていると思えばいい」
「アンリとこんな風に歩いたことないわ!」 「へえ!!」
「そんな素っ頓狂な声をあげることある?」
「お前さんに素っ頓狂云々言われるとはね。やれやれ、ほら行くぞ!飼い主がちゃんとしないから歩きにくいんだ」
「は?」
「わんわん!」
そう言って上から降りてきた唇が私の耳を食む。
「ちょっと!!なになになんなの!!」
「これしきの事でそこまで赤くなるな。犬のやることだ。わんわん」
ぐぬう!!犬ね!犬なのね!負けないわよ!
「よし!!行くわよ!はわー!」
「それはもうやめろ……」
*****
びっくりするほどべったりしたまま私たちはバラの広場に出る。ここではそこここで花を愛でながらお茶をする人々が集っていた。
そこへ現れたのが、飛ぶ鳥を落とす勢いの美形レオン・バルドー男爵だ。
それが何だか近年にないほどべったべった女としてるわけで、衆目を集めるなんて簡単な言えるレベルじゃない。
裸の王様でも登場したかというほど目を剝く人々に、私は気が遠くなる。
「大丈夫か?」
私の髪をいくらか掬って、それを指に絡ませながらレオンが言う。
「あの!ちょっと!」
こんなこと誰にもされた事のない私は人に見られているということも相まってさらに首から真っ赤に染まる。
レオンは意に介さず、その体制を変えない。
「も少し、離れて!」
小声で怒鳴るという高等テクニックを用いているのに一顧だにしない。
「向こうに座ろうか」
その言葉でやっとレオン・バルドーが私から離れ、それでも腰に回された腕は外れず、座る場所なんかいくらもあるというのにそのまま庭園の中央を横切って反対側の隅に向かう。
人々の視線が突き刺さる。
もう、なんていうか気を失いそうだ… …。
やっとたどり着いたベンチに倒れこむように座ろうとすると、制されて、先にレオンが座る。
ここは普通レディーファーストでしょう?とベンチの横でレオンを睨むと、腕を取られた上に抱きかかえられる。なんて馬鹿力なんだ。
と思っているうちに私はレオンの膝の上に横抱きされたのだ。
え?何この状態、何これー!!
私は焦って降りようとするが、がっちり固定されて身動きが取れない。なんで!腕すらぬけないってどういうこと!
「ね、ちょっと離して!ここまでする必要ないでしょ!!」
さっきから私は青くなったり赤くなったり、心臓に悪い!
「そんな甘っちょろい考えじゃ困るな。婚約を破棄しようというんだから、よっぽどの事じゃないと承諾されないぜ。俺だってどれだけ本気を見せられるかがかかってるんだから」
そう言われちゃそうかもしれないけど! レオンの指が私の唇をなぞる。
ひーーーー!!!もう気を失いたい!
そう思っていると、レオンはその出来過ぎた顔をさらに近づけると、それが落とす影の中でこう言った。
「騎士団の事についちゃお前さんは知らないだろうが、ほとんどは官舎にいるからな。休暇でしかこの辺をうろつけない。俺の休暇はあと一週間。限られた時間でせいぜい頑張ってもらわないと」
その前髪が私の頬に触れる。これってはたから見たらキスでもしてるかという距離感だ。この注目度の中で!
もう、もう、すべての事が私の許容量を間もなく超える。 すでにぐったりとなりつつ私にレオンは笑みをこぼすと悪い顔でこう言った。
「わんわん」
犬に罪はないが犬が苦手になりそう!!
日暮れの近づく公園は、三々五々人々は散っていく。それぞれがあからさまな視線は向けないけれど、あからさまに好奇の色を滲ませている。
もう、これで十分だ。
こんなお芝居これ以上続けるのなんか絶対無理。
ほとんど呆然としながらレオンを見上げると、「明日以降の予定だが」とまるで何かの事務的な打ち合わせの様に淡々と言う。
明日以降の予定ですって?
これまだやるの?!あり得ない。
「ねえ、あの、もうこれで十分じゃないかしら」
私はレオンの腕の中でその胸にもたれているという何とも説得力のない状況の中で、確かによく整っている横顔を見上げて言った。
「これで?これしきの事で音を上げるとは。さっきの威勢の良さはどこ行った?アンリとしていることを越えないと信憑性がないと思うが」
「アンリとこんなことしてない!アンリとは別に恋人同士でもなんでもないし!」
「なるほど。それだけ大事にしてるのに、甘かったとしか言いようがないな。お気の毒様」
「甘いってどういうこと?」
「さて、そろそろ暗くなる。お送りしましょうか、お嬢様。これ以上の逢瀬はまたのお楽しみに」
そう言うと、またしても軽々と私を立たせて、再び庭園を歩き出す。まだ腕が腰に絡んだままだから、もう人もほとんどいないし、これ以上演技する必要ないと言うのに「念には念を入れないと」と全く取り合わない。馬車に乗るのに手を貸してくれるのはいいけれど、そのまま私の手にキスをする。
驚いて手を引けば、何でもないような顔をした。
「ではまた明日。ここでお待ちしてますよ、わんわん」
それだけ言うと、御者に合図し、馬車を走らす。レオンはそのまま薄く暗くなりゆく景色の中で、こちらの馬車が見えなくなるまでそこに立っていた。
屋敷に戻ると、「おかえりなさいませ」という言葉を聞くに任せて、私はふらふらと自室のドアを開ける。
疲れた。
途方もない疲労感だ。
窓からのぞくのは、薄暮の空に貼り付けたような満月だった。
淡い光が部屋を照らし、私を鏡に映す。
鏡から見返す私を見て、息を飲む。
上気した頬、濡れたような瞳。なんて顔してるのかしら!
