2.助けてくれた青年はだれ?
消防車が到着したあと、すぐに警報は誤報だったと確認されたため、しばらくして部屋に戻ることができた。
結局、最後まであの青年の顔はよくわからず、また、何階の住人なのかもわからず、私の手元には男物の大きなパーカーと白いタオルが残った。
パーカーはよくあるフリース素材で、よほど愛用しているのか、かなりヨレヨレ。
タオルも同様にずいぶんと使い倒した感があり、広げて見ると『ホテルニュー月野』と印刷されていた。
調べると、青森県のとある温泉にある老舗ホテルだった。
想像(妄想)するに……。
彼は、地方から出てきたばかりの倹約家。私の腕を引っ張る力強い大きな手。背の高い優しい青年。
むふふ。
ともかく! 服とタオルを返して、ちゃんとお礼を言いたい。
でも顔がわからなくて、どうやって探せばいいのか。
あのときは夢見心地で頭が回らず、うっかり名前を聞かずに別れてしまったのが悔やまれる。
◆
「詩織ちゃんが言ってた倹約家で優しい地方出身の青年って、方言か何かしゃべってたんでしょ。いたわよ、そういう人」
「え、どこに? このマンションに?」
私は、水が入ったバケツを両手で持ち、このマンションの管理人である裕子さんと一緒に階段を降りていた。
短大を卒業してこの春から一人暮らしを始めた私を、裕子さんは何かと気にかけてくれて、引っ越し初日から事あるごとに声をかけてくれた。
私よりだいぶ年上だと思うけど、毎日おしゃべりをするうちに、すっかり気の合う友達みたいな関係になっている。
裕子さんは雑巾で階段の手すりを拭きながら、答えた。
「そうそう。昨日、階段を掃除してたら、上の方からなんだか方言で話す若い男の人の声が聞こえてきたのよ。もしかして詩織ちゃんの言ってた人かなと思って行ってみたの」
「うん、うん。それで?」
私は、期待に満ちた目で裕子さんを見つめた。
「そしたら、いたのよ」
「うん、うん! 誰だったの?」
「工藤さんが」
「へぇ……えぇぇ?! く、工藤さんて、あ、あの?!」
工藤さんとは、このマンションに住んでいる若い、年は20代と思われる男性である。
彼は、なんていうか、こういう日常の世界には場違いなほど、完璧な容姿を持っている。
初めて彼を見かけたときは、こんな美しい人が現実にいるものかと、心底驚いた。
均整のとれた体つき、背が高くて足が長い。きっと180cm以上はあるはずだ。遠目でもはっきりとわかる整った顔立ちは、もはや神々しいほどである。
「そう、その工藤さん。でもね、行ってみたときは、もう話してなかったんだけどね」
「じゃあ、実際に工藤さんが話してたかどうかはわからないんだ」
「残念ながら。詩織ちゃんが、直接工藤さんに聞いてみたら?」
「えぇ、私が? うーん、でも、工藤さんのイメージじゃないなぁ」
ここは、一人暮らし専用マンションで、住人同士の交流はほぼない。
だから、ほかの住人が話しているところをほとんど聞いたことがない。すれ違っても、挨拶すらしない人が多い。
工藤さんのことは、映画の世界から飛び出してきたようなその容姿に、ついミーハー心から、以前、裕子さんに名前を教えてもらって知っていた。
しかし、実際には挨拶もしたことがないので、声を聴いたことがない。
それに、以前、マンションの前で彼が女の子に冷たくしているところを見かけたことがある。
とても可愛い女の子が何かを渡そうとしていたが、工藤さんは迷惑そうに見ただけで、さっさとマンションに入ってしまったのである。
残された女の子は泣いていた。
二人がどんな関係なのかわからないが、私に親切にしてくれた青年なら、そんな対応はしないと思うんだけどなぁ。
「まあ、あの人、無駄にかっこいいからね。方言のイメージじゃないかもしれないけど、ダメもとで聞いてみたらいいんじゃない。ほかに思い当たる人もいないし」
「うん、そうだね」
「そういえば、これ」
裕子さんは、エプロンの大きなポケットから、DVDを取り出した。
私が貸した『愛を知らないあなたに恋をして』である。
ジャケットの写真では、夢に出てきた俳優さんが、筋肉質のたくましい腕で本物のヒロインをお姫様抱っこしている。この映画の名シーンのひとつである。
「ロマンス映画って言うの? こういうのも面白いね。まだ借りてていい?」
「いいよ。警報が鳴った日にテレビでやってたから、録画したしね」
「詩織ちゃん、ほんと好きだね」
「うん。今度、原作の小説も貸そうか。最高だよ」
裕子さんは、「うん、いずれね」と笑って言った。