7.やおよろずの軍事介入~SANCTUS
一九七九年も秋になる頃、羽部宇八は自作のレクイエムのうち、未完成のままの『怒りの日』の後半、『アニュス・デイ』、『コンムニオ』を作曲しようという気になっていた。七十七年の秋に作曲を開始したから、もう二年も経っているのであった。『オフェトリウム』が難産の末、一年前に完成できたのだから、後はすんなりできてもよさそうなものだが、何のことはない、レクイエムのことはすっかり忘れてしまっていたのだ。
仕事は少しはしていたものの、この年の前半はインベーダーゲームばかりしていた。ゲームセンターに朝から晩まで陣取り、百円玉を山積みにして、小、中学生どもの羨望の的となって、華麗なテクニックを披露していたのだ。夏を迎える前にブームが去ったのを誰よりも悲しんでいた。
そんなわけで心ならずも暇になったものだから、きゅいん、きゅいんというゲームの音が耳から消えたことでもあり、最後の『コンムニオ』から作曲を再開することにしたのだった。ここは歌詞としても、宇八の構想としても、『イントロイトゥス』とペアになるようなものなので、前半二行はヴィクトリアふうの、合唱の各声部が絡み合いながら、マニエリスムの大伽藍を造り上げていくような味付けにして、『主の聖人たち』"Sanctis Tuis"のところにはフリギア旋法を入れてアクセントにした。
後半二行は、HABEのモチーフをグレゴリオ聖歌ふうにユニゾンで歌うが、半終止で終わらせることにした。HABEの目的語は得られない、しかしそれを追い求める気持ちは残るといった響きになるようにしたかったのだ。これを一日、というよりものの二、三時間で書き上げたが、またわけもなくやる気をなくして、ぶらぶら欽二の仕事の邪魔をしたりして、その年も終わってしまった。
あの十月の夜のふぐちりの一件で助けてもらったのがきっかけになって、正月三日に、月子とその兄弟をアパートに招いて、おせちを振舞った。高保も保伸も言ってみれば、ふつうのお兄ちゃんという感じで、月子もそうなのだが、高校を卒業した後はみな働いている。昭三の稼ぎがあまり良くなく、純子が昔から外で働いているのを見て育ったのがいい方へ作用したのだろうと栄子は考えている。
この兄弟のことが話題になると宇八も「あの子たちは気持ちがいい」とお決まりの台詞が出る。経済的に恵まれていないことや学歴がないことを卑下したりもせず、自分が何者であるのか、自分はどんな役割を果たすべきなのかといったことをわきまえている。東京で会った植村たちのようなくだらないおしゃべりに興じたりしない。
宇八はお屠蘇が回った頭で、三人を見ながら思っていた。一隅を照らすというのは、こいつらみたいなのを言うんだよなと。彼は酒には強い方だが、お屠蘇を飲むとすぐに酔っ払ってしまうのだった。
箸でつまもうにも、刺そうにもつるりと逃げる煮しめのコンニャクを追いかけながら、重箱の隅をつついているような連中とは大違い、おれだって真似のできないことだと妙に素直に思った。そう、おれは何をしてきた? 栄子や欽二が十年一日のように言うとおり、何をやりたいのか、それが自分でもさっぱりわからない。わからないのはかまわないとして、何か残るようなことをしてきたか? どれも中途半端なままだ。レクイエムくらい完成させなきゃな。
栄子も欽二も、誰も望んでないだろうが。まあ神父さんくらいか。神父さんも商売上役に立つくらいの思惑かもしれんが、それでもいいや。一人でも待ってくれる人がいれば完成させる意味がある。そうさ、それで十分だ。よし何がなんでも。……
「おい、お年賀に行こうか。神父さんとこに」といきなり立ち上がりながら言うと、栄子は月子たちを見遣りながら、
「年末年始は、お国のオーストリアに帰ってらっしゃるって言ったじゃない」と笑って言った。その返事にがっかりしたのか、
「月子、おまえいい女になったなあ」とか何とかぶつぶついいながら、座り込むとそのまま酔いつぶれていった。
