夢
「夢ってさ、ある?」
彼女が言った。
とっても澄んだ綺麗な声で、そして僕に冷たく響いた。
君はいつもそうだった。
初めて会った時も、
「わたしはねこれがやりたいの」
そうはっきりと言って、しっかり前を見て、
その凛とした眼差しが眩しくて。
僕はそんな君が好きになったんだけど。
だけど僕には何もなかった。
何もしてなかったわけじゃない。
それなりに何かしてきた。
君の隣にいるために。
というより対等に肩を並べて居たくて、
だけどぼくはずっと君の肩の後ろから君の見てる景色を見てきたんだ。君が進む背中は誰よりも見てきたけど、
君の進む息遣いは聞こえなかった。
君は信じられないスピードで成長していった。
あれをやってこれをやって、
自分の「目標」に対して純粋に進んでいった。
そこに悩みや葛藤は見えなくて
僕には全てが順調なように見えた。
だからすごく驚いたんだ。
ある日、君は消えた。
君の夢が叶った次の日だった。
君はいつかすごく綺麗な笑顔で教えてくれた。
「わたしの夢はねこの曲をあの大きなホールで弾くことなの。コンチェルト。ピアノの音がオケを引っ張って、オケに乗って、船が大きな海に漕ぎ出すように大きなエネルギがこのホール全体を飲み込むの。そしたらきっと違う世界が見えるような気がする。たまにピアノを弾いてると羽が生えたような気がするの。自由に楽しくてフワフワしてて私たちは音楽で会話できる。もっと空を飛んでみたいんだ。」
キラキラした笑顔が子供のようで、
ああきっとこの子は本当にやるんだろうなと不思議と確信を持ったのを覚えている。
音楽の神様に愛されている子というのは本当にいる。
と思う。
彼女はまさしく愛されていた。と思う。
なんていうと彼女の頑張りは全部運だったなんて聞こえてしまう気がして申し訳ないんだけれど、
彼女の鳴らすその音は他の誰のとも間違って
雫のようだった。
ただの雫じゃない。
光が吸い込まれて一つ一つと落ちるたびに世界をその場に吸い寄せた。誰一人として動けない、動きたくない。彼女の鳴らす音を聞きたいと思わせる魅力があった。
まるで魔法のようだと思う。
ふわっと広がる甘い香りのようで、冷たい氷の空気のようでもある。真冬のこたつでアイスよりも矛盾的で魅力的だ。
そんな彼女があの大きなホールでコンチェルトをやった次の日に消えた。
最後の一音を引き終えた彼女はその余韻を吸い込み、
何かをみつめたあとすっと立ち上がり
指揮者と握手をした。
あまりにも圧巻の演奏だった。
ぼくは彼女と同じ舞台に上がれない自分に不甲斐なさを感じた。
ぼくが今まで見たどんな彼女より美しく、
彼女が奏でた音楽はこの世のどんなものよりも雄大で優しくて繊細で怖かった。ぼくは壊れると思った。
それでとてつもなく愛おしかった。
彼女は観客の方に振り向きしっかりと頭を下げた。
なかなか上がらない頭に指揮者が彼女の肩を抱いた。
震える肩が泣いていた。
彼女が顔をあげるとあんなに大きな感動を奏でたのに小さな声で「ありがとうございます。」っていうもんだから、
会場中がまるでお母さんになったように彼女の雄姿を讃えた。
何度かのカーテンコールが終わり、ぼくは用意していた花束を手に彼女の楽屋に走った。
ノックをするのももどかしかった。
彼女は嘘みたいに笑ってて、何その花束なんてジョークまで飛ばして、やっぱり難しいことなんて何も感じさせなかった。
次の日彼女は僕らの前から消えた。
小さな手紙に、
ありがとう!
とひとつだけ残して。
僕らは君の何も見ていなかった。
君が進んでいく肩越しに世界を見て、
君の苦しみなんかひとつも見なかった。
君は見せようとしなかったのかもしれないけど、それでも本当に全くわからなかった。
高校を卒業して親元を離れてひとりで都会に出てきた君。
人見知りで友達ができずに教室の隅にいる君。
それでも前を見てピアノだけを見つめていた君。
お昼休みになれば目を閉じ音楽を聴いている君。
どれだけの孤独とプレッシャーの中にあったんだろう。
いつだったか、どんなピアニストになりたいかって聞いた時に、君は少し悩んで、
「パパとママと一度だけ行ったこのホールで2人と聞いたピアノコンチェルト。それが弾きたい。」
とだけ答えた。
まっすぐ真剣に。
夢を叶えた君は幸せかな。