表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ジャパンレクイエム:Requiem Japonica  作者: 夢のもつれ
7/11

6.二人の美女へのお賽銭~OFFERTORIUM

≪1978年≫


 正月の親戚の連中による試奏が成功したのに宇八は気を良くして、その後も順調にスコアにする作業を進めた。ひとまず「入祭唱:INTROITUS」、「キリエ:KYRIE」、「怒りの日:DIES IRAE」の前半≪畏れ多い偉大なる王よ:Rex tremendae majestatis≫までと、「サンクトゥス:SANCTUS」については完成したので、二月の終わりのミサに出て、ルーカス神父に見せることにした。


 栄子について行ったから、宇八も仕方なく最初から参列して舟を漕いでいたが、途中から右の後ろの方でなんとなく春めいた靄のようなものが立ち上っているのに気づいた。ミサが終わるやいなや振り向くと、時木茉莉によく似ているが、明らかに違う艶めいた雰囲気の娘である。あの夏の夜のことが夢だとしても、これは現実の時木百合だと直感が告げている。


 おあつらえ向きに向こうから、

「羽部さんですね。あの、妹がお世話になっておりますようで」と婉然と微笑む。


 柳の枝が揺れるような身のこなし、甘えたような言葉遣い、目元にわずかにかぶさった前髪、少し開いた口元、ストッキング越しでもなめらかさがわかるような脚等々、教会で見るには罪作りな色気を四方八方に撒き散らしている。


 栄子が袖を引くのもかまわず、レクイエムのことなどすっかり忘れてふらふらと百合の後を追うと、彼女は神父に対し下から見上げるようして、


「あの神父様、いくつかお尋ねしてもよろしいでしょうか?」と訊く。


 厳寒の候なので頑健な神父も急な風邪を引いたのか、二、三回咳をしてから、百合の質問に丁寧なのか、素っ気ないのかわからないような答え方をする。それを我々の主人公は、妻子には見せてはいけないようなぼおっとした表情で見ている。


 ルーカス神父がもう一度咳払いをして、「さて、羽部さんもわたしに何か?」と訊いたので、栄子があわてて、


「いえ、夫が何か見せたいと申しておりまして」と答えた。


 それでやっと目が覚めたような表情になった宇八は、小脇に抱えたスコアを説教壇に広げて、説明を始めた。神父も内容はともかく、善き信者の善き行いであるから熱心に聴く。宇八としては百合の前でいいところを見せようと思っていたのに、あにはからんや、むずかしそうな話ですねといった表情を浮かべて、睫毛の影を見せるような目礼をして去ってしまった。


 では、神父がスコアに目を通している間に、宇八のレクイエムの内容をざっと紹介しよう。このレクイエムは、シュッツの『音楽のお葬式』にヒントを得ながら、レクイエムの歴史を現代から過去へ遡っていくような構成を取っている。


 冒頭の『入祭唱』はドイツ語音名で、HABE D/HABE G/HABE H、ドレミで言うとシ・ラ・シ♭・ミ  レ/シ・ラ・シ♭・ミ ソ/シ・ラ・シ♭・ミ シという主題を持っている。これは、”Ich HABE Dich. Ich HABE Gott. Ich HABE Herr.”(わたしにはあなたがいる、神がいる、主がいる)を表しながら、最終音が徐々に高くなるのにつれて、あなたが神であり、主であるというふうに次第に信仰が強固になっていくのを示している。もちろんルーカス神父が羽部という苗字について行った指摘がこのいささか図々しい主題を導き出したのであった。


 この全曲を貫く基本音型の展開とアンサンブルには、武満徹の『弦楽のためのレクイエム』のイディオムが借用されている。したがって、声楽は入らずに武満のように言葉でつなぎとめられないイメージを繰り広げていかなくてはならない。ただグレゴリオ聖歌の『入祭唱』の旋律が切れぎれにヴィオラとチェロといった内声部で奏でられ、これに合唱が『言葉にならないかすかな声を重ねる』とスコアに注記されている。


 次の『キリエ』は、一転してショスタコーヴィチの交響曲第十四番『死者の歌』に依拠した、黒々とした死への恐怖と引きつったようなユーモアの漂うものになっている。『キリエ』の伝統的なスタイルにより、弦、木管を従えた合唱を中心に進むフーガを、金管の奏でるHABE Dの音型が打楽器とともに鋭く三回断ち切る。


 ここでは「あなた」は決して神や主に昇華しはしない。唯一無二の存在は感じられているものの、それが神や主であると言明されたとたんに嘘臭くなる。信仰の土台となる共同体がもはや存在しないのである。編成はおおむね二管編成だが、木管にはバスクラリネットが追加され、打楽器はティンパニにマリンバと三回目には鐘(ただしひび割れたものと注記されている)が加えられている。良し悪しはともかく否定神学的傾向が最も顕著なセクションである。


 三番目の『怒りの日』の前半はヴェルディふうというか、アフリカ象の群れが暴れまわるような大音響を更にハードロックで味付けしたという破天荒な代物である。三管編成のフルオーケストラとオルガンの盛大なトゥッティで始まり、途中でエレキギター、エレキベース、ドラムスとヴォーカルのロックバンドに交代し、オーケストラでは不可能なキレとノリのいいビートとリズムを刻む。


 いやはや『ギターがヘヴィメタルなアドリブを撒き散らしながら、リードヴォーカルがヨハネの黙示録から自ら好みの一節を四声部の合唱が歌う典礼文を叩き潰すようにシャウトする』といった書き込みすらある。


 第三節の”Tuba mirium”(不思議なラッパ)の個所では、別に用意されたブラスバンドが活躍し、『酔っ払いのマーチ』というどんちゃん騒ぎを始める。しかし、それは『生ける死体が墓へと帰る』というグロテスクな幻想を伴ったものなのである。


 後半の第九節"Recordare Jesu pie"(慈悲深きイエスよ、思い出してください))以降はどうしても筆が進まず、センチメンタリズムを無理に押し隠した厳格なイメージのブラームスふうでとしか考えていなかった。


 この後の『サンクトゥス』はモーツァルトの『フィガロの結婚』や『コジ・ファン・トゥッテ』の重唱を真似て、陽気で、機知に富み、しかも各人の性格がくっきりと浮かび上がる四重唱を目指したものになっている。四人のソリストが代わるがわるラテン語典礼文を歌うのだが、時にさっと転調して一人が” Ich habe ……”とドイツ語で歌いだそうとすると、他の三人が驚いたり、たしなめたり、皮肉ったりといった多様な表情を見せる。