こたつで眠ってしまった夫に毛布を掛けながら、片付けを手伝っている月子に、
「ごめんね、月子ちゃん。全くどっちがお客さんだか」と声を掛ける。
月子の兄の高保が輪子に声を掛ける。
「輪子ちゃん、近所の神社にお参りに行こうか。たこ焼きでも食べようよ」
弟の保伸も反応の鈍い輪子の機嫌を奮い立たせるように言う。
「いか焼きの方がいい? お好み焼きもあるかも」
そうやって、先ほど三人で初詣に出かけていった。
栄子は一応教会の信者なので行かない。それに月子も付き合った。
「いいわよ。伯父さん、結構かわいいとこあるし」
「かわいくはないでしょ?」
月子は思い出し笑いをしながら、
「ほら、去年、あたしがお座敷に行って、襖をバッと開けた時の伯父さんの顔。なんか顔中はてなマークだらけって感じで」と言う。
「ああ、あの時はごめんなさいね。あたしが行かなきゃなんなかったのに」
「いいわよ。伯母さんから聞いた時は、なんかおとなのいやらしいところ見ちゃうのかなって思って、それで、えいやって襖開けたんだけど、全然。もう一人のおじさんは眠ってたし。伯父さんは……」
並んで食器洗いをしながら、話をしている。栄子がスポンジで洗った食器を月子がすすいでカゴに入れていく。
「あの人はどうだった?」
「なんて言うのかな。……あんまり女の人を相手している感じじゃなかった。別に伯母さんだからそう言ってるんじゃなくて」
「そう?……それなら女の人と、なんでお酒飲みたがるんだろうね」
「さあ。あたしの勤めてる事務所の所長とかも、あたしと飲みたがるし、いやらしさムンムンだけど、そういうのとも違うよね。女の人と一緒にいるのが好きなんじゃないの? ただそれだけって感じ」
「まあ、いつもいつも人畜無害でもないんだろうけど。もう少し家庭のことも考えてくれればいいんだけど」
「ああ見えても考えてるんじゃないの? うちのお父さんなんかも、てんでだらしないけど、それなりに考えてるみたいだよ」
「あんたのお父さんは昔から要領は悪いけど、真面目にちゃんとやってるからいいのよ。……この人は本当によくわからない。だいたいは不真面目なんだけど、その方がなんとかなってて、まじめになっちゃうと変な方へどんどん行っちゃうから。あたしはいいけど、輪子がねえ……あ、お重はふきんの上に伏せといて」
「うん……輪子ちゃんはしっかりしてるじゃない」
「……そうなんだけど、かわいがりもしないのよね。あんまり」
「お嫁に行く時、さみしいからじゃないの?」
その口調に伯母らしい勘が働いた。
「そんなこと考えてする人じゃないわ……月子ちゃん、いい人いるの?」
食器洗いが終わって、月子はエプロンを外しかけたところだったので、顔の前で手を振ってごまかし、そのままつきっぱなしのテレビの方に目をやりながらこたつに入った。
さて、上川一族全体に視野を広げてみると、七十九年から八十年にかけて結婚ラッシュに見舞われていた。本家の上川裕美子と片山暁子が昨年、七十九年の秋に、片山葉子と鳥海菫が今年の春と秋といった具合であった。
事のついでに触れておくと、三人の叔母の前で派手なパフォーマンスをした本家の長男、晃は昔で言えば保が興した上川家の三代目のはずだが、ご多分にもれず、身上を潰しかねないような人物だった。
祖父の保に憧れていて、おれも親や家に頼らずにでかいことをやってやるという意気込みは立派だが、手堅くて小心者の父、正一をバカにしているものだから、かえって無謀なことに手を出して、借金を抱え、自分では払いきれず、これっきりだという約束で(これっきりにならないのは世の常だが)、尻拭いしてもらう始末。
そんなことが何回かあり、今は勘当同然になっていて、結婚したらしいが、いつ、どこで、誰というのは、栄子ら三姉妹ともに詳らかではなかった。
