逃げ続けて
それは頭痛がして、
日付が変わる頃までに
横たわった翌朝のことだった。
眠りから覚めると、
家の前に、勝つために
集まれという人がいた。
勝ちには行かないと言うと、
他にも知らない人たちが来て、
連れて行かれそうになった。
近所の人たちも大騒ぎで、
自分は運良く逃げられたが、
大切な人を置き去りにした。
勝ちに行く噂は聞いていた。
ただ、自分には関係がないと
そう思っていた。
そう、あの日、眠る前までは。
だけど、一夜明けたとたん、
自分のことになっていた。
落ちてきそうな曇り空の下、
逃げ延びた山の中には、
すでに大勢の人達がいた。
逃げて当然のことだった。
ふだん、威勢のいいあの人も、
そこに、うずくまっていた。
もっと、もっと遠くへ
逃げるしかなかった。
逃げるしかない自分だった。
そのとき、声がした。
時が流れてゆくことに
変わりはないと聞こえた。
世界に何が起こっても、
老いてゆくことに
変わりはないと聞こえた。
夏の終わりが来たなら、
秋や冬になることも、
変わりはないと聞こえた。
誰が何を願っても、
生きて欲しいことには
変わりはないと聞こえた。
命の源があるとしたら、
声はそこから
聞こえていると感じた。
迷わずに、自分は一人、
逃げようと森へ入った。
言葉の森、音楽の森に。
あの朝からどれくらい
経ったのか、何十年か。
皆は勝つために死んだのか。
今も森の中にいる。
勝つことは続いているだろう。
葉陰から世界を覗く。
通りかかる人々は、
ほとんどが憂鬱そうで、
だけど、時々笑う人がいた。
憂鬱そうなのは、
勝ちに行くせいだと思っていた。
笑う理由はわからなかった。
世界を覗く度に、
理由のわからないことが
増えていった。
その多くは人の笑顔だった。
楽しい何かがあるのかと、
薄明るい謎になっていった。
好奇心は謎という土に芽生える。
思い出の街に行ってみよう。
思い出として話せるうちに。
森の中では一人だから、
ほとんど裸でいるのだし、
話すことはないのだが。
あの朝、着ていた服だった
ボロ布を身につけて、
森から恐る恐る出てみた。
勝つことはしていないらしい。
いや、目の前の通りでは
勝つことはないらしい。
空には鰯雲が広がっている。
通りかかる人たちは、
憂鬱そう、でも笑ったり。
それに悲しそうだったり、
嬉しそうだったり、
しんどそうだったりと。
様々な人たちが同じ時代に
暮らしていることを思い出した。
そうだった、そうだった。
勝つために集まれと、
そう言われたあの朝から
自分は自分を無くしてきた。
突然訪れた、あの朝、
集まれと言われた勝ちに行くことは、
どことの戦いだったのか。
なんとなくわかっていた
そんな気もするが、
いや、わかってはいなかった。
今だって、わからない。
わかっていないじゃないか。
わからないままの半生になった。
悔しいのか、情けないのか、
そういうものなのか、
逃げ出した自分だったからか。
見た目はどうでもいい。
ボロでも身につけていれば、
少しは寒さも凌げるだろう。
それを見た人がいたなら、
不快な思いをするだろうが、
自分はそうでしかない。
思い出の街に行こうとして、
歩き回ってはみたけれど、
迎えてくれるものはなかった。
寂しくて、寂しくて、
森の方へまた帰ろうとする。
言葉の森、音楽の森に。
詩を目指したわけでなく、
旋律を大切にしたわけでなく、
寂しくて、また帰ろうとする。
頭痛の治まらない体は、
置き去りにした大切な人を
探せないままになった。
楽しい何かがあるのかと、
好奇心が芽生えていた
薄明るい謎の土は乾いた。
探せなくても、乾いても、
どう生き続けたとしても、
自分が生かされた意味を思う。
勝ちに行く、どこと戦うのか。
これは、残忍な勝ち負けを
匂わせる全てから、逃げ続ける詩。
勝ちに行く、自分との戦い。
これは、そんな心を言ってはいない。
優秀が醸し出す奢りを、怖がる詩。