私は手で頬をつつむ。レオンが触れた場所に、まだあの大きな手の感触が残る。にわかに胸がドキドキしだした。いったい私はどうしたっていうの… …あれは演技よ、演技!
髪飾りを無造作に取り、鏡に投げつけると、そのままベッドに身を投げて、熱い溜息をこぼした。 胸に浮かぶ、高揚してるのか浮沈しているのかわからないとりとめない感情を持て余しながら、そのかけらでも広い集めようともがくけれど、どうしたらいいのかわからないままぼんやりとしているうちに、日はすっかり暮れて、気が付けばあたりは真っ暗だった。
ノックがして、侍女が顔を出す。
「まあどうなさったんですか、サンドラ様。公園にずいぶん長くいらしたから、日に当たりすぎてお疲れになったんじゃございませんか?お夕食のお時間ですよ、お着替えして階下にいらっしゃいまし」
よく考えたら、帰ったままの姿でベッドにいたのだった。 ドレスが皺になってしまうわね。そう思いながら裾を見ようと下を向けば、先ほどまで触れていたレオンの大きな手が目に浮かぶ。
「どうなさいました?よっぽどお疲れで?」
心配そうに見る侍女に、無理に笑顔を作って首を横に振る。
「今日はサンドラ様の大好きなメニューですのよ」
食べることが大好きな私に、いつものように朗らかにメニューを告げてくれるのだが、今日に限ってはなぜか心が躍らなかった。
しかも、好物が並んだはずのディナーの味がしない。ただ咀嚼して飲み込むばっかり。それでも何とかいつも通りに振舞おうと、お母様と流行の髪型の話をしたりした。
食事が終わって、いつもならサロンでしばらくお母様とお話したりもするのだけど、とてもそんな気持ちにはなれず、先に休むことにした。
お母様が心配そうにこちらを見る。
「アンリの事なら、心配いらないわ」
そう私に、まるで寝る前の挨拶のように言うけれど、いったい何がどのように大丈夫なんだろう。
だけど私も深く思考を追うことができなくて「ええ、お母様、ありがとうございます。今日はちょっと疲れただけなの。おやすみなさい」と言って階段を上った。
眠る準備は、いつもの習慣で自動的にできるけれど、なんだか夢の中のように現実感がない。それよりも、今日一日の事の方がまるで今も現実のように声が、瞳が、手が、いつまでも傍にあるような気がしてならない。
はあ。何これどうしたらいいの。
鏡の前で髪に櫛を入れながら明日の事を思う。
明日もあの庭園で、とレオンは言った。
胸がどきりと跳ね上がる。
あー!もう!これはお芝居!!私は首をぶんぶん振って立ち上がり、そのままベッドにもぐりこむ。
いつまでたっても消えないレオンの気配を無理やり頭から消し、ギュッと目をつぶった。
*****
どんな朝でも必ずやってくる。
朝陽がパリッとした光を部屋にもたらして、昨日のけだるい空気を追い出した。
私はベッドに立ち上がり、目を細めて朝日に輝く庭を見た。
夜露が濡れるバラの花はきらきらと輝き、一日がまた生まれ変わったことを私に告げる。
「はわー!!!」
私はお腹に力を込めて短く叫ぶ。
これは一世一代の大舞台だ。
あの男に負けてなるものですか!
これもすべてアンリのため!
アンリの幸せを守るためなののよ!
朝から元気よく部屋を出て、いつもよりたくさんの朝食をいただき、(ちょっとお母様が驚くくらい)部屋に戻って侍女を呼び、昨日と同じように髪を下ろしてリボンをつける。これもお母様からのプレゼント。
少女趣味も大概にしてほしいと思ったが、こんなところで日の目をみるとはリボンだって知りはしまい!
普段なら絶対着ないようなまたしてもふんだんなフリルに包まれた薄い萌黄色のドレスを身にまとい、さわやかな光に見送られて、私は再び庭園を目指す。
受けたからにはこの勝負、乗り切って見せますとも!
庭園のどこと指定されなかったが、とりあえずまたしても私はバラの迷路に足を延ばした。まあ何しろここは人目が無いからね。これから散々さらされるかと思うと、今は引っ込んでいたい。
しかし、この迷路。日の当たるところとか壁が厚くなっているところもあるのに、皆きれいに手入れされて、くまなく花をつけている。その手触りを軽く指で楽しんでいると「おはよう、サンドラ」という低く響く声とともに両手が私の腰に巻きつく。
「おおおおおひゃおうございます!」
しまった噛んだ!
そうすると、頭の上からぷっという声とともに容赦なく笑いが落ちてくる。
まずい、今日こそはしゃんとしてなくちゃいけないのに!
緩められた腕の中で反転して声の主のレオンと向き合う。向き合うにしちゃ近すぎる!昨日こそは詰まった襟のジャケットをきっちり着ていたが、今日はなぜかそれを手に持って、シャツの首元がくつろげられて素肌がのぞく。
くっ、目のやり場に困る。
そんな私をしばらく眺めていたレオンだったが、今日は腰に手を回さずに右手を絡め取ると、つないだ手を引いて歩き出した。
「きょ、今日はどちらへ?」
そう言うと、片手で自分の口元に指を一本押し当てて「秘密の場所さ」と言う。
秘密!なんか危険な響きを感じる!