 オーケストラも二管編成の小規模なものに再び縮小されている。全曲の構成としても登場する楽器や合唱は『怒りの日』を頂点に両側は次第に少なくなるというシンメトリーを基本にしている。曲の終わりに向かって盛り上がっていくというのは、十九世紀前後だけ流行した時代遅れの美学であり、レクイエムにはふさわしくないと宇八は考えていたのだった。


 ちなみにモーツァルトのレクイエムは、『怒りの日』の途中で彼自身の筆は止まっており、『サンクトゥス』以降の部分で、ふつう我々が聴くものは夫の遺作を完成させようとしたコンスタンツェの依頼を受けて、弟子のジュスマイヤーが作曲したものである。このため、モーツァルト自身が筆を執った部分とはるかに才能が見劣りするジュスマイヤーが手掛けた部分とを厳密に分けるべきだといった論争が学者などによって行われているし、様々な学説に基づいた演奏もある。


 ただこれに関する我々の主人公の考えは、単純かつ伝統的なものであり、ジュスマイヤーの補作をそのまま受け入れるという立場であった。その理由は、ジュスマイヤーの魂も彼の愛した先生と同じところに葬っておいてあげたいからということだった。


 神父がところどころ楽譜に手を触れて口ずさむようにしながら、大体目を通したのを見て、まだ書いていないところについて早口で説明した。神父は多くを語らないが、音楽的素養があるようだ。


「次の『アニュス・デイ』は、かなり時代が飛んじゃうんですが、シュッツ流に、大理石の彫像なのに肌のぬくもりが感じられるようなあの感じが出せればいいなと。最後の『コンムニオ』はヴィクトリアの生命感、若木がみるみる大木に伸びていくような力で始まって、その熱が徐々に冷めてグレゴリオ聖歌ふうの純正律の響きの中で、HABEの音型だけが残り、消えていくっていう仕掛けで考えてるんですがね」

「とてもおもしろいです。すばらしいです。すぐにも上演したい、耳で聴いてみたいですね。……ただカトリックの神父の立場からは……」

「ああ、わかってますよ。『怒りの日』はもう演奏されないんですよね。実際のミサに使うんならカットすりゃあいいんです」


 第二ヴァチカン公会議はラテン語の原則廃止とともに、『怒りの日』のような『続唱』を典礼書から削除する決定をくだした。憶測するところ、『怒りの日』の中の黙示録的な内容、恐怖や神秘で人を信仰に引き込もうとするような内容が、ローマ・カトリックの現代化の流れにそぐわないからだろう。


 しかし、モーツァルト、ベルリオーズ、ヴェルディを始めとする、多くのレクイエムの傑作、名作において『怒りの日』が中心的位置を占めていることから言うと、この決定がよかったとはなかなか言えないのである。どちらかというと、こういうローマ・カトリックの変容について、我々としては“脱魔術化”とか“官僚制の進行”という面からマックス・ヴェーバーにでも分析してもらいたい気分である。


 ただルーカス神父が言いたかったのは、別の点であった。


「いえ、それはいいのですが、ミサではオッフェルトリウム、奉献唱がとても重要なのです。これをぜひ作曲していただきたいと」

「はあ、そうですか。いや、これは大事かなという気がしないでもなかったんだが、意味合いがよくわからないんで」

「ここまでで言葉の礼拝が終わって、ここから感謝の儀式になりますが、この中に神との約束、契約が語られているのです。この『アブラハムとその子孫に約束された』という……」

「なるほど”promisisti”か。だから繰り返されているのか。アブさんの子孫なんかになった覚えはないが、まあでもお蔭でよくわかりましたぜ。……だが何をモチーフにしようかなあ。ブラームスとモーツァルトの間か。ベルリオーズは流れに合わないし、『ディアベリ変奏曲』のベートーヴェンはレクイエムを書いていないし」

「シューマンはどうですか? 雨の日の新緑、そういう感じがしませんか? 彼のレクイエムは」

「そうですか、そんな感じですか。やってみましょう」

「わたし、羽部さんのこの作品、とてもいいと思います。でもとても大規模で……演奏するのに準備も大変です。たくさんおカネもかかります。いろんな人の助け必要です。……わたし時々東京へ行って聖書を読む会に参加しています。その人たち、助けてもらえるでしょう。この作品をお見せしていいでしょうか」


 コピーを取ってきますと言って奥へ入って行った。宇八は栄子をにやにや見ながら、


「どうだ、おまえと違って、わかる人にはわかるだろ? とんとん拍子に演奏ってなもんだ」と言うと栄子は、


「あたしは別に反対なんかしてないわよ。生活のことも少しは考えてって言ってるだけよ。いくらいいものでもかえっておカネがかかるようじゃあ……」と応じた。


 宇八はうきうきした気分を害されたので、うるさそうに手を振って相手にしない。気まずいような沈黙がかなり長く続いて、神父が、


「お待たせしました。コピー機とても調子悪いのです」と言って現われると、宇八は、


「じゃあ、完成を急ぎましょう」と言うと、栄子が丁寧にあいさつするのをおいて、さっさと教会を出た。


 頬を冷たく切るような寒風の中をアパートに戻ると、仲林欽二が勝手に上がりこんで、ストーブにあたっている。


「やあ、お帰り。部屋暖めておいたぜ」


 宇八は欽二の表情に、おやと思ったが、それには触れずいつもの調子で応えた。


「人の家のストーブを勝手に使って暖めておいたもないもんだ。……それより現われたぜ、時木百合が、教会に。色っぽいぜ」


 そう聞くと、欽二はくるりと九十度回って、宇八に向き直って、


「教会は豆まきしないのか?来週節分だろ?」とわけのわからないことを言いだすので、さすがにあきれて、遅れて帰って来た輪子に、


「おい、このおじさんは神父さんが『鬼は外、福は内』ってやると思ってるぞ」と笑いながら言った。

 羽部家では輪子が小学校を卒業する前から豆まきはしなくなっていた。


「で、今日はなんの用だ?」

「何ってこともないが。……」

「もうけ話か?」

「それもないことはないが」

「ふうん。……あれか? また狙われているのか?」


 欽二は目を上げて答える。


「……いや、まあそういうことかな。どうしてかはわからんが」

「この部屋の中でもそうなのか? どの辺りが狙われているんだ?」


 のんびりした調子で、しかし嘲笑するような様子はなく訊く。


「この辺りかな」と言って、左のこめかみの後ろを指で突いて見せる。


「だって、そんなの本当だったら頭は始終動いてるから別のところに当たるんじゃないのか?」

「現実はそうかもしれんが」

「じゃあ、妄想に過ぎんだろ?」

「それだけか? ……おまえみたいに割り切れればいいよな。だが、おれを狙ってる目は、はっきり見えるんだ」

「もう三十年以上経つのにな」


 そのあとの言葉を宇八は飲み込んだ。その狙撃兵だって今はいい年になって目だってしょぼしょぼさせているだろうという軽口だったが、それを言えば欽二は死んだ奴は年を取らないと言うだろう。その狙撃兵が生きているか、死んでいるか知らないのに。


