6.あなたに恋をした?
私は、しばらく何も言えずに、エレベーターの閉じたドアを見つめていた。
そんな私に、裕子さんが心配そうに声をかけてきた。
「詩織ちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
私は床にしゃがみこみ、ぶちまけてしまったバケツの水を雑巾で拭き始めた。
結局、工藤さんは、あの青年なのか、そうじゃないのか……。
もうよくわからなくなってきたけど、どちらにしても、エレベーターに乗る前の工藤さんの完璧とも言える笑顔が、どうにも頭から離れなかった。
それは、いかにも超絶イケメンである工藤さんらしい笑顔のはずなんだけど、なぜか、あの馬鹿笑いや人をからかうような笑顔じゃないと物足りないというか、もやもやするというか、かえって気になるのだ。
「おばちゃんがやるから、詩織ちゃんは部屋に戻っていいよ」
「私って、馬鹿。多分、工藤さんを怒らせちゃったよね。工藤さんがあの青年なのかもしれないけど、恩返しどころか、さらに迷惑かけちゃって」
私はそう言いながら、すっぱい感情が急にあふれ出しそうになるのを感じて、自分がショックを受けていることに気づいた。
「おばちゃんがやりすぎた! ごめんね!」
私は驚いて、裕子さんを見た。
「なに、どうして裕子さんが謝るの? 関係ないでしょ」
「それがあるのよ」
裕子さんが申し訳なさそうに語ったところによると、すべて、私と工藤さんをくっつけようとして、裕子さんが仕組んだことなのだそうだ!
私が裕子さんと仲がいいように、実は工藤さんも裕子さんとずっと親しくしてきたらしい。
工藤さん狙いでマンションに押しかけてきたストーカーを裕子さんが追い払って以来、地方出身の工藤さんは、裕子さんを東京の母として慕っているのだそうだ。
そして、裕子さんは、自分の子供のように可愛がっている私と工藤さんが付き合えば、絶対に最高のカップルになると思ったというのだ。
にわかには信じがたい話に、私は、裕子さんが落ち込む私を慰めようとして、作り話をしているのだと思った。
「仕組んだなんて、そんなドラマみたいなことできるわけないでしょ」
「ほんとにそう思う? 思い返してみて?」
少し挑発的に言い返してくる裕子さんに、私は、つい真剣になって記憶をさかのぼった。
「うーん、じゃあ、さっき脚立にぶつかったのは、わざとなの?」
裕子さんはうれしそうに答えた。
「そう! 詩織ちゃんがバケツの水を工藤さんにぶちまけるようにね」
「そ、そうなんだ。確かに『おっとっと』はわざとらしかったかな」
裕子さんの筋書きどおりにバケツの水を頭からかぶる羽目になった工藤さんには、本当にお気の毒としか言いようがない。
「でも、そのくらいでしょ。それなら、別に『仕組んだ』というほどでは」
「ふふ。昨日、エレベーターを使わせないで、階段で行かせたでしょ」
「ああ、うん」
「本当は点検なんてなかったのよ!」
「ええ!?」
「詩織ちゃんが怪我してるのを見て、ちょっと思いついてね」
「な、何を?」
「詩織ちゃんが辛そうに階段を上るのを見たら、工藤さんなら絶対助けるだろうと思ったのよ!」
「な、なるほど……」
「だから、詩織ちゃんが行ったあとすぐに、急用だって言って、工藤さんを呼び出して」
それで昨日はタイミングよく工藤さんに階段で会ったのか。
「そしたら、なんとお姫様抱っこでしょ。我ながらうまく行き過ぎちゃって、今日は調子にのっちゃったのよ。ごめんね」
「いいけど。さすがに他にはないよね?」
「実は火災警報も」
「えぇ? あれ、誤作動じゃないの?」
「うん、まぁ、ちょっとね……」
裕子さんはむにゃむにゃと誤魔化した。
「とにかく、詩織ちゃんの好きなロマンス小説のヒロインは、危機に陥ったとき、ヒーローに助けられて好きになっちゃうでしょ」
「いやでも、助けてくれた青年が工藤さんだったかどうかなんて、裕子さんもわからないでしょ?」
「間違いなく、工藤さんよ。この目でしっかり見てたもの」
裕子さん、あの場にいたんだ。
あのとき、私が思い切りぶつかった玄関ドア。開いていると思い込んで突進したけど、閉じていた。実は裕子さんがわざと閉めたとか!?