私が一瞬立ち止まると、おかしそうにまた笑って、ほらあっちだと指差すのは、庭園のはずれにあるミモザの木だった。
「今が盛りだ」
そう言って視線を木に移すから、私もつられてそれを見上げる。
小さなミモザの花が枝いっぱいに咲き誇る。
「わあ、きれい」
バラほどの華やかさはないけれど、小さな花が鈴なりになって咲いている様は、この季節に咲くことを歓喜しているようだ。
しばらくそのまま、青い空とのコントラストを楽しんでいるとレオンの腕が私をつつむ。
「なに?」
いつから用意したものか敷物を広げる。よく見ればそこにはバスケットが用意されていた。
「さあ、どうぞサンドラ嬢。ピクニックにはいい季節だ」
と私を招く。
「サンドウィッチもご用意しました」
バスケットの中身も見せて、きれいに笑った。
「おいしー!!なんですのこれ、そちらのお宅のシェフが作ったの?」
「いや、城下の一番おいしいと言われるパン屋のものだ。外をうろついたりしないだろうからこういう店は知らないだろう?」 「城下にはこんなおいしいパン屋があるのね!初めて知ったわ。確かに私、ほとんど家から出ないもの」
「家から出ずに何をしてるか俺には想像もできないけど」
「そうね、大概アンリがいるからうちの庭を散策したり、サロンでお茶をしたりという感じかしら?」
「へえ、それはそれは。大した囲い方だ」 「別に家のものに強制されたわけじゃないのよ。なんというか外へ行くという選択肢を考えたことなかったわ!」
「その何もかもが通用しないんだから大したものだな」
「どういう意味よ」
「わんわん」
「あなたそれ、気に入ってるでしょ」
「わんわん」
「もう!」
そう言えば不思議だわ。なぜ外に行こうという気も起きないのかしら。
アンリがいたからちっとも退屈じゃなかったのよね。小さなころからアンリがそばにいればそれだけで十分だったんだから。
私たちはサンドウィッチをぺろりと食べきり、レオンはワインを楽しんだ。
私には炭酸水。はー、しゅわしゅわしておいしいわ。 グラスの中のいくつもの泡を透かして見ると、きらきら光った。
「さてと」
そう言うと、レオンはそのまま体を倒し、私の膝の上に頭を乗せる。
伸ばされた手は、私の髪をくるくると指に巻きつける。
「その、えっと」
戸惑う私の瞳を見つめる。
「恋人同士っていうのはこんなもんだ。そのうち、アンリとフローラもこんな風に過ごすものさ」
「アンリ… …と?」
不意に泳いだ私の瞳をレオンが追いかける。
「おっと、失言」
そういうと、頬を指が掠めていった。
私は何も考えることもできずに、ただなすがまま、レオンの指先を見つめる。
「ソースがついてる」
するとソースのついた指をレオンがぺろりと舐めた。 そして何事も無かったかのように、また私の膝に頭を置く。
「気持ち良い風だ」
風を感じようとするのか、目を閉じる。
眠ったのかしら?
レオンはそれきり黙ってしまって、ただ規則正しい呼吸音が聞こえる。
ゆるい風がミモザの枝から日差しをこぼす。時折光がしずくとなって、綺麗な顔に落ちる。
こうしてみると、何だか幼いわね。
私はまじまじとレオンを見た。
目を閉じていても、これは大した美形だわと思えるほど配置が見事だ。
特にこの唇が、と思ってしまってから、一人で赤くなって手で自分を仰ぐ。
「十分眺めたか?」
不意に目を開けて下からレオンが掬い見る。
「起きてたの?」
「雪は……見たことあるか?」
「ゆき?」
「冬になると空からちらつくあれだ」
「急に寒い季節の話?」
「……たしかにな。お前さんがガチャガチャ賑やかで、天気も良くて、鳥や人がさえずってる音の中にいると、かえって音の無い場所を思い出してな」
「雪ね。この辺ではめったに降らないし、雪から音の無い世界なんかしみじみ想像したりしないけど」
「俺は北の辺境の方に配属されることもあってな。そこはすごく雪深くて、ずっと空は曇天で景色は灰色で、音が無いんだ」
レオンは眩しそうにこちらを見あげながら、私の髪に触れる。
午後の傾き始めた日差しが背中を照らし、レオンにくっきりと私の影を落とした。
「太陽に愛されている娘だな」
「え?」
すっと体を起こしたレオンが私の体を引き寄せ不意に抱きしめる。
そうすると私はすっぽりとレオンに包まれてしまうのだ。
唇が耳に寄せられる。
「妙な気分だ」
吐く息に混ぜるようにレオンが呟いた。
私はといえば心臓が暴れまわって何も言えない。
「まずいな」という声を、夕暮れ始まりに強くなりだした風が、言葉ごとさらっていく。
*****
「朝は得意か?」
「朝?」
夕暮れの庭園を出口に向かって歩きながら、レオンが言った。
二人の間にバスケットを下げて歩けば、長い影が後ろに伸びた。
「早朝に連れて行きたい場所があるんだ」 「早朝ってどれくらい?場所ってどこ?」 「そうだな、4時ごろに馬車で迎えに行く。場所は秘密。起きて屋敷を抜けられるか?」
