オオナカツ姫
あの日以来、ムナイは巡幸の準備に忙殺されていたらしく、オキナは彼と話をするどころか顔も見ないまま、とうとう出立の日を迎えてしまった。
旅軍を見送る列に並んだオキナは久し振りにムナイの姿を見ることができた。彼は馬上からオキナを見つけると、懐かしい目をして近づいてきた。
「姫さま、しばらくのお別れです」
「どうぞお身体を大事に」
オキナはそう伝えたあと、ついでのように、
「我が尊をお護りくださいませ」と続けた。
「承知しました。姫さまにおかれましては、海の上から寝落ちしませんように」
ムナイの可笑しみと哀しみの入り混じった表情が、オキナの心を震わせる。
「ムナイさま・・」と言葉を詰まらせていると、
「宿禰!」
大声でムナイを呼ぶのはオオナカツ姫であった。彼女もふたりの皇子と共に、御見送りの側に立っていたのだが、大きな身体を揺らせながら急ぎ足でふたりの元にやってくると、ひどい剣幕で、
「尊からあたしを引き離したのは宿禰、そなたじゃな!」となじった。
オオナカツ姫と皇子は三日遅れの第二発に組み込まれていることをオキナは護衛から聞いていた。
「列枠の名簿は王も交えて決めたことでございます。どうぞ御容赦を」
「ふん!サナ姫はどうなのじゃ?姿が見えぬが御見送りの側にいないということは、尊の車にでも隠れておるのじゃろ?」
「サ、サナ姫は新婚ゆえ、お離しするわけには・・」
「ぐッ!サナ姫とはこの地で散々、、、いやわかった、もうよい。三輪社までは我慢しよう。しかし徳勒津社に出立する際はあたしを尊と同じ隊に入れるのじゃぞ。必ずじゃ、よいな!」
「それはまた後日・・」
「よいな?!」
「はあ。承知しました~」
大将軍ムナイでも后にはかなわないのだ。
「きっとだぞ。あッ、それとの、あたしの乗る車のことじゃがな・・」
さらに注文をつけはじめたところに、
「大将軍ー!」
旅陣の先頭に立つ兵士がムナイを呼んだ。出立の時間だ。
「王が呼んでおります、これにて!」
ムナイはオオナカツにそう言うと、最後にオキナに向かって一礼した。
オキナが下げた頭を戻した時には、すでにムナイの背中は遠くになっていた。
旅陣の影が見えなくなるのを見届けると、オキナは着替えのためにいったん社に戻ることにした。と、そこに、
「大后さま」
オオナカツに呼び止められた。
オキナは笑顔を作って頭を下げた。
「久し振りですね。どうです、残された者どおし、少しお話ししませんこと?」
本来は大后であるオキナが格上なのだが、実際には古女房であるオオナカツに逆らうことはできない。オオナカツからの初めての誘いに、オキナは意外な顔で頭を上げた。そしてその意味を探ろうと、彼女の顔をじっくり眺めた。
尊の三歳下だと聞いているからちょうど三十歳。常に人を値踏みするような細い目と、太い鼻すじ、それと顎まわりのたぷたぷの弛みに迫力がある。歳の割りに皺が目立たないのは肥満によるものか。その彼女もまたオキナの顔をしげしげと眺めていた。
「大后さまは十五歳でしたっけ?こうして見ると、やっぱり若いってよろしいですわね。さあ、ぜひうちにお寄りくださいな」
断る適当な理由がみつからず、オキナはオオナカツに導かれて車に乗り込んだ。
車とは平安の頃の牛車のかたちをした、ふたり乗り二輪の乗り物である。引くのは牛ではなく引き人と呼ばれる者たちで、主に后や親族の女子供のためのものだが、オキナは角鹿に来てからは利用していなかった。
オキナが座るとその隣にオオナカツが肥満した身体をどさッと下ろす。オキナは身動きできない。
「あら?あたし、また太ったかしら。ちょっと我慢してね。あたしの屋敷はすぐそこだから」
車はすぐに動き出した。が、ほんの数分で到着。オオナカツに続いて車を降りると、
(なんだ、私の部屋の三棟隣だったのか)
横に長く伸びた気比社の裏側に、別棟の建物が六棟並んでいて、それぞれが后と皇子の屋敷になっている。オキナの部屋は一番端で、中央あたりがオオナカツの部屋であった。
「お招きするのは初めてですね、さ、大后さま」
と、中に入ったオキナはまず驚いた。彼女の部屋の数倍はある大広間が広がっていたのだ。
王がどのくらいの頻度でオキナと臥所を共にしているのか、それを聞き出すことがオオナカツの目的であった。それともうひとつ、オキナの后としての野望を探る意味合いもあった。
まわりくどい聞き方をされたけれど、オキナは本心を隠さず、
「王が来ることはなくなりました」
と答えた。惨めな気持ちにもなるけれど、それが自分の身を守ることだとわかっていたから。この女を敵に回すと大変なのだ。だから次の質問には、
「自分の子ですか?もう諦めてますから」と答えた。
「えー!本当にそれでいいの?大后さまに御子ができなくて、それで構わないと?」
「ええ。おなご同士ですからお話ししますが、私のホトは皆さまのものとは違い、その、とっても小さいんです。初めてお受けしたときに裂けたのを、女官が縫い戻してくれたのですが元のようには」
「元のようにはって、縫い方が悪くてさらにちっちゃくなったってこと?」
「はい・・」オキナは哀しげにうなずいた。
少々誇張ですけど!と心の中で苦笑いしたあと、
「ですので尊がどうこうされても、私にはただただ痛いだけなのです」と続けた。
「でもそれでは大后のお役目が果たせないのじゃありませんこと?」
「わかりません。王がそうお考えなら、私はそれに従うまで。そもそもお丈夫な皇子さまがふたりもいらっしゃるのですから、ヤマト国の未来に私ごときが出る幕はないと思っております」
オオナカツはそこまで聴くと、ようやく疑いが晴れたのか、本ものの笑顔を見せた。
「では大后はカグサカが次期大王になることになんら不満はないと?」
「まったくありません」
「よろしい!」とオオナカツは太股をぱんと叩いて、「お可哀想な大后さま。でも心配しないでくださいね。カグサカ皇子を応援してくれる以上、あたしが大后さまの味方ですから!」
味方でなくていいから放っといて!とオキナは思ったのだが、
(でもまあ敵と思われるよりはずっとマシね)と思い直した。
「さてオオナカツ后さま、私はそろそろ失礼をば」
「え?お昼食べてってくださいませよ」
「いえ。そのう、私は毎日海を見るのを楽しみにしておりまして」
「そう。なら仕方ないわね。そうだ、カグサカに送らせます」
オオナカツはオキナの断るのも聞かず、下女に隣の棟まで皇子を呼びにやらせた。
しばらくたってやって来たのは、カグサカ皇子ではなく、その弟オシクマ皇子であった。