 その自分の言葉で、欽二は狙撃兵のことなんかではなく、もっと多くの、夥しいと言ってもいいような死体が狙撃兵の幻想を見させていることをはっきり知ってしまうだろう、そしてそのことを宇八に口外してしまったことに気づくだろう。……そこまで一瞬にして考えたわけではないが、言葉を飲み込んだ理由をたどっていくとそういうことになる。その程度のことがすぐに「見えてしまう」のは、この主人公にとってはふつうなのだった。


 輪子が台所で昼食に炒めていたものを持って来る。


「お、ピラフか、おまえいいタイミングで来たな」

「輪子ちゃんのお手製か、ありがと。……おい、ピラフって、炒飯とは違うんだよな?」

「違うよ。決まってるじゃないか」

「どう違うんだ?」

「輪子が作るとピラフ、女房が作ると炒飯さ」


 ピラフをスプーンで頬張りながら答える。


「それだけか? そんなのでいいのか?」

「それ以外にあるかよ。味わかんなくなるだろ、そんなに考えると。……それよりもったいぶらずに教えろよ、もう一つの話。もうけ話」


 仲林があまり乗り気でない様子でしゃべり始めた内容は、次のようなものだった。ニューギニアだか、インドネシアだかに変わった種類のトカゲがいる。これをペットとして輸入して一儲けしようという話を知り合いのブローカーが持ち込んで来た。自分は仕入れや小売店のあやし方ならわかるが、生き物のことなんててんで見当がつかない。知り合いに変わった奴がいるから、そういう変わったトカゲのこともわかるかもしれない、そういうふうにその男には答えた。


「変わった奴とはごあいさつだな。それでそのトカゲはどう変わっているんだ?」

「トカゲの首ってどこだかよくわからんが、その辺に大きな膜みたいなのがあって、興奮したりするとそれを広げて、後ろ足だけで立って走るんだそうだ」

「それだけか?」

「ああ。……やっぱりダメか?」

「よくわからん。……おれは爬虫類のことはよくわからんな。ああいう目をした奴の考えはどうも理解できん」

「別にトカゲの考えがわからなくても商売はできると思うが」

「それが素人の浅はかさ、凡人の悲しさだ。だいいち周りの温度で体温が変化するんだぞ。想像できるか?」

「寒いと動きたくないってことならわかるぞ。暑すぎてもそうなるが」


 欽二が残りのピラフをスプーンですくうのに苦労しながら言うと、とうに食べ終わっている宇八が水を飲みながら、話にケリをつけるように言った。


「まあ、その程度わかれば十分なのかもしれん。おまえがやるなら乗るぞ」

「うーん。おれもおまえがいつもの調子でやるぞって言えば乗ろうと思っていたんだが」

「おれが本気のときは、止めにかかってくるくせに。……まあいいさ、二人とも冷静ならうまくいくんじゃないか」

「そうだな、いつでも引き返せそうだな」


 そういうピラフを食べながらの話し合いで、この後一年あまり二人が散々苦労するタネが蒔かれてしまった。ついでに申し上げておくと、例のトカゲのブームはこの物語の終わりの時期より更に後、一九八六年のことなので、『二人の友人が協力して成功することはない』というラテン語の格言のような事態が繰り返されることになる。おまけに時木百合をお目当てに、次の日曜のミサに二人とも参列し、話を詰めようということにしたのだが、こんな物欲と色欲の二股膏薬でミサに出るのは、神を畏れざる行いであると力説しておきたい。


 翌週の日曜日は朝から粉雪がちらつくほどの寒い一日だったが、ミサに参列した二人のにわか信者は、白いハイネックのセーターを着た百合の姿を見た時、同時に「神様のお導き」という言葉を思い浮かべていた。ルーカス神父の言葉など聴いていなくても、斜め後ろから彼女の姿を見ながら、「本当に百合のようだ」などとあらぬことを鼻をうごめかせながら考えているだけで、眠気に襲われる心配はなかった。


 ミサが終わって、またもや百合が神父のところへ行くのを二頭のミツバチのように追いかける。栄子など造花か絵に描いた花のように眼中にない。とはいえ、百合と神父の会話も耳に入っていない。二人とも百合に見とれているだけで、彼女が何を訊いているのかよくわからないのだ。百合の質問に答え終わった神父から、

「羽部さん、すみません。まだ東京へ行っていないのです」と言葉とともにじっと顔を見つめられて、初めて目が覚めたような顔になった。神父は言葉を続けた。


「あの、このあいだの『オフェルトリウム』について申し上げたいことがありまして、いえ何か導かれるようにわたしのところへやって来まして。まるで……」

「まあまあ、神父さん、落ち着いて」


 そう宇八が鷹揚に笑った時には、百合は香りだけ残して去って行った。


「ああ、すみません。そう『オフェルトリウム』です。これは、offertory、捧げ物なんです。讃美のいけにえと祈りをわたくしどもが主に捧げるのです、ここで」

「ふむ。まあ牛とか羊とかを殺して捧げるようなものですな、元々は。お賽銭てな意味もありますか」

「そうです。もちろん今はいけにえなど捧げたりはしませんが。もう一つは、『信者のすべての魂を深い淵から救い出す』という。ジョスカン・デプレ、いえ違いました。シャルパンティエのレクイエムには『深い淵から』という曲があるのです」


 息せき切ったように語り、テキストのコピーを出して見せる。


「この『主よ、わたしは深い淵からあなたに呼びかけます』、すばらしい言葉、すばらしい音楽です。それからここです。『わたしの魂はお言葉に従い、わたしの魂は主に望みを』……」


 神父は感極まったのか、黒縁の小さなメガネを外して眼をこすった。宇八は神父の視線を避けるように呟いた。


「……なるほど、これは重い宿題のようですな。この『オフェルトリウム』は我々にとって、複雑な性格を持つことになりそうだ」


 神父との話が終わって教会の外に出ると、欽二が寒そうに立っている。

「遅いじゃないか、凍えちゃったよ」

「なんで、外にいるんだ?」

「おまえさんがむずかしそうな話をしているから、百合さんが帰っちゃっただろ? 見送るつもりで外に出たんだ。よかったぜ、おれとは初対面なのに『妹から伺ってますわ。ではご機嫌よろしゅう』なんてさ。それをずうっと見てたんだ」