「4時?ずいぶん早いのね。ええ、起きられるわよ。家を抜け出すのは難しくないけど、秘密?」
「そう、秘密。じゃあ、明後日の4時に迎えに行く。明日は早めに眠って、朝に備えろ。寝坊するなよ」
「そっちこそ!」
「騎士団をなめてもらっては困るな。早朝からラッパで起こされ一仕事さ」
「そうなの?」
庭園の外では馬車がもうすでに横付けされている。
「楽しみにしてる」そう言ってまたレオンは私の手に唇を落とした。
私は今度は払いのけたりしないで、柔らかなそれが離れていくのを見ていた。
今日も1日庭園でレオンと過ごしたが、昨日のような疲れはなかった。
今日は大勢の前に引き出されたわけでもなく、庭園の隅でのんびりと過ごすことができたというのもある。
それでどう言うわけか私は、急にアンリが思い出された。
アンリと過ごしていた日々が、レオンと過ごした1日に重なってそう言えば1カ月以上もアンリと会ってない。
こんなに長い間顔を見なかったのは初めてだ。アンリは今どうしているんだろう。
バラの研究やお城でのことを、誰に話しているんだろう。
いつも夢中になってそんな話をしてくれたアンリ。またうっかり花壇で転んだりしてないかしら。食事の途中でぼんやりしていないかしら。
アンリの水面のような薄い色の瞳が思い浮かぶ。
今日はレオンととても楽しく過ごしたはずなのに、なぜアンリの事ばかり思い出すのかしら。
今日のような楽しいピクニックをアンリとすることも、アンリとバラ園を寄り添って歩くことも私の役目じゃないのね。
アンリはフローラと新しいバラの話をして、そしてまたバラの花を彼女の綺麗な金髪に挿してあげるのかしら。
アンリがフローラの腰に手を回してあの道を歩くのかしら。
庭園の片隅のミモザの木を、アンリは知っているのかしら。
教えてあげたらアンリは、フローラをそこに招くのかしら。
アンリ… …。
風に揺れるミモザのように、心がざわめくから私は頭を振る。
これでいいの、私は正しい事をしてる。
私がレオンと楽しかったなら、きっともっとアンリは思いを寄せるフローラと楽しく過ごしたいに違いないから。
飲み下せない何かを、夕食とともに飲み込めば、なんだか胸が痛んだ。
ダメだわ。食べ物はちゃんと噛まなくちゃ。
翌日、予定がないとはいえ、久しぶりに変装をやめてきっちり髪を結いなおす。
そういえばレオンは私を幼稚と言ってたわね。
今度会うときは、きっちり結い上げていくわ。と、鏡の中の私を睨む。
こうすればなかなか睨みが効くわ。
そんなことをしていると扉がノックされた。
「お嬢様、突然なんですが、お客様ですけどもいかがなさいますか。どうしてもお会いしたいと」
と執事が戸惑いがちに言う。
「誰?」
「先日お越しくださいました、カロリーヌ・アバック伯爵令嬢様とポーラ・エーメ子爵令嬢様です」
カロリーヌとポーラ?
どうしたのかしら。
「いいわ、お通しして。すぐ行くから」
階段を軽やかに降りてサロンへ向かえば、何やらを言いたい面持ちで二人がソファに座っていた。
「どうなさったの、お二人とも」
「サンドラ様!ごめんなさい、突然」
そう言うなり二人は立ち上がる。
「あら、お座りになって。何か尋常ではないわね。どうしたのかしら」
「実は」
そう切り出しながら二人は顔を見合わせる。
「本当はこんな話言うべきではないかもしれないけど、一応お話しておこうと思って」 「まあ、何かしら」
「お気を確かにお聞きになってね」
「ええ、伺うわ」
「レオン・バルドーのことよ」
ひゅっと私は息を吸い込む。
「まあ、あの方が、いったい?」
私が促すと二人は声をそろえて一息に言う。
「あの方、ご結婚されるそうよ」
結婚?
「まあ、それは… …どちらの方?」
「なんでも、身元はよくわからないのだけど、茶色の髪の妖精のように愛らしい女性にいれあげているそうで、今すぐにでも式を上げようかと言う勢いらしいの」
「それはそれは人目をはばからぬアツアツの二人を庭園でたくさんの方が目撃したんですって!」
「そうですわ!庭園の真ん中で熱いキスを交わしていたそうですのよ!」
「バラの迷路からしなだれかかって出て来る二人を見たという方もいたわ!なんて節操がないのかしら!」
「あなたとの事があって間もないというのに、こんな話が持ち上がるなんて!私たち憤っておりますの!おかげでサンドラ様はご結婚を取りやめになさるほどの思いだったというのに!」
彼女たちが口々に言うのを私は黙って聞いた。
噂のせいで出来事やら私の描写にかなりな脚色はあるにせよ、改めて聞くと顔に血が上る。
しかし顔どころか頭に血が上る状況だというのはよくわかった!
そのお相手と言うのはまさしく私の事じゃない… …。
え、なにそれ。レオンの方は噂がうまく回ったっていうのに、私の方は?私の方はどうなってるのよ!
あれだけ恥ずかしい思いをしたと言うのに私の努力は全く無駄じゃない!!