いずれにしても伯父、伯母、場合によっては従兄妹も結婚式に呼んだり、呼ばれたりしていると、出費はかさむは、誰々のと比べて今日の衣装はどう、料理はこうとロクでもない話が出る。一回のお祝いに十万円の出費では足りない、毎年春と秋に一人ずつにしてもらいたい、いやうちは毎月少しずつ積み立てをしている、あと何人いるんだ、まだ半分も終わってないんじゃないか、こりゃえらいこったと労働組合の団体交渉のような会話。
しかし、甥、姪たちも大きくなったもんだ。うん、ほんのちょっと前はあんたの小さな車の荷台にみんな乗せて、川遊びに連れて行ったのに、今じゃおれたちよりよっぽど大きくなっちまった。昔は良かったな、じいさんが生きてる頃はにぎやかで。お互い年を取ったってことか。いちばん年下は誰だ、保伸か? ああ輪子だ。あの子だってもう十六よ。そうか、そうか……。いつもの繰り言めいた会話。
そんな中、たぶん葉子の結婚式の際に、大学生の鳥海童が宇八に話し掛けてきた。
「伯父さん、できた? レクイエム」
「いや、まだだ。もう少しだが」
「そう。……あれさ、バッハはなんでないの?」
「レクイエム書いてないだろ。バッハは」
「でも五曲書いたとかいう受難曲は、レクイエムじゃないの? キリストへの」
この甥はこれまでに述べてきたところでも明らかなように、とりあえず訊きたがり屋であるが、この伯父に対しては特別にそうなのだ。それに訊いていることが本当の意味で、彼の頭の中で大きな気がかりとなっているものかどうかは疑問であって、気がかりがあるときにこの伯父に会うと、こんなふうに一見関係のない質問になるといった方が正確だろう。それでこの伯父には十分通じるという甘えもある。
「そうかもな。だがそういうふうに店を広げてもな」
「ショスタコだって入れちゃってるのにさ。……嫌いなの?」
「嫌いとか、好きとかのレベルじゃないだろ、バッハは。入れると終わっちゃうじゃないか。……まあいいや、座れや。悪いな、輪子」
輪子を立たせ、童を自分の隣に座らせた。背もたれに手を掛けた姿勢で、話を続けた。
「……一流の作曲家、まあおれが取り込んだようなのがそうだが、ああいう連中の音楽は、ある意味同じようなことを問いかけていると思わないか? 人はなぜ生まれてきたのか。なぜ死ぬのか。どんなふうに生きて、どんなふうに死ねばいいのか。そういうことを、音だけで問いかけているんじゃないか? それぞれの声でさ。……だが、バッハだけは違うんだ。あれは正解って奴なんだ。そういう答えのないような問いにいきなり解答を出してきやがる。そう、他のどんな天才だって、問いを出すのさえ血を吐くような思いで作曲しているのに」
童は伯父の顔をじっと見ているが、宇八は甥の顔を見ない。グラスを見つめていたり、先ほど新郎新婦がお色直しで出て行った出入口辺りを凝視していたりする。
「バッハは、だってこれが答えじゃないかって、すっと言ってしまうんだ。だから他人の曲を持ってきても自分の音になってしまうし、正解はそんなに色々あるわけないから、自分の曲の使い回しも平気なんだ。『うん、これで十分だ』って呟きながら書いてたんだろうな。……でも音楽っていいよな。言葉なんかより、本なんかよりずっといいな。パルティータとか。わかんなくても気持ちいいし、わかると胸が締めつけられて」
伯父はますます甥から目をそむけ、最後は多弁なのを恥じるように反対側を向いてしまった。童はそっと立ち上がって自分の席に戻った。
しばらくして、正一がふらふらとやって来た。ほろ酔いと泥酔の間くらいといった正一のいつもの領域である。
「宇八さんよ、あんたも栄子とおんなじヤソ教徒になったんかね?」
「いや、おれはカトリック教徒なんかじゃないぜ」
「じゃあ、仏教か? 神道か?」
「まあ、やおよろずだな」
「それにしちゃあ、小難しい讃美歌かなんか作ってるじゃないか。おれたちも引きずり込もうとしてさ」
「別にあんたに歌わせたりしていないだろ? 嫌がる奴に無理強いなんかしないぜ」
「うん。それならいいんだが……」
宇八が少し怒気を込めて言うと、怯んだようにぶつぶつ言いながらまた別のテーブルの方へ行った。