そして私が工藤さんに話しかけるように、何も知らないふりで、工藤さんと青年をつなげる情報を私に教えたということなんだ。
「じゃあ、やっぱり工藤さんが方言か何かを話してたってこと?」
「ああ、工藤さん、青森の人だから。特に故郷の人と話してると、つい津軽弁に戻っちゃうんだって」
確かに、あのときは誰かと電話で話しているみたいだった。
「工藤さん、外見はあんな俳優さんみたいな色男だけど、ほんとは素朴ないい人なのよぉ」
「う、うん」
「全部、詩織ちゃんに借りたDVDを参考にしたの。あれを参考にすれば、きっと二人は恋に落ちると思って」
「どおりで『愛を知らないあなたに恋をして』的な出来事が続くわけだ」
裕子さんの行動力には、心底驚かされる。
「でも、工藤さんが怒っちゃうなんて。本当にごめんね。私があとで工藤さんにちゃんと説明しておくからね。全部おばちゃんのせいだって」
すっかり落ち込んでしまった裕子さんに、私は、気にしないでほしい、むしろ感謝していると言った。
裕子さんが行動してくれなかったら、私は工藤さんと話すこともなかったし、工藤さんの優しさに触れることもできなかったのだ。
その日のうちに、私は、ヨレヨレのパーカーと使い古しの名入りタオルを持って、工藤さんの部屋を訪ねた。
インターホンを押すと、しばらくして、工藤さんが玄関に出てきた。
すっかり着替えて、きれいになっている。
今度のTシャツは、胸元に『大商店街まつり』のロゴ入りだ。
「なに?」
やっぱり工藤さんは怒っているのだろう。
面倒くさそうにため息をつかれ、私は気持ちがくじけそうになった。
「あの、さっきはバケツの水をかけて、すみませんでした」
「ああ、うん」
「それに、心にもないこと言っちゃったりして」
「なんのこと?」
「その、工藤さんのこと、カッコイイだけ、とか、軽い、とか言って」
「……ああ、そっちね」
「え?」
工藤さんは、ただ黙ってにっこりと笑った。
何か言いたそうなのに、結局何も言わないので、私は続けた。
「それに、何度も助けてもらって感謝してます。火災警報のときに助けてくれたのも、工藤さんだったんですよね?」
「そうだっけ?」
工藤さんは、まるで覚えがないというように、腕を組んで首をかしげた。
私はむきになって言った。
「裕子さんが見てたので、間違いないです!」
「ほんと? あんな真夜中に管理人さんがいるはずないと思うんだけどなぁ」
「それに、これ」
私は、持ってきたパーカーとタオルを、工藤さんの胸にぐいっと押し付けた。
「工藤さんの物ですよね?」
「そう? よくある服とタオルだけど」
こんなヨレヨレな服とゴワゴワなタオル、そうはないと思うんだけど。
「あぁ、そうだ。前も言いましたけど、あのときの私、髪が寝ぐせ全開だったし、顔もノーメイクというか、鼻血まみれだったから……」
そう言いながら、私は急に恥ずかしくなって、下を向いた。
すると、サンダル履きの工藤さんの足が、一歩、私の方に踏み出してきたのが目に入った。
そして、事態を把握する間もなく、工藤さんの顔が私の左頬あたりにこれ以上もないほど接近したのだった。
私は、反射的に目をぎゅっと閉じて、息を止めた……。
しばらくして、私は恐るおそる目を開いて顔を上げた。
工藤さんは、いたずらをして相手の反応を楽しむ子どものように笑って、私を見ていた。
「い、い、いま、なにを?」
「ハナガキヤヂデデイネダバイイシ」
工藤さんは、あのとき青年から聞いた異国の呪文のような言葉を言った。
「意味が知りたかったんでしょ?」
「あ、はい」
「だから、いま、教えたよ」
「え?」
「『鼻血が出てないときならいいよ』って言ったんだよ」
やっぱりあの青年は工藤さんだった。
でも、ちょっと、妄想の中の青年とは違った。
それはそれで、いっか。