猛然といかりがこみ上げてきた。
カロリーヌとポーラにもそれが伝わったらしく、二人は目に見えておろおろしだす。
扇をパシリと鳴らす。
二人がびくりと肩を震わせる。
「あら、脅かしてしまったようね、大丈夫よ。ご報告ありがとう。私、悪い男に騙されていたのね」
「そうですわ!あの男に義理立てする必要なんかないですわよ。ここはアンリ様と幸せになって見せつけてやりましょうよ!」 「いいえ、それはできないわ」
「サンドラ様!」
「それを聞いてますます、私、男性が信じられなくなりました」
「え、でも、アンリ様は別じゃ… …」
「いいえ!男なんて誰も一緒です!」
私は立ち上がる。二人はそんな私を見上げる。
「覚えてらっしゃい!このままでは済まなくってよ!」
私は窓に向かって指差した。
運悪くその先に庭師がいて、びくりと震えるとペコペコ頭を下げたが、今それに応じるわけにはいかないのでそのままねめつける。
あとで謝っておこう。
二人はすっかり心酔したように共に立ち上がり、「サンドラ様!」と言って頬を紅潮させた。
レオンには及ばないが、私だってここまでできる。鼻を鳴らしたいがまさかそんな下品なことはできない。
「大丈夫よ、二人とも。ご心配ありがとう」と力強く二人の手を握ると、彼女らもその手をさらに強く握り返した。
二人が帰っていく後ろ姿を見送りながら、私はパチンパチンと扇を鳴らす。
これじゃタダ働きよ!
こんなの話と全然違うじゃない!
は……!いや!!そうじゃない!
アンリに見つからない為の変装が仇となってしまったのよ!
不覚!ミスしたのは私の方だわ!
どうしようかしら。
ここでいきなり裏切られた私がレオンとべたべたしたら、何なのあの女プライドもへったくれもないのね情けないということになり、せっかくできた未来の読者が離れていく!!
作戦を練り直さなくては!
部屋でイライラと歩き回っていたら、またしても執事が現れる。
「何かしら?」
自然と口調がきつくなる。
「お疲れでしたらお断りしますが、またしてもお客様です」
「今度は誰なの!」
「フローラ・オージェ子爵令嬢様です」
なんですって!?
静かに階下へ降りると、サロンに差し込む日の光が美しい髪に流れ、まるでそのまま光の束が髪になったかのように輝く。
伏せられたまつ毛の間からガラス玉のような青い瞳が覗いている。
白いと言う表現しか思当たらないほどの肌と、頬にわずかにともるバラ色と、柔らかな曲線を描く唇と、まったくもって文句のつけようのないべっぴんさんだよこりゃ。
だけど。
私の気配に気づいて向けられた目は泣き腫らしてるし、手はきつく握られてる。
私がいつだったか泣いた雰囲気を醸し出すための化粧をしたときとは比べ物にもならない。
泣き腫らした目ってそういえば、お姉さまたちと喧嘩した時くらいしか見たことないから、全員お嫁に行った今となっては久しぶりにそれからうける衝撃度はなかなかのものがある。
彼女を視界に入れながら、私は静かに近づいた。
「突然のご無礼をお許しください」
そう言って彼女は膝を折る。
「お顔をお上げになって」
あわてて私がそう言うと、ゆっくりとその作り物よりも上等な顔が私の眼前に展開する。すごい!
「初めまして、フローラ・オージェと申します。お聞き覚えがあるかとは思いますが… …」
はい存じてますともいいえとも言いにくい… …。だからひとまず「はあ、まあ」と曖昧に微笑むしかない。
「とりあえずお掛けになってください。今お茶を用意させますから」
「いえ、あのお気づかい無く。私も大変失礼ながら何もご用意しておりませんし、それにすぐお暇します」
そうよね、どう考えても楽しくお茶をという雰囲気じゃない。
「そう… …ですか、じゃあどうぞ、あのお掛けになって」
「失礼いたします」
そうやって二人向かい合ってソファに座る。
座った… …。
柱時計がカチカチと時を刻む。うう、どうしたらよいのかしら。
お互いうつむいたまま座っているだけとは!