秋の鳥海菫の結婚式にも同じようなことが繰り返されるものと思っていたら、好事魔多しというか、再び三姉妹間で紛争が勃発してしまった。前年二月の中国のヴェトナムへの『懲罰』という名の侵攻、同じく九月のイラン・イラク戦争、十二月のソ連のアフガニスタンへの侵攻等々、この頃世界各地で起こった軍事紛争が彼女たちに影響した可能性は低いが、直接のきっかけに絞って挙げてみれば輪子の不用意な発言だったということになるだろう。
月子らの社会人と付き合うようになって言うことが急におとなっぽくなった輪子が、六月頃に電話で叔母の光子に何か冗談半分の余計なことを光子に言ったらしい。その時は、笑って聞き流した光子が夫の薫に言うと、そういう言い方はないんじゃないかと問題にし、義姉さんもどんな躾を、それより義兄さんがあんなふうだから娘もと拡大させる。
すると、光子は光子で姪の分際で最近あの子、口ばっかり達者になってと問題の深刻化を企図する。きっかけの一言は、いつの間にか歪曲され大げさなものになって形容詞が増えていくものだが、これを達子に伝える。達子も輪子の最近の物言いには心当たりがあるものだから、火薬庫にマッチを放り込んだようになってしまう。……
今度は達子、光子の連合軍対栄子という戦いの構図になってしまった。戦い、紛争といっても二、三回激しい電話での応酬の後は、またもや絶交するだけなので世界各国、特に軍事大国に見習ってほしいくらい平和なものではあるが。しかし、この紛争、実は光子は弱みを抱えていた。菫の結婚式である。
こちらが呼ぶ方なので、絶交しているなら招待しなければいいようなものだが、そんな親戚の間にしこりが残るようなことをしていいのか? では、招待すればよさそうなものだが、それで欠席に丸を付けたハガキが返って来たらどうする? 面目丸つぶれである。困った、秋までには仲直りをしないとまずい。
だが、悪いのは輪子であり、その保護責任者の栄子であり、あの家ではないか。しかも何の反省もない言い方までしていると光子は思う。前の形見分けの時も結局、自分だけが損をしたような気がする。
なんで末娘って損ばかりするんだろう。服はお下がりばかり、穴だらけの靴下を履かされて恥ずかしかった。お姉ちゃんたちは、お母さんとひそひそおとなの話をして、あたしを除け者にした。特に(今は特にそう思いたいのだが)大きいお姉ちゃんはひどい(もちろん栄子のことである)。
何でも知ってるようなふりをしてあたしを馬鹿にして、勉強を教えてくれたと思ったら嘘ばっかり。馬耳豆腐だとか以心電信だとか、学校で大笑いされてしまった。あたしのことをなんでもわかってくれたのは、和次ちゃんだけだ。かわいそうにあんな空襲さえなかったら。
本当に頭が良くて、やさしくて、双子の妹のあたしのことをなんでもわかってくれた。あんなひどいケガをしてたのに、お父さんごめんなさい、光ちゃん、いいお嫁さんになんなよってそればかり繰り返して死んでしまった。
お父さんが泣くところなんて後にも先にも見たことなんてない。「もうちょっと早く連れて来れば」だなんて、あのやぶ医者め。薬も腕もないのを人のせいにして。……え? 何? なんでタオルにまでアイロンを掛けてるのだって? うるさいわねえ、菫。誰のせいで苦労してると思ってんのよ。
だが、栄子は栄子で気を揉んでいた。姪っ子の中でいちばんかわいがっている菫の結婚式なのだ。あの子の考えていることはよくわかる。だってあたしそっくりだもの。あの子は身体も弱いし、あんな事件もあったりして、色々苦労している。何より気が強そうな見かけによらず(そう、光子だってわからないかも知れないけれど)、神経が細やかで、臆病なのだ。
その娘が結婚する。相手の人は、やさしくて背が高くて……そう、長所ばかりで欠点のない良い人だそうだ。条件的にもいいと聞いたけれど、人生においては大した問題ではない。幸せになって欲しいけれど、その方法は自分で見つけるしかない。