「じゃあ、おまえの勝手じゃないか」


 そう言いながら、欽二の無邪気な様子を見て、先週言っていた感覚は消えたのかなと思う。


「まあ、そう言うなって。どうする? 鍋焼きうどんでも食いに行くか?」

「いいね。……おまえら、もう帰るのか?」


 傍らの妻子を見遣ると、二人とも肯く。


「じゃあ、行ってくるから。遅くなるかも知れん、仕事の話だから」


 電車で一駅行った少し下卑た感じのターミナルの近くの、欽二によれば小汚い店だがわりとうまいという大衆食堂で、鍋焼きうどんをはふはふ食いながら、トカゲ・ビジネスの今後について検討を行った。その結果、確認できたことの第一は資金不足という厳粛な事実であった。カネがない。原因や理由、経緯、説明、そんなものをいくら積み上げても虚しい。身体は温まったが、ふところは両名とも寒いのである。


 カモだか、カネづるだか、鍋焼きうどんにちょこっと入っている鶏肉なんかよりもっとヴォリュームのある獲物を捕まえる必要がある。これが確認事項の二である。どこにいる? 心当たりなどない。銀行、信用金庫、金貸し、取引先、そうした連中がこの二人の話に耳を傾けるはずはない。


 この十年(いや十五年かもしれないが)、二人は彼らをそのようにしつけてきたと言って差し支えなかろう。以上の確認事項が導き出す結論は新たな、すなわち当てのないカモを発見すべしということであった。


 なんとムダのない、実り多い会議だろう。世の中の会議すべての手本と言ってよかろう。これ以上、話をしていても意味がないことが理解されるやさっさと別れた。ただ宇八は、駅前のパチンコ屋に独りで入り、五千円少々をすってから帰宅した。まあ、仕事の話らしく見せるための必要経費であり、こんなところで幸運を安く使い果たさずによかったという考え方を我らが主人公は常に取るのであった。


 ところが、思わぬところから救いの手は差し伸べられるものであった。以前にも同じような言い回しをしたかも知れないが、単なる偶然である。二週間後のミサの後で、宇八が百合の顔を見るのが半分、煮詰まった状態の『オフェルトリウム』について神父と議論したいのが半分で、説教壇の近くで待っていると、欽二が袖を引っ張って、


「おい、探したか? 見つかったか?」と訊く。


 宇八は(カモノハシならともかく)カモ探しは、もとより欽二の分担と心得ていて、最近していたことと言えばせいぜい『オフェルトリウム』の作曲だけだった。特に女声三人、男声二人の五重唱にしてはどうかと思いつつも、どうもうまくはまらないなどと考えていたので、不意を突かれた格好だった。


「うん、いろいろ当たってみたが、なかなか大口の資金提供となるとな……」


 慌てる様子など毛ほども見せずに答える。


「そうか。やっぱり金融機関はだめだな。コネがあっても、担保、担保って、そればっかりだ」


 ふうん、こいつまじめにやっていたのか、まあ気が小さい方だからなと思いながら、深刻そうな表情で話を合わせていると、時木百合が話にすっと入ってきた。


「どうされたんでしょう? お仕事のお話のようですけど。……いえ、わたしみたいな子どもが口をはさんで申し訳ありません」


 二人とも彼女になら、口でもなんでも挟んで欲しいのである。われ先にと自分たちの窮状とすばらしいアイディアについて並べ立てる。それを百合は婉然たる微笑みで聞いている。話がおおよそ理解されると、


「わたくしの父は時計とか宝石とか、そういった高付加価値の物の輸入や販売をしておりまして。この時計もそうなんですが」と手首を差し延べながら言う。


 その優美な仕草と透きとおるような腕に目が引きつけられて、時計の方に注意が行きにくいが、最近テレビコマーシャルが流れているスイスの高級時計のようだ。宇八は白鳥がネギを背負っている図を思い浮かべた。欽二も同じような顔をしている。


「お父様とお話しがしたいですなあ。ビジネスのパートナーとか、そんな先走ったことではなく、わたしどもの構想についてお時間をいただいて、お聴き願えないかと」


 こういうときには、宇八の方がもっともらしい対応ができる。欽二は、こいつは口はうまいんだが、どうも実際の商売はヘタなんだよなと思う。

 それでは父親に訊いておくので、良ければ会食でもアレンジしましょうと言って、百合が帰ろうとすると、欽二がふと思いついて、


「あの、茉莉さんは最近いらっしゃらないようですが」と訊くと、カシミアのコートに袖を通しながら、


「ええ、少し元気がなくて、家で臥せっておりまして」と答えた。


 冷蔵庫の中のように寒い路上を二人の中年男は、スキップでもしかねないような風情で歩いて行く。宇八はレクイエムのことなんかすっかり忘れている。先ほどの話に聞き耳を立てていた栄子が後ろから欽二に話し掛ける。


「仲林さん、水を差すようで失礼ですが、だいじょうぶでしょうか? 時木さんのお父さんに会って、話をしてしまって……」


 欽二は浮き立っているところにと、内心ではちょっと鬱陶しく感じているが、それは表に出さないで、


「いや、まあいつもと違って、我々もかなり慎重に事を進めてますよ。ご心配かけて申し訳ありませんが」と躱す。宇八はそのやり取りを横目でちらっとだけ見て、無視している。


 彼女は二人に百合などと関わりを持ってほしくないのである。若くて美人だからだという嫉妬の感情だけではない。あの姉妹にはムシが好かないのである。姉の百合は茉莉以上に蛇のようだ。その父親とトカゲの話をするなんて、爬虫類に囲まれているようで気色が悪くて仕方がない。……


 ところが、百合の父親は蛇やトカゲではなく、ライオンだった。時木獅子男(とききししお)という名ばかりでなく、そのいかつい顔、たてがみのようなオールバックの髪、いや何より焼肉でもユッケでもがつがつと食いまくる様は、まさにライオンだった。


 三月上旬の水曜日の夕刻、二人は時木父娘に焼肉屋に招待されたのだ。会うなりいきなり獅子男は店の外まで聞こえそうなよく響く低い声で宣言する。


「まあ、あいさつは後で気の済むまですればいいってことにして、肉を食いましょう。肉を」


 カルビ、骨付きカルビ、ハツ、ロース、タン塩、レバー、シマチョウ、ミノ、ユッケ、生レバー等々の肉に加え、チヂミ、キムチの盛り合わせ、サンチュ、韓国海苔と店員が書き留められないような速さで注文する。まだメニューを見ている父に百合が慣れたふうに、

「クッパや冷麺は後にしましょうね」とたしなめる。


「お客さんが食い足りんようじゃダメだろうが。……羽部さん、三人前ずつで足りますか? 娘はあまり食わんタチなんで」


 あきれた宇八と欽二がこくこくと頷くのを見て、


「ま、冷麺食いながらまた頼みましょう」とさらに度肝を抜くようなことを言う。

 

