*無言コミュニケーション
彼女が昨日に引き続き、電話越しに泣いている。
時刻は午後十一時。
先週から読み始めた長編小説が、クライマックスに差し掛かる寸前のところでの電話だった。
実にタイミングが悪い。
昨日は「もう仕事がつらい」という内容だった。
誰もが一度は経験する大人になるための儀式である。彼女も例にもれず、社会人一年目の一月に儀式が執り行われた。
男性の先輩に何度も誘われて気分が悪いと言うちょっとした話から、徐々に仕事の不満に変わり、残業をしても仕事が終わらないという誰もが抱える果て無き絶望を目の当たりにして、泣き崩れてしまった。
そして今日もまた彼女から電話があった。
「……」
今日は最初から泣いているようだ。
電話をしながら気になる小説の続きを読む。
しかし集中して読むことができない。
「……」
なぜ女性の多くはどうでもいいときは無限に言葉を発するのに、話すべき時には無言になるのだろうか。無言ほど聞き逃してはいけない会話はない。
いけないいけない。熱くなり過ぎた。女性とひとくくりにするのはよくない。反省しよう。
「どうしたの? ゆっくりでいいから話してごらん」
大切なのは忍耐である。
付き合って三年が経つが、得たものはこれである。
本当は小説の続きを読みながらでも十分な会話だが、もしそれが彼女にばれたら恐らく機嫌を損ねるだろう。こんなつらい思いをしているのに、真剣に話を聞いてくれないなんてサイテ―だと、怒り狂うだろう。
仕方がないので、小説にしおりを挟む。
「……」
無言という言語に頼らないコミュニケーションに集中する。
鼻をすする音、息遣い、テレビの音、何かが動かされる音、電話越しに聞こえるかすかな物音が手掛かりになる。
耳に集中して音を聞き分ける。
「……」
いつもより遠くに音が聞こえる気がする。
彼女の部屋はWi-Fiの契約をしていないため、ネット通話の場合、電波障害が起こりやすい。それに電波の入りが悪い。以前からかなり不便を感じていた。
何度となくネット環境を整えるようにと伝ええても、一向に改善する気がない彼女の態度にいつもイライラしていた。
そのせいで音が遠くに聞こえるのだろう。
「もしもーし! もしもし? もしもしもしもし」
少し嫌味っぽく言ってみる。
「……」
大切なのは忍耐である。
だがやはりこの時間を他に有効に使えるのではないだろうかと思う。
今この時間、友達は旅行に出かけている。仲良しグループで俺もよく一緒に出掛けていたけど、彼女ができてからは顔を出す回数が減ってしまった。
こんな時間に使うのであれば、旅行に行きたかったなとも思う。
気を取り直して、電話越しの音に集中する。
ギシギシギシギシ
また始まった。彼女は機嫌が悪くなるとヒステリーを起こす。
多分今回はベッドの上で暴れているのか、布団を殴りつけているのだろう。
「落ち着いて。ゆっくり話を聞くから」
相変わらず、ギシギシギシギシと不安をあおるような音を立てている。
しばらくするとその音が収まったが、ガシャンという何かが破壊されたような音がした。
これにはさすがに驚いた。
「大丈夫か? よしわかった。今から車でそっちに行くよ」
本当は今から出かけるなんて嫌だ。午後十一時からのお出かけなんて気が引ける。
彼女の家まで車で片道三十分。これでは帰ってきたら日が変わっている。
そしておそらくこの調子だと、俺の家まで連れてきて一緒に泊まることになる。そうなると朝は出勤時間の早い彼女に合わせることになり、確実に睡眠時間が短くなる。
あーイライラする。すごく嫌だ。
「……」
相変わらず無言。
「どうした? 大丈夫か? 今から車でそっちに行くからね」
嫌だと思いながらもこうやって毎回自分に嘘をついて良い彼氏を演じている。ストレスがたまるばかりだ。
「……」
「出発するからね」
来ないでいいって言ってくれないかな。
「……」
「じゃあ電話を切ったら出発するからね」
あーあ。もうこれは行かなきゃだめだな。明日の仕事辛いな。
「……」
「おっけ。じゃあ待っててね」
いい加減何かしゃべってほしい。イライラしかしない電話だったな。
さあ出発するか。
電話を切ろうとしたとき、男の声が聞こえた。
「来たらお前も殺すからな」
□◇■◆
警察の検死により、彼女の死亡推定時刻は午後十一時ごろとのこと。ちょうど電話がかかってきたころだ。
おそらく、帰宅と同時に電話を掛けたのだろう。
その後ろに男が付いてきていることを知らずに。
電話の呼び出し中に彼女は男に殺され、スマホが床に落ち、俺が電話に出た。という流れになる。
彼女が無言だったのは、ただ単にこの世に存在しなかったからだ。
その後犯人の男は、亡骸となった彼女をベッドに運び、こともあろうにそのまま犯し始めたのである。
彼女の遺体から、その跡が確認されてわかった事だ。
あのギシギシギシギシという音は、そういう音だったのだろう。
彼女の身体に精液が残っており、犯人はすぐに特定された。
彼女の職場の上司だった。彼女から聞かされていた、しつこく誘ってくる男性の先輩だった。
俺は何もできず、むしろ彼女に対し悪態をつきながら、彼女の最悪の終わりを聞き続けていた。
しかしこれでまた友達と旅行に行けると心が弾んでいる。