あたしもなぜこの人と一緒になったのか、もう忘れてしまったような気がする。それほど実際に歩いた道は予定や思惑とは違っていた。後悔とかそういうのとは違うけれど、あたしにはあの人がわからない。もっとふつうの人ならって未だに思う。
そんなこと言いやしないけど、あたしはあんたさえいれば何も要らないのに。……ああ、そうだ結婚式だ。妹から折れてくるのがふつうなのに。あの子はいつもそうだ。わがままばかり言って、結局いちばんいいところを取ってしまう。三人姉妹のいちばん上って老けるのが早いんじゃないかしら。そう言えば最近どうも調子が悪いような気がする。
だめだめ、まだ輪子は高校生だ、まだ十年は死ねない。あの人だって、あたしがいないとロープが切れたアドバルーンみたいになってしまう。……いくらなんでも招待しないってことはないでしょうね。そんなことしたら、親戚じゃなくなっちゃうわよ。
達子もこんな時、ちょっとは気を利かせて仲直りの段取りでもつけられないのかしら。あそこは夫婦そろって、ぽけーとしてて役に立たないんだから。あたしたちのケンカでもどっちかの味方についてるだけなのよね。自分のところの二人は片付けちゃったから平気なんだわ。
何よこれ。光子が今困ってて、次は輪子の時にあたしが困るわけ? なんか光子に教えてやりたいわね。……え? 何? 洗濯物畳みながらぶつぶつ言うと気持ち悪いって? うるさいわねえ、輪子。元々あんたが蒔いた種じゃないのさ。
この三姉妹の第二次紛争を我々の主人公がどう見ていたかと言うと、アホくさいの一言であった。輪子の言い草が気に食わなければ叱ればいい。言い返されるに決まっているが、それに反論できないから内攻しただけのことだろう。つまり輪子より頭の回転が遅いだけのことだ。若い連中より回転が遅いのは、年だからあきらめるしかない。
結婚式? 呼ばれれば行く、呼ばれなければ行かない。自分が新郎新婦でもないのにやきもきする奴の気が知れない。たとえ親が急病で欠席したって式は滞りなく挙げられる。親はなくとも子は嫁ぐ。それだけのことだ。みんなに祝ってもらってなんてふやけたことを考えているから、よけいなことばかり考えて、神経が苛立つんだ。
そんなふうに三姉妹の確執を歯牙にも掛けずに、彼はレクイエムのことを考えていた。正月の決心や鳥海童に期待されていることが関係したのかしないのか、いずれにしても『怒りの日』の残りの部分に手を付けることにした。
第十二節から第十六節までを三管編成ながら渋めのオーケストレーションで、バスとソプラノの二重唱とし、第十三節をこの部分の頂点としてリフレインさせた。第十七節以降はうって変わって、地鳴りのような低音部に支えられた合唱にコンピュータ・ミュージックをかぶせた。特に第十八節の『涙の日』では、涙がしたたり落ちる様子をコンピュータのピコピコという音で表現した。インベーダー・ゲームの音が耳に残っていたからなのか、単にYMOが流行っていたから借用しただけなのか、その理由はわからない。
この部分を作曲しながら全体のまとめ方に一つのアイディアが浮かんだ。『怒りの日』を頂点として、前後のオーケストレーションを徐々に薄くしていくのである。『イントロイトゥス』の弦楽パートのみから始まって、『キリエ』がほぼ二管編成と打楽器、『怒りの日』で三管編成とオルガン、更にロックバンド、ブラスバンド、コンピュータ・サウンドが加わるという費用面を無視したような大編成になる。
『オフェルトリウム』は通常の三管編成、『サンクトゥス』は二管編成、『アニュス・デイ』は各パート一人ずつの弦とオルガンによる通奏低音、最後の『コンムニオ』はいわゆるアカペラで、器楽伴奏はない。後半はハイドンの『告別』シンフォニーに倣った形になっている。そう、このレクイエムは様々な意味での告別であるのだ。
いずれにしても、『アニュス・デイ』を残すのみとなった。歌詞自体は単純で作曲の方針も決まっていたので、勢いで書けそうな気がしたのだが、シュッツふうというのがいけなかった。あのシュッツである。レクイエム全体のモチーフというだけでなく、彼の低く厳しい声を聴きながら作曲するのは並大抵のことではなかった。一か月ほど油汗を流して頑張ってみたが、ワン・フレーズも書けずに撤退した。