 熾きた炭火が運ばれ、黒く焦げてゆがんだ網が載せられる。生ビールとキムチが来る。


「冬でもビール、冬こそビールですな」と宇八が言うと、

「おう、良いことを言われる。どんどん飲みなされ。おい、肉はまだか」と応じ、その声に、

「すぐにお持ちいたします、時木様」と飼いならされたような答えが返ってくる。


 あの、まだですか。ちょっと確認してみます。今やっておりますので、もう少々お時間を。……そんな雑炊をぐちゃぐちゃかき回すようなやり取りを最も嫌うのだろうと、宇八は推察し、感心もする。欽二は口をぽかんと開けていた。


 先に来たユッケと生レバーを獅子男は、ご飯を掻き込むように片付けていく。宇八は生玉子をかき混ぜたユッケは好きだが、生レバーはあまり好きではない。欽二はどちらもおそるおそるという感じである。大きなステンレスの皿二つに盛られて出てきた肉を獅子男と宇八で所狭しと網の上に並べる。煙が上がる。炭火にしたたり落ちる脂に炎が上がったりもする。


 タン塩やロースを裏返したかと思う間もなく、獅子男と宇八はピンク色のままどんどん食べていく。カルビやハツはサンチュを巻いて食べ、シマチョウやミノも固く縮こまる前に食べ、骨付きカルビは骨から肉が離れやすいように丁寧に焼かないといけないが、まだ凍ったような状態で出て来たので、焼けるのに時間がかかる。


 百合はゴブレットの小ビールを静かに飲みながら、紫のワンピースから色気だか香気だかを立ち昇らせている。そこだけが焼肉の焼ける匂い、にんにくの匂い、煙とは無縁のようである。……


 宇八が骨付きカルビの骨の周りをガシガシ齧っていると、


「そのなんとかトカゲを何匹輸入するつもりなんですかな?」と獅子男が訊く。


「まずは、二、三匹。これをマスコミに売り込んで評判になるようにするんですわ」


 宇八がその場の思い付きを言うと、チヂミを口に運ぼうとしていた欽二はびっくりしたのをごまかすため、もう一度タレを付ける。


「なるほど、それはうまい手かもしれませんな。とすると輸入する費用よりも、テレビや雑誌の工作費用の方がかかりますな。いい広告代理店と組まないと」

「さすがは時木さん、話が早い。……どうもそっちの方は我々暗いんです」


 暗いのはそっちの方ばかりではないのだが、あくまで自信を秘めつつという態度を変えない。


「いや、わたしもそう詳しいわけでもないが、最近大手の広告代理店に変えてみて、あの世界が見えてきました。いやあの業界も大きな声では言えんが……」


 そう言いながら大声で、大層な口上のわりに陳腐な広告コピー案だとか、クライアントの重役のぼんくら息子だらけで使えるやつはほんの握りだといった悪口雑言の限りを尽くす。しかし、他人の悪口は酒が進む何よりのつまみである。


 ビールだ、韓国焼酎だと杯を重ねる。最初に注文した肉や料理の(欽二が見るところ)四分の三くらいは獅子男と宇八が平らげ、カルビ・クッパと冷麺をそれぞれ追加注文し、おでこがてらてら、顔中真っ赤にして、しきりに握手して、資金提供もOKだということで、すっかり意気投合してしまった。


 ただ、資金の支援が叶い、胸を撫で下ろした欽二が慎ましくタン塩をレモン汁に漬けながら、


「茉莉さんの具合はどうですか?お家で寝ておられるとか」と訊くと、獅子男はおやという顔をして、カルビクッパの中にスプーンを置いてから答えた。


「茉莉にも会われているんですか、お二人は。……まあ、大事はないんですが、外に出るのはもう少しかかるんじゃないかな。なあ、百合」


 百合がまつ毛の影を頬に落としながらかすかに頷いた。


 ご機嫌で外に出て、しばらく行った交差点で時木父娘と別れた。欽二は胃もたれと飲み過ぎで顔色が良くなかったが、うまくいきそうなのはうれしい。獅子男の様子や今後の見通しを交々喋っていたが、宇八が突然立ち止まって、後ろを振り返って妙な顔をしている。


「どうした? 忘れ物か?」

「いや、あの獅子男ってやつはどこか会ったことがあるような気にさせるな」

「どこで会ったんだ?」

「いや。会ってはいない。……しかし、俺たちみたいに人生をそれなり生きてくると、時々似たようなやつに前にも会ったなって思うことがあるだろ?」


 また、歩き出しながら言う。


「そりゃ、我々も長い人生、たくさんの人間に出会っているから、どこか似たところがあるやつはいるんだろうが。……しかし、時木さんみたいなのは滅多にいないぜ」

「そう、滅多にいない。だからこそ、そんな記憶の混濁みたいなことが起こるのか。……いや、振り返って自分を見たからそう思うのか」と酔っているらしいことを言った。


 焼肉屋での興奮覚めやらぬ次の日曜のミサには、百合の姿はなかった。宇八と欽二が拍子抜けしていると、終了後ルーカス神父が歩み寄って来た。


「羽部さんのレクイエムを東京で見せて、わたしがオルガンで少し弾いたらですね、とても評判になりました。植村さんとか、安田さんとかも、あ、テレビで司会のお仕事をされている方です、植村さんは。安田さんは霞が関のお役所の方です。いつもどうしたら教会に来られる方を増やして、キリスト教を日本に根付かせていけるのかって、みなさん熱心に考えてくださっています」


 宇八はめずらしく口を挟まずに頷いている。滅多にない吉報を聞く態度としては正しいだろう。


「こういう曲があればとてもいいきっかけになるっておっしゃって。……ぜひ羽部さんにも会いたいっておっしゃってました」

「そうですか。そうでしょう、うん。どうかね、仲林君、これは我々も近々東京に行ってみないといかんね」


 仲林としてはレクイエムでも、レクリエーションでもなんでもいいのだが、テレビの司会者や霞が関の役人なんていうのはカモの群れのように思える。うれしそうに頷きつつ、


「時木さんの話とうまくつながっていけばいいな」と言うと、

「当然だよ。もうつながっていると言っていいだろう。神父さん、今度上京される時にご一緒させていただきましょう。仲林君も行くかね?」と調子に乗ったついでに旅費を仲林商事に回すつもりで言う。