これはなかなかの神経戦だよ… …。
やがて私の胃がきりきりする気配を漂わせた頃、フローラは言葉を発した。
「私が、この様にご無礼を承知で参りましたのは、お察しの事とは思いますが、レオン・バルドー様の事です」
うんうん、そうよね!他にないよ、他に。
「申し上げにくいのですが実はずいぶんと子供の時分から、懸想しておりまして。ですから、お噂を耳にしたときも、それでも自分の気持ちはゆるぎないと思っておりました。ですが、先日、あなた様とレオン様が笑い合っているところをお見かけしまして、本当に私長いことあの方を思ってきたんですけれど、あの様に無邪気に笑っているレオン様のお姿を見たのは初めてでございました。それで確信したのです。ついにレオン様は運命の方と巡り合ってしまわれたのだと。レオン様にはいろんな噂がありましたが、それでも構わないと思っておりました。けれどこの度は違うとわかりました」
一度話し始めたら堰を切ったように、フローラは話し続ける。
私の目をしっかりと見つめ、とても真摯に。
アンリが向ける瞳によく似ている。
「何を言い出すかとお思いでしょうが、どうかレオン様を信じていただきたいと思うのです。むろん私なんぞが口を挟む隙もなく、お二人は信じ合っていらっしゃるとは思っております。ですから、余計に、私のような女はお二人にとって気分の良くない存在だと思います。私が言うのもなんですが、ご安心ください。私は決して、お二人を邪魔立てしたり、嫉妬に駆られてむやみな事は致しません。疎ましく思われるかもしれませんが、私は今日これきりに、レオン様への気持ちをすっかり切り替えようと思い、こちらに参りました。天に誓って2度とあなた様方の前に姿を現すことはありません。ですからどうか、幸せになってください。サンドラ様のお幸せがレオン様のお幸せで、勝手な事とは思いますが、私の思いも報われます」
そうして彼女は瞳に浮かぶ涙をこぼさぬように、必死にそれを食い止めながら微笑んだ。
「等と恰好の良いことを申しましたが、私、これ以上レオン様を追いかける物理的な時間もありませんのよ。あまり優秀では無い事は自明ながら、この度オージェの家を継ぐための勉強をする計画ですの。どなたかに婿養子に来ていただいて、という両親の希望はありましたが、私はどのみち、どなたかのもとへ嫁ぐというのは考えられず、このまま私が継ぐことによって両親への義理を果たそうと思います。そしてしかるべき養子を迎えて、オージェを守ろうと思っておりますの。いえ、そのような顔をなさらないでください。何がどうのと言うものではなくて、これが私の運命なのだと、ちゃんと受け入れることができました。逆に楽になりましたのよ。いつまでも虫取り網を持って星を追いかけるなど」
そう言うと首を振って笑う。その度にさらりさらりと髪が揺れた。
「直系ではなくて、逆に養子の方が優秀な人材かもしれませんもの。それまでには私、見る目を養っておこうかと思います」
フローラはさっぱりした顔をして微笑んだ。
私に話しながら、自らの決意を新たにしていったのだと思う。
話の最後に庭先のバラを褒め、サロンに置いてあるバラをまた褒めた。
「庭師の腕が素晴らしいのですね」
と言ったから、この言葉と一緒に今朝の事は庭師に謝ろう。
さっきまでフローラが座っていた場所を見る。
私は正しいことをしたのだろうか。
彼女は偽物の土台の上に、新たな人生を築こうとしている。
あんなにもしっかりと自分の思いにけりをつけて立ち上がろうとしているんだ。
この先、アンリとフローラがめぐり合うこともあるかもしれない。
彼女の話した人生も素晴らしいものだけど、もしかしてアンリと会ってまた考えも変わるかもしれない。
あんなにも自分の気持ちをしっかりと受け止めて切り開こうとしている人に対して、アンリはどうなんだろうか。
アンリのためにと、周囲の雑草を抜いて踏んで固めて道筋をつけてお膳立てした恋でいいの?
本当は恋なんて、自分でぶつかって倒れたり、それでも立ち上がってそうして掴んでいくものなんじゃないのかしら。
それがたとえ叶えられなくても、フローラのように。
私、間違っている。
フローラの心からの思いを嘘で踏みつけて、アンリの思いを叶えてあげる?
思い上がってるのは私の方だわ。
本当にアンリに幸せになってほしいなら、見守っているべきだった。
アンリが傷ついたり苦しんだりしても、それを見たくないというのは私の傲慢だわ。
アンリは自分で見つけなくちゃいけなかった。アンリは自分で決めなくちゃいけなかった。
そうよ、今なら、まだ。
*****
まだ夜明けは遠い。
規則正しい蹄の音と馬車の車輪の音が屋敷に滑り込んできた。
季節はよくなったとはいえ、こんな時間は肌寒い。
私はローブをまとい静かに屋敷の戸を開けた。
そこにはランプに照らされ浮かび上がるような黒塗りの馬車と、そして同じく闇のように黒いマントに身を包んだレオンが立っている。
白い手袋が闇に浮かび、伸ばされたその手に手を重ねると、引き寄せられて軽々と馬車に乗り込むことができる。
馬車の戸が締められ、隣に腰を下ろすレオンを見上げる。
「あなた、まるで怪盗みたいね」
「そうなると、さしずめお前さんが盗品だな」
「人質というやつね」
「どうかな。お目当てはもうすでにこの手の中だ」
石畳を駆ける蹄の音しか聞こえない。
窓の外は闇が続くからと、カーテンを閉めた。規則正しい馬車の揺れと外の見えない窓と暗い馬車の中では、いったいどこを走っているのか見当もつかない。
けれどいつしか、それが止まる。