そうなったら仕事に精を出せばいいものを何を考えたのか、いつものことながら突然、登山を始めた。登山靴、ウールの靴下、ザック、ニッカボッカ、コッヘル、バーナー等々を買い揃え、足慣らしと称して近くの山に登り始めた。栄子や輪子、欽二も誘ったが、いやまたそのうちにとか言って尻込みするので、独りで朝早く出かけて行く。
梅雨明けを待っていたように、八月に入ると「富士山を見に行く」とだけ言って、夜行列車に乗って、とうとう八ヶ岳に登り始めた。富士山を見るなら、もっと手頃で近い低山があると思うが、我々としてもこの男の考えることは、理解しがたいことが多々あるのでやむをえない。ともかくにわか仕立てでは赤岳(だろうと思うが)の頂上までたどり着くわけもなく、富士山がよく見えるコル(山の出っ張りのことである)の上で、もういいやと休憩し、十分ほど風景を楽しんだらさっさと清里の方へ降りてしまった。
それで……それで、次は富士山とか、穂高とかに登ってみるとかいうなら話も進めやすいのであるが、我々の主人公はぱたっと山登りをやめてしまったのだった。飽きっぽいのである、長続きしないのである、根気というものと無縁なのである。再びそれで、例の『アニュス・デイ』の着想を得たというのなら、この男をほめていいのかもしれないが、そういうわけでもなさそうなのである。困ってしまうのである。
これでは我々の知性が疑われてしまう。物語のストーリー展開とか、プロットとかをもう少し考えて行動してもらいたいものである。こんな男を主人公にした我々の側に落ち度があるのだろうか。しかし、今さら(そう、この物語もとっくに半ばを過ぎているのである)、彼を見放すわけにもいかない。ただ一つだけ登山に関して欽二と交わした会話があるので、それを紹介しよう。八ヶ岳から帰った後、暑い最中ではあったが、焼き鳥屋で何十串と食べた時のものである。
「それでなんで山登りなんか始めたんだ? しんどいだけだろうに」
「まあ、最初は特につらいが、一時間ほど歩いていれば汗も引いて、それほどでもなくなってくる。……身体を動かさないとわからないこと、山へ行って初めてわかることもあるからな」
「ふうん、そういうもんかね。……どんなことだ?」
「やおよろずの神ってのは感覚的真実だなってことだ。実感としてよくわかるってことだ」
「なんだそれ? 商売の神様とか、貧乏神とか、そういうのか?」
宇八は手羽先をしゃぶりながら言う。
「はは。そこまではわからんが、山岳信仰とか、巨木信仰ならよくわかるということだ。けやきの巨木なんかに手を触れていると、本当に尊敬したくなるぜ。……おれには個人崇拝なのか、偶像崇拝なのか、よくわからんような抽象的な一神教より、よほどよくわかるってことさ。あれは言葉にこだわりすぎてる。初めに言葉ありきなんて、初めに過ちありきだ」
「ふーん、そんなもんかね」
「修験者は頂に憧れ、あそこには神や仏が住むと思ったんだろうな」
「神と仏は違うんじゃないのか?」
仲林欽二は言ってから言わなきゃよかったと泡の消えたビールをすすりながら思う。
「どこが違うんだ?」
「ええっと。神は神社で、仏は寺じゃないのか」
「寺の中に祠があったりするぞ」
「その方が一度に参れて便利だとか……」
もうしどろもどろである。
「うん。そんなところかもしれん。つまり神と仏は共存可能、戦争を仕掛けるような関係じゃないんだ。少なくともこの日本ではな。それを変に蔑んだり、近代化しなきゃいかんという連中はヨーロッパの歴史すら知らない」
「そういうのは、おまえがさっき言った一神教的な考えから来てるんじゃないのか?」
「古代ギリシャや古代ローマは違うぜ。ローマ帝国は西アジア的なユダヤ教のキリスト分派に侵蝕されたんだ」