 仲林はそれは宇八に任せたいと口の中でもぐもぐ言う。


 神父とトカゲの話をしても仕方がないので、宇八は『オフェルトリウム』の構成の話をした。


「最初は五重唱かなと思ってたんですが、どうも最近六重唱なのかなっていう気もしてまして」

「六重唱ですか? テキスト上は四つの部分に分けられるとは思いますが」

「ああそれはわかりますぜ。三行目までと、六行目まで、あとが二行ずつでしょう? 三、三、二、二ですな」


 ポケットからテキストをひどい悪筆で書いた紙を出して見る。


「そうです。内容的にも四行目からの三行、

  彼らが冥府に呑まれることなく、闇に陥ることなく、

  旗手聖ミカエルが彼らを聖なる光に導かれますよう。

  その昔、アブラハムとその子孫に約束されたように。

が一回目の契約で、次の二行が讃美のいけにえと祈り、offertoryで、最後の二行が二回目の契約の言葉、de morte transire ad vitamなんです」

「でしょうな。ただ最初の三行がどういうものなのか、はっきりしませんな。四行目、五行目にはどうもいろんな性格のものがある。……まあ、神父さんからじゃあ言いにくいでしょうから、わたしが言いましょう。地獄の罰だの冥府だの、削られた『怒りの日』と同じような黙示録的、まじない的な要素、これでしょう? この間おっしゃったような魂、深い淵、聖なる光、そういう、ずばりと心に入ってくるものとここで一緒くたになっている。これをどうするんですかね? いや、教会はどうしてくれるんですかね?」


 神父は答えない。ぽんぽんとテクストをつつく宇八の言葉にじっと耳を傾けたままである。


「そう、自分の魂の問題なんだ。自分でケリをつけなくてはね。……ただこうした聖なるものは、まじないみたいなのと、一枚のコインの表と裏じゃないですかね。だから聖なるものって、男と女の色事と同じでそんなに大っぴらに言っちゃあいけない。聖書もポルノみたいに、こそこそ、チラチラ、ほどほどに見た方がいいんじゃあないですか?」


 神父はかすかに微笑みを浮かべながら、やがて静かに言った。


「羽部さん、そろそろお昼ご飯の時間ではないですか? わたしは用事があってご一緒できませんが。……羽部さんの『オフェルトリウム』が出来上がるのを心待ちにしています」


 外に出ると欽二がたまりかねたように宇八に言った。


「あのさあ、神父さんがあんなに親身になってくれてるのに、なんでおまえはケンカ売るみたいなこと言うの? おれも奥さんもハラハラしてたんだぞ」

「何言ってやがる、あれは……」と言い返しかけて言葉を飲み込んだ。


 欽二も栄子も、ひょっとすると輪子も、神父に失礼なことを言ったのを責めているのではなく、そういうことを言った自分のことを本当に心配して、ハラハラしていることがはっきりとわかってしまったからだった。


 そのことは彼を不安にした。こいつらは俺の何を心配してるんだ。いつもの俺じゃないか。俺のことなんかかまわずに、自分のことだけ考えていればいいじゃないか。世の中のことはそれで大抵うまくいくはずなのに。……宇八の困惑をよそにどこか春めいてきた風が吹いている。


 会いたくて仕方がない相手から連絡があると年がいも何もなく、喜んでしまうものである。それほど電話の向こうから百合から連絡があったことを伝える仲林の声は弾んでいた。


 春分の日の前夜にご都合がよろしければまた父がお会いしたいと申している、先日よりもっと具体的詳細に商談として話を進めたい。ついては、いくつか書類もご持参の上、どこそこの中華料理店にご足労願えないか云々といった内容を、欽二は律儀なメッセンジャーとして伝えた。やったな、やったぞと二人とも他愛なく喜び、指折り数えてその日を待つ。


 その日は暖かいような、寒いような天気であった。と言い方をすると我々の知性というか、頭の程度が疑われかねないが、実際に頭の辺りはぽやぽやと暖かいのに、脚の方は冷えるといった奇妙な天候だったということで、ご納得いただきたい。ともかく晴れてはいた。いや別に雨が降ろうが、槍が降ろうが、この二人にはどうでもいいのである。


 欽二などは一時間も前に店に到着し、その豪奢な入り口を見て、


「まるで日光東照宮のようだ」とつぶやいて、周りを下見したりしていた。


 まるで初めてデートする中学生である。窮屈そうに似合わない背広を着ている。我らが主人公はそこまではしない。せいぜいいつもよりヒゲを丹念に剃って、二個所ばかり切り傷を作ってしまったのと……いや、煩わしい言い方はやめて一言で言おう。約束の時間の五時より五分前に時木父娘が現われた時、二人は既に少々お疲れ気味だったと。


 一応向こうが招待したのであるから、食前酒、料理の選択といった七面倒なことは、獅子男に基本的に委ねておけばよいのである。それがわかっている宇八と、わからないでウェイターが脇に来るたびにドキドキしてしまう欽二とでは、更に疲れ方、酔い方に差が出る。獅子男が紹興酒だの茅苔酒だのを(我々も違いはよく知らない)頼むのに、欽二は同調するのに忙しく、宇八は平然とビールを注文する。


 獅子男がここは飲茶が得意で五十種類はできると言って、全種類を最終的には平らげてしまうつもりだが、順番なり、何人前ずつ頼もうかとあれこれ品評するのを欽二はいちいち反応したり、追随したりするが、宇八はウェイターが「翡翠餃子二人前でございますね」と確認するところで、「いや、三人前だ」と口を挟んで自分の分を確保するだけですませる。


 それよりは今夜の百合の装いの鮮やかさに見入っていた。赤、ピンク、緑、青、紫などが細かいモザイクのようなプリント模様のワンピースに大きめの南洋真珠のネックレスとイアリングをしている。ふだんの宇八なら南洋真珠なんぞ白目をむいたみたいでいやだくらいは言うのだろうが、不思議なほどその日の百合には似合っていると思った。


 彼女がテーブルの上に置いた指を少し動かしていることで、彼はあまり大きくない音で『トゥーランドット』が流れているのに、初めて気付いた。二人の視線のやり取りからか、獅子男も気付いて言う。


「ほう、今日はクラシックか。この間は、胡弓なんぞを大きな音でやっておって、通俗的だぞと叱ったんだが」

「あら、プッチーニなんて素敵よ。ねえ羽部さん」


 こう言われてしまうと、あのオペラにはやたら首をちょん切りたがるお姫様が出てきたなと考えていたくせに、宇八の答えは自動的に、

「プッチーニは大好きです」となる。


「羽部さんは作曲家でもあるそうですな。その辺りの薀蓄もたっぷりお聴きしたいものだ」


 宇八はモーツァルトがいつ頃生まれたとか、ベートーヴェンがどこで死んだかとかになるとさっぱりわからない人間なので、折角のチャンスなのに「はあ」と彼らしくない反応をしてしまう。それを素人相手には話せないぞというように獅子男が取ったかどうかは定かではないが、店長を呼びつけ、何やら耳打ちした。