レオンは馬車の戸を開けると、私の手を取る。
冷えた空気が馬車に流れ込み、身震いすればほとんど抱きかかえるように馬車から降ろされる。
「子供じゃないんだから手を貸してくれれば降りられるわよ」
「夢のないことを言うな」
馬車からランプを受け取る。
漆黒の闇に一点の明かりが灯る。
あたりにバラのにおいが立ち込めるから、私は見渡す。
それでも周囲が分かるほどの明かりをランプはもたらさない。
「ここはどこなの?」
そう問えば、レオンはランプを掲げて何かを照らした。明かりの下に浮かび上がったのは一論のバラで、私はそれをよく知っている。
「サンドラコルダナ… …」
甘く強く香り、花持ちが良くて丈夫。
アンリの好きなバラだ。
レオンがさらに上にあげるとサンドラコルダナの垣根がずっと広がる。この花に囲まれた場所、それはいつもの庭園だった。
「まあいつもの庭園なのねここ」
「ああそうだ」
「サンドラコルダナが無ければ気付かなかったわ。この花はアンリの好きな花なの」 「全くキザな事をする男だな。さて、行こう」
ランプを片手に、もう片方は私の肩を抱いてレオンは歩き出す。
けれど進むのは文字通り一寸先は闇。
私は思わずそのマントにしがみつく。
すると、レオンの長い手が伸びてきて、マントの中に招き入れられる。
近づく距離にドキリとするけれど、そんな事よりもこの闇の中を歩くのが不安で、私はそのままレオンの腰に手を回す。
上から笑んだ気配を感じて
「こんな暗いとこ歩くの初めてなんだから仕方がないでしょ!」
と抗議すると
「かわいいなと思っただけだ」
不意に空気を甘くするから、私は黙りこむしかない。
でもね、これはお芝居。恋人ごっこは、もうおしまいにしなくちゃいけないよ。
しばらくそうやって歩く。バラの広場をすり抜けて、何かがざわめく音に耳を澄ませば
「ミモザだ」
とランプでそれを照らす。だけど暗闇にそよぐその枝の昼間の鮮やかな黄色は沈んだままだ。
「足元に気を付けて」
言われてみれば小さな小川が流れていた。確かに水の流れる音がする。
「こんなところに小川があるのね」
小川にかかる小さな橋を渡る。
もうしばらく歩くころ、次第に空が白み始めた。
あたりの闇から少しづつ切り離された木立のシルエットが影絵のようだ。
「ほら」
と、周囲が明るくなるにつれ、光の弱まったランプを持つ手で、レオンが前を差す。
そこには小さな池があって、朝もやの中水面に浮かび上がるのは白い花。
その一つ一つが灯りをともされた様に光って見える。
「すごい、これ、睡蓮よね」
「そうだ。よく知っているな」
「絵で見た事があっただけよ」
「もう少し遅い時間でも咲いているが、今が一番きれいな時だ」
私はしばらくその景色に見惚れる。
本物はこんなにも美しい。どんなに美しく描かれた絵でも、本物を知らなければ絵の価値すらわからない。
私は本物の恋を知らない。だからその気持ちがどういうものかわからない。
この恋人ごっこでのレオンの私にむける眼差しの、本当の意味すら分からない。
「ねえ」
「なんだ?」
吹き消したランプを地面に置いて、レオンは両手を伸ばし私の腰に回す。
「あの、この恋人ごっこをもうやめたいの」
「それは、どっちの解釈で?」
「アンリは自分の恋と自分で向き合うべきだわ。私が作った舞台の上なんて、そんなの本物じゃない。それに彼女に、幻を見せているのは誠実じゃないわ。彼女がどうあれその思いは本物なんだから」
「では、本物にすればいい」
レオンは私の体をゆっくりと反転させる。見上げたその瞳の強さに、私は息を飲む。
「噂通りに結婚すれば、それは本当になる」 「嘘なのに?一生嘘をつき続けるの?」
「サンドラ、」
「私あなたとは結婚できない。だってずっとずっと昔から、結婚するならアンリだけなの。家族になるのはアンリだけなの。それ以外の選択肢を考えることはできないの」 「じゃあ考えればいい。俺との日々を。こうして続いていくこの先の日々を」
「できないわ、だって私っ」
「… …サンドラ?」
… …私、アンリが一番なんだもの。
泳ぐ私の目をレオンが追う。そうして見上げた顔の、寄せられた眉が、きつく結ばれた唇が苦しそうに私を見下ろした。
急に腕の力を強められ、あっと思っているうちに足を払われてひんやりとした草の上に横たえられていた。
馬乗りになったレオンがしっかりと私の腕をつかんで身動きできない。さっきまでの表情をすっかりぬぐいさり、感情のない顔で私を見る。
「だったら今すぐ結婚しよう。余計なことを思いつかないうちに」
そう言い差したと同時にレオンの大きな手が、ドレスを割って私の足に触れた。
「いやだ!やめて!」
とっさに私は叫ぶ。それでもレオンは手を止めない。
「やめて!アンリ!アンリ!」
瞬間、ゆるんだ腕から私は這うように抜け出す。だけど逃げ切る寸ででレオンの長い腕が私を掴む。
「待て!サンドラ!本気で俺は」
「サンドラ」
突然その名を、よく知る声に呼ばれ、はじかれたように私は声の主を見る。
朝もやを朝日が切り裂いて、その隙間に流れる光の中、姿を現す。自らが輝きを発するような金髪と、水面のような淡い水色翡翠の瞳。
アンリ… …。
アンリは静かに歩み寄って、私に手を伸ばした。
それは本当にいつものアンリで、普通すぎて、私は今この場の状況をうっかり忘れそうになる。
「おいで、サンドラ」
呼ばれれば、私は素直に手を伸ばし、その手を取る。
「お姫様の危機を黙って覗いていたとは、悪趣味だな、花の王子は」
「レオン・バルドーはそこまで下衆じゃないからな」