ふふんと鼻で笑う。誰に向かってかはよくわからないが、焼き鳥屋でこういう表情をして、鬱憤を晴らしている中年男はめずらしくないだろう。
彼だけを追いかけていると、どうもロクなことがないので、三姉妹間の紛争に戻ろう。さあ、九月になってしまった。菫の結婚式の十月十日までもう一か月しかない。鳥海家から招待状は全部発送した(返事も来始めている)、羽部家を除いては。どうしよう、どうしたらいいのか、夏の間、なんとなく先のことだと先送りしていたのが、九月になったとたんに薫も光子も焦ってしまい、何がなんだかわからなくなってしまった。
達子に相談しても一緒になっておろおろするばかりで、なんの役にも立たない。ほとほと困ってしまい、ただでさえ式の準備の雑事で神経質になっている菫に話を持ち込み、
「いい加減にしてよ」と泣かれてしまう有り様である。
親の権威台無し、面目丸つぶれといったところであるが、そんなことに気付くような鳥海夫婦ではないのが救いと言えようか。その様子を見ていた童が夏休みが終わって下宿に帰る際に、菫に何やら入れ知恵した。
「だって、そんなんじゃ」
「いや、だからそれでいいんだ。大丈夫」などと二言三言、やり取りをしたあと、菫も納得したらしい。
ちょうどひと月前になって、まだ両親が解決できないのを見て、夕食後、菫は次のように両親に言い渡した。
「結婚式はあたしと彼の結婚式よ。当たり前だけど。両家のなんて言わないでね。あたしがいなけりゃ、あっちだってうちと関係なんてない。……あたしは栄子伯母さんと宇八伯父さんに来て欲しいの。だから、二人を呼ぶわ。パパとママが嫌だって言うなら、その分あたしの友だちを減らせばいいでしょ? じゃあ今から伯母さんちに電話するから、いいわね?」
この娘の宣言にパパとママはあっけに取られるとともに、光子は希望の光のようにも思った。
「まあ、待て、落ち着け。おまえの気持ちはよくわかった。あとはおとなに任せておけ。明日おれから電話する。……」
「明日じゃ、絶対ダメ。あたしが今電話する」
「何を興奮しているんだ。今一体何時だと……」
薫はこういう時の常としておろおろしている。
「まだ八時半よ。興奮しているのはどっちよ」
ここ何日かあまり寝ておらず、早くも目を泣き腫らした光子が叫ぶように言った。
「わかった、わかったから、もうやめて。ママが電話するから」
受話器に取り付いた光子がぶるぶる震える指で一、二回間違いながらダイアルした。薫は妻の様子を渋面を作って見ていた。その表情とはうらはらに、自分が気恥ずかしいことをしなくてすんだことで内心では安堵していたのだが。菫は、あいつさすがにあたしの弟だけのことはあるわと思っている。
それからはいつもの仲直りの図である。お互い電話を待ちに待っていたのである。まあ、日本語でなくてもいいくらいなんである。電話口の両方で、わあわあ泣いて、それでわかり合えるのだ、人の親だから、姉妹だから(同じ理由で仲違いしたのだが)。
もちろん席は用意されているのだ、輪子の分まで。おまけに光子が達子に電話して(涙まじりの照れ笑いといった会話である)、三家族で仲直りの食事会までがセットされた。結婚式まであと三週間だというのに。
忙しい菫や下宿から二時間かけて出て来いと言われた童などは、いい迷惑である。
「あんたが蒔いたタネなんだから」と姉に言われてしまい、童もそういう考え方もあるのかと思い、渋々ながら出席した。
そういう意味では、宇八もとばっちりを食った口である。自覚というものがない連中と付き合うのはこれだから疲れると思いながらも、うまいものが食えるならと我慢していたのだが、なぜかインド料理店でということになっていた。
これも神の配剤だとしたら、どの方面の神の業であろうか。たぶん、結婚式はフランス料理だからそれ以外でと栄子が思っていたところに、輪子が「カレーが食べたい」と言ったとか、そういった程度の話であろう。