 たくさんの蒸籠(せいろ)が並べられ、蓋がうやうやしく開けられて、湯気が上がる。獅子男と宇八がフカヒレや蟹や貝柱を使った焼売や蒸し物をぽいぽいと口の中に放り込んでいく間に、欽二は小龍包の熱さに頬の裏を焼き、百合は静かに北京ダックを箸で巻いて食べる。


「最近は『不確実性の時代』とかいわれておるようですが、どうなんでしょうな。お二人はどのように見ておられますか? これからの経済というか、日本を」


 小さな盃ではまどろっこしいとグラスに注がれた紹興酒をぐいぐい開けながら、獅子男が訊いた。ビールをかぽかぽ飲みながら、大海老のチリソースを殻ごとバリバリ齧っている宇八が先に言えと欽二に目で合図する。


「石油危機から続いていた不況からようやく脱したとは言え、かつてのような所得がすぐに倍になるような時代ではもはやないんでしょうか。政府の言うような安定成長ということで、本当に安定するならそれはそれでいいんでしょうが、我々のような弱いところは不安がありますね」


 獅子男は軽く頷き、宇八を促す。


「今は何か起こるのを待っているってところですか。……いやちょっと違うな。何か起こそう、犯罪でもなんでも、人をあっと言わせて、どうだ俺はこういう人間なんだ。そうさ、俺は機械じゃない、人間だから、こんなひどいことができるんだ、それが自己表現だって思う奴が増える。そんな奴らに陰気な喝采を送る連中が出てきそうな、いやな時代が来るような予感がしますな」


 多弁だが、いつものように陽気にまくし立てるのではなく、暗く低い声で言う。


「なるほどおもしろいですな。しかし、そういう連中は食えませんな、まずそうだ」

「そう、吐き出すしかないような連中だ」

「お父様ったら、また人を食べ物に喩えたりして」


 空の蒸籠とビール瓶に取り巻かれるようになっていくと、音楽がいつの間にか変わっている。あれはなんだろう、ああ『春の祭典』じゃないかと宇八は思う。


「ほう。さすがに気付かれるのが早い。そうわたしが命じたのです。少しヴォリュームを上げさせましょう」


 まだ始まったばかりだ、この曲のおもしろいのは第一部の終わりのところの……。


「はは、よくご存知のようですな。ストラヴィンスキーはお好きですかな?」

 この後、『詩篇交響曲』、『兵士の物語』とどんどん作風を変えて、カメレオンと言われていたんだ。


「ほう、その二つがお好みですか?」と畳み掛けてくる。


 少し飲み過ぎているのかと、タバコに手を伸ばす自分の手を見ながらはっと気付いた。まだ注文した料理の半ば過ぎだ。そう、こちらから訊いてみよう。


「時木さんは、人を食うのがお好きなようですな。まるで昔の宰相だ」

「はは、バレましたか。何もかもお見通しのようだ。……そう、わたしは物を考えませんのでな。なんで自分で考えなきゃならんのだ。たくさんいる他人の中から、飛び切り頭の良い奴を選んで、そいつにうんと考えさせればいい。そうやって、考え抜いた奴を食べるんですよ、こうやって」


 蜂蜜に漬け込んで八角や丁子で香りをつけたスペアリブを手づかみでかぶりつく。百合は海燕の巣入りのスープを優雅に口に運びながら、


「ものの喩えですから、お気を悪くしないでください。……父がこういう話をする方は本当に気に入った方だけですから」とあまりそう思っているふうもなく言う。


 そう言われても欽二は疲れも手伝って食欲をなくしていて、長い象牙の箸を持ったままぼんやりしている。宇八はそんなことより、音楽に気を取られている。この変拍子が……。


「そう、ここからがおもしろいんですな。だがこのリズムはどうやって取ればいいんでしょうな?」

「ふむ。確かに取りにくいですが、例えば五拍子なら右手で二拍子、左手で三拍子というふうに分ければいいんです」


 そう言いながら右手の箸と左手のグラスを少し動かす。欽二もやってみるが、もちろんうまくいかない。


「ああなるほど、これなら取れる。おもしろいもんですな」と獅子男から言葉が返ってくる。


 ふーん、右手で二重唱、左手で三重唱ならいけるぞ、そうかそうすればもつれた糸も。……


「おやおや、羽部さんはご自分の芸術の世界に入られたようだ。うらやましい限りだ」


 なぜこの男は、俺が考えていることがわかるんだ? 言葉では考えないようにしているはずだったのに。同じようなことをさっき言ったな。こいつは俺も頭から食おうとしているのか? ダメだ、考えると食われる。……いや別にいいじゃないか。こいつも入れて出たとこ勝負の六重唱だ。よしと思って口を開いた。


「はは、時木さんはそうやって人を食ってしまうんですな。これはわたしとしてもぜひ作品にご招待申し上げなければ」

「はっは。さすがに羽部さんは早い。食べるつもりが食べられてしまいそうだ。だが、わたしはまずいですぞ。……さあ、デザートだ。わたしはこれでお暇させていただきますが。ああ、ご持参いただいた書類はしかとお預かりましょう、資金の方はまた後日ということで。商談としてはこれで十分でしょう? 百合は置いていきますので……よくお相手をしなさい」


 そう言って再び店長を呼びつけ、二言、三言言うとさっさと出て行った。しばらく三人とも無言でとろけるような香りの杏仁豆腐を口にしている。『春の祭典』がいつの間にか終わり、再び『トゥーランドット』に戻っている。いちばん有名なアリアが聞え、ようやく宇八も欽二も目が覚めたような気がしてきた。


「お父様はユニークな方ですね」と欽二が感に堪えない様子で言う。

「百合さん、お父さんの楽しい話で盛り上がったところで、ちょっとバーでも行きませんか?」


 酔っているように見せながら陽気に振舞っているだけと見て誘うと、欽二の心配そうな目をするのを気にするふうもなく、


「ええ」と返事が返ってくる。


 外に出ると二人とも改めて足元がふらつくのがわかる。近くに磨きこんだ年季の入ったカウンターのバーがあったので、そこに入って、男二人はオン・ザ・ロックスを頼むと百合はブラディ・マリーを注文する。店の中にはブルーノート系のジャズが静かに流れている。


 そこで百合と話をした内容は二人ともあまりよく憶えていない。実のところ話をしたのかさえ定かではない。グラスを重ねた後、カウンターの向こうに見知った人間がいたような気がするが、お互い酔っ払っているからと思い、口にすることはなかった。……