「… …嫌な男だ」
「奇遇だな、僕もあなたが気に入らない」
通わす会話があまりにもアンリらしくなくて、思わずぽかんとその水色の瞳を見つめる。
「さあ、サンドラ。馬車を用意してある。行こうか」
いつものように柔和な笑みを浮かべて、アンリが私の背を優しく押す。
「おまえの婚約者殿の心は、まだどこにもないぞ」
私たちの背にレオンがそう言う。
アンリが半分振り返る。
「だから?」
「だから?と来たか」
「彼女の心はそんなに安いものじゃない。そしてその心に、僕は今日までの僕の全てと、これからの僕の全てを捧げ続ける。この世の誰にも、そこに手は届かない」
ぎりっと音が出そうなほどレオンがアンリを睨む。見返すアンリの瞳が私の位置からは見えないから、私はアンリの服をそっと掴んだ。
「ああ、大丈夫だ。あの男にはお客があるからね」
アンリが私の頬に手を当て、私の視界からレオンを消す。
「お客?」
そう問えば、アンリは声を上げる。
「オージェ嬢!」
木立から姿を現したのは、名を呼ばれなければ天使か妖精と見紛うほど、朝日に立つ彼女は美しい、フローラ・オージェ。
「自分の身辺くらい自分で何とかしたらどうだ、レオン・バルドー。逃げ回って人に頼るんじゃその名がすたる」
「… …アンリ・シセ、大したエンターティナーだ」
そう言って髪をかき上げたレオンは、早朝の清しい空気を響かせて高らかに笑った。
アンリはそれには答えずに、笑うレオンを後にする。
今度は私に振り返る隙も与えずに。
ざわめく木立に目を上げれば、ミモザがその花を朝日に揺らしていた。
庭園を出れば、クリーム色の馬車が止まっていた。金の飾りがきらきら輝く。
アンリの家の、小さなころから顔なじみの御者が馬車の扉を開け
「どうぞ、サンドラ様」
と手を貸してくれるから、いつものように「ありがとう」と言うと微笑んだ。
アンリも乗りこめば、間もなく馬車は動き出す。
眺める街並みはまだひっそりと眠っているようだ。
いつしかもやも晴れて、眩しい光が馬車の中をくまなく照らす。
そして私たちは、いつものように隣り合って座って、いつものように馬車に揺られていた。
まるですべてが夢だったみたいに。
「アンリは、どこまで今回の事知ってたの?」
私はその横顔に話しかける。それはいつものアンリの右顔で、飽きるほど見てきたその顔は今だっていつもと変わらない。
「僕の庭園の中の事で、サンドラの事なんだからなんでも知ってるよ」
と、アンリはきれいに笑んだ。
「あ、でも一つだけわからないんだ。どうして僕がフローラ・オージェ嬢に恋をしていると思ったのか?って」
「それはアンリが庭園で、とても真剣にフローラさんを見つめていたからだわ」
「オージェ嬢がレオン・バルドーを必死に見つめながら、うっかり彼女がバラの花を掴んでしまうからさ。本人無意識だからね。その場で注意しようと思って、つい監視してしまってたんだ」
「はああ?」
「それがどうして、そんな勘違いになるのかなあ。まあでも、それだけ僕の事を見ていてくれてるのはうれしいけど」
「だってアンリの事は大事だもの」
そう言えば、アンリは目を細めて微笑むと、私に手を伸ばして髪に触れる。
「苦しんだ甲斐はあったかな」
「アンリ?」
「あの花飾りもあのリボンもよく似合っていた」
「え?」
「サンドラは髪を下ろしている方がかわいいよ」
「ちょっと、どうしたのよ、そんなこと急に言い出すなんて」
私はびっくりしてアンリから距離を取ろうとすると、その細い指がしっかりと私の腰を掴んだ。
「いつだって僕はこういうことを言ってるけれど、サンドラがちゃんと聞いてなかっただけでしょ?まあ、サンドラはぼんやりだから仕方ないけど」
私は驚いてアンリを見る。私がぼんやりですって?
鼻が触れ合うほどの近さの中で、アンリが微笑みながら私を見つめる。
「ねえ、サンドラ。僕の名前を呼んでよ」
「どうしたのよ、アンリ」
「もう一回呼んで」
「アンリ」
「……ありがとう。僕の名前だけを呼んでくれて」
「何言ってるのよ、アンリ」
「これからも、……」
最後に小さく呟いたそれは、私の耳元に囁かれたのに、小さすぎて聞こえない。
聞き返そうと口を開くと、馬車が停まった。
「さあ、着いた」
馬車から手を引いておろされればそこは私の屋敷で、執事がにこやかにほほ笑んでドアを開けて待っていた。
「おかえりなさいませ、サンドラ様、アンリ様」
「ただいま… …ってこんな早い時間に起きていたの?」
「お待ちしておりましたもので。アンリ様、どうぞこのままサンドラ様とご一緒に朝食をいかがですか?」
「ありがとう。久しぶりだし、是非そうしたいな」
「かしこまりました。さあこちらへどうぞ。ああ、サンドラ様ローブをお預かりいたします」
二人で向かい合って朝食を囲む。久しぶりなはずなのに、ちっとも久しぶりな気がしない。
日差しがまぶしく皿にもこぼれる。
パンにバターを塗りながら、ふと目を上げると、目の前のアンリはまたしてもぼーっとしている。
ほうらね、どっちがぼんやりよ。そこで私はふふんと笑って、それを指摘するのだ。
「食事中にぼーっとするのはいい加減にしてよね、アンリ。だからアンリはぼんやりアンリだっていうのよ」
「見惚れているだけだよ、サンドラ。食事をする時も庭園を散歩するときも、ついうっかり君に見惚れる」
そんなことを言われて、私は危うくパンをのどに詰まらせそうになった。
これからも、これからもずっと、僕の名前だけを呼んでいて、サンドラ。
第一部完結です。
第二部 アンリ・シセ へ続きます。