まあそういうわけで、三家族、総勢十人(片山家の二人の娘は既に嫁いでいるから、さすがに参加しなかった)が妙なるシタールの流れる店に集合した。これは幸いであった、少なくとも宇八にとっては。どうせ三姉妹と薫、攻治がああだ、こうだと再びこじれない程度に済んだ話をほじくってみせるのである。達子の夫の幸三は、無口なタチで、せいぜい独り言でぶつぶつ言うくらいであり、稀によくわからない理由で激昂したりすることはあるが、みんな飲みすぎたんだろうですませてしまう。
真の原因と真の解決要因は全く言及されないが故に、ムダ話である。そういうことが本能的にわかっている鳥海家の姉弟は曖昧な顔をして、タンドリー・チキンを食っている。ところが、無限に続くシタールと強烈なスパイスの香りと赤や金のきらびやかな装飾のお蔭で、おしゃべりな三姉妹と二人の夫たちの調子が出ないのである。
直接の原因が自分にあると反省している輪子は、いつにもまして黙っている。そういう雰囲気の中で、他人のことならわりと見えても、自分というものをはっきりととらえられずに要領よくやるということができない童は、次のような場違いな、いつもながらの質問を伯父に投げかけてしまった。
「伯父さん、カフカ好き? 最近また読んでるんだけど、なかなか進まなくて」
「相変わらず、小難しいことを考えているんだな。……あいにくおれにはカフカの長編は読めないんだ。短編とかはものすごくおもしろいし、ものの本を読むと長編でどえらいことをやらかしたってことはわかるんだが、どうにも読み始めるとすぐに眠っちまうんだ。いくら寝だめして、気合を入れても、読み始めると目の前に茶色っぽいもやがかかったようになって」
大きめにちぎったナンをコルマ・カレーに突っ込みながら言葉を続ける。
「だから、これは向こう側の問題だと思うことにしたんだ。おれに言わせると小説ってのは、自分に起こった悲劇を喜劇化する作業なんだが、そういうのとカフカの長編は違う。それで、惜しくもあるが、もう読まないんだ。どうせ本人が焼いてくれって言ったもんだしさ。他人が読んじゃいけないんだ」
そう一方的に宇八がまくし立てるように言って、口を閉ざしてしまうと、言われた童も周りのみんなもキョトンとしてしまう。宇八としてはこれ以上言うべきことは全くないのだが、そんなことはわからないし、言うべきことはなくても続けるのが会話というものである。童ちゃんが小むずかしい話題を持ち出すから、宇八伯父さんの機嫌が悪くなったんだろうと思い、そんな目配せをし合う。……
こういうふうに何か盛り上がらず、少しぎくしゃくした感じを残したまま、口の中がヒリヒリした十人の男女はそれぞれの家に帰って行った。……まあ、その方がいいのである。この三姉妹は適正な距離を保つというのが不得手であり、近づき過ぎると反発してしまうのだから。他の時ならともかく結婚式は間近なのだから。
菫の結婚式当日は、いつも通りだった。宴たけなわの頃、正一がまた酔っ払って、新婦に向かって大きな声で、
「あんなことがあったのに立派に結婚できて……」とかなんとか言ったが。
いや、大したことはない。晃や稔や昭三があわてて抑えにかかり、新婦の片頬がややひきつり、両親が下を向き、(自分のことは忘れたらしい)攻治がにやにや周りを見回しただけだった。新郎側にはそんなことがあったことを記憶に留めた者はいなかった。
SANCTUS
Sanctus, Sanctus, Sanctus Dominus Deus Sabaoth.
Pleni sunt coeli et terra gloria tua.
Hosanna in excelsis.
Benedictus qui venit in nomine Domini.
Hosanna in excelsis.
サンクトゥス
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな主、万軍の王。
主の栄光は天上と地上に満ちあふれる。
高みの極みにおいて、ホザンナ。
祝福あれ、主の名前により来られた方よ。
高みの極みにおいて、ホザンナ。