 それから三週間ほど経った四月半ば頃、仲林から羽部に心配そうな電話がかかってきた。


「おい、時木さんからカネ振り込まれたか?」

「いや」

「あれからもうかなり経つよな。催促しようかな」


 宇八は返事しない。


「……あの晩さ、おれ、店の権利書渡しちゃっててさ。おまえは?」

「会社の登記簿だ」

「じゃあ、お互い大変じゃないか。もし……もしもだよ、カネは来ない、権利書は返って来ないってなことになったら」

「そういうことだろ。ふつう」


 電話の花柄の布カバーを見ながら、電話が服着てどうするんだと思いながら言う。


「えっ?……それじゃあサギじゃ。まさか」

「まあ、そういうふうに言うこともないだろ。だから、カネなんて振り込まれないよ。向こうさんは、資金がほしいのなら、もっとトカゲの話を具体化しろって言いたいんじゃないのか? トカゲ一匹、目の前に出さないで、何が資金だと。……」

「そうかなあ。じゃあ、ちゃんとやれば権利書返してくれるかなあ?」

「知らん。だが、今ノコノコ返してくださいって行けば、この話をおまえがあきらめた、話は元々なかったってことになるよな。資金援助はなしということで、権利書は返してくれるだろう。タダでかどうかはあやしいが」

「そんな。あの権利書が他に流れたりしたら……」

「そりゃ、そういうこともあるだろうさ、うかうかしてると。はいそうですかと、カネも契約書ももらってないのに渡すからだ」


 カネなら目と鼻の先の工場で造ってて、そこの八重桜見物ももう始まってるはずだと頭の別のところで考えながら言う。


「だって百合さんはほんの形式だけ、担保というわけでもないんですよって言うし。……おまえだって登記簿渡したんだろ?」

「まあ、おれのはカネとしては大したことはない。どうせ何もやってない会社だし、資本金なんてとうにないしな。ただ、どうぞ流してくださいってわけにはいかない。おれの社会的信用に関わるからな。……あの時はあの父娘に魔法でも掛けられたんだろ」


 ふだんの欽二なら宇八の「社会的信用」なんて笑い飛ばすところだが、その余裕もない。


「はあ。どうすりゃいいんだ? 本当におれたち取って食われちゃうのか?」

「だから、そうなりたくなかったら、インドネシアだかニューギニアだかに行って、まずはトカゲを捕まえてくるんだな」

「おまえも行くんだろうな?」

「ああいうところへ行くのには、予防注射とかしなきゃいかんのだろ? おれ、注射嫌いだから。マラリアとかもあるし」


 注射が嫌いなのは本当だ。


「……ひどい奴ばっかりだ」

「そうかな。サギ師だとしても、あんなに堂々と宣言してやるんだから大したもんだ。おもしろいじゃないか」

「やめてくれよ。でもサギ師ってことはないよな? だって時計とかの輸入をやっているって」

「あのCMの会社の社長だと別に確認したわけじゃないだろ? ……でも下手に確認なんかすると心臓に悪いからやめたほうがいいぞ」

「もう十分悪いよ。あの百合さんが初めからおれたちを騙そうとしてたなんて……」

「お大事に。……しかし、あの父娘は一筋や二筋の縄じゃとても捕まえられんぞ」


 おもしろくなってきたという声で言う。


「どうすりゃいいんだ」

「うん。この間の反省に立って言うとだ、あっちの言葉を聞かないことだな。聞けばするするって呑み込まれる」

「……はあ、わかったよ。じゃあな」


 欽二は元気なく受話器を置いた。


 その後、仲林はニューギニアに行くべく、それこそ予防注射だの医薬品だのいろいろと準備をした。旅行会社もなかなか相手にしてくれず、何社も訪ね歩いたのだった。苦労した末に六月中旬にいよいよ出発することになった。おおげさな壮行会を開いて、妻子と本当に水盃を交わし、旅立って行った。


 時木父娘も壮行会に招待したが、出席できずに申し訳ない、事業の成功と仲林の健勝を祈っている旨のカードを添えたカトレアの花束が贈られてきた。


 二週間後、彼は日焼けした顔に再び深い憂愁の色を浮かべて(端的に言えばしょんぼりとして)、羽部のアパートを訪ねた。


「どうした? マラリアか?」

「いや、身体は元気だ。……ああ、これ土産だ」

 持ち出したのは、黒檀のような木に面妖な顔や紋様だかが彫ってある大きなフォークとスプーンである。ニューギニアにも高山があるが、そこの雪かき用でもないだろう。飾り物にしかなりそうにないが、飾りたくなるような物でもないなと宇八は思った。


「ああ、ありがとう。別に土産なんかいいのに。……疲れてるようだな」

「それもあるが、トカゲを連れて来れなかったんだ。あの国から出すのも、日本に輸入するのも、やれ動物検疫だ、やれ何とか証明だとかですごくややこしいらしいんだ」

「まあ、そうだろうな。……おまえ、初手からトカゲを袋にでも入れて持って帰るつもりだったのか?」

「いや、まあ。……でも、もう百万円以上使ってるんだぞ。大変な手間とカネを掛けて、まだ役所の窓口に並んだだけだなんて。ウチの店だっておかしくなってきてるのに。……あ、そうだ権利書だ」


 涙ぐんだり、話が散らかったり、ちょっと錯乱気味である。


「まあ、落ち着けよ。……仕様がないなあ。もうちょっとゆっくり。役所との関係は、こっちが急いでても、あっちは急いでくれないから。あちらさんのペースでやるしかないだろう」

「おまえ、やってくれないか?」

「役所との関係はおれがやらない方がいいんじゃないか? おれはあいつらをバカにしきってるから、こじれるぞ。下らない奴には下らない反応しかできないから、ケンカになる」

「……わかったよ。おれがやるから助言してくれ」

「うん、それがいい。まあ、向こうを見ておいただけでも、今後役に立つと思うぞ」

「そうかなあ」

「そう思えばいいじゃないか。おまえ老けるぞ」


 欽二は、こいつは友だち甲斐があるのか、ないのかよくわからんと思った。二十年以上付き合っているのに、こいつの底のところは見えないし、大体こいつが昔何をやっていたのか、どこで生まれたのかも知らない。今さら訊くわけにもいかないが。


 本当なのかどうなのか、紘一とかいう兄弟がいるってことも最近聞いた話だ。そう言えば、こいつは俺にもそういうことを訊かない。およそ他人に関心がないのかもしれない。どうでもいいと思っているんだろう。


「老けたように見えるか?」

「いや、日焼けして前より若く見えるぞ」

「それでいいか。……それならいいや」

「そうさ、人は見かけだ」


 そう言って笑った。それを見ながら、欽二はこいつはやっぱり自分も他人も中身なんて関係ないと思ってるんだなと感じる。なまじ中身があると思うから変に期待したり、裏切られたと思ったりする。こいつにとってはすべてが空っぽでも、嘘っぱちでもなんにも困らないんだろう。こういう奴は他にも会ったような気がする。ずっと昔なのか、最近なのかよくわからないが。……


 そして、いつものように夏が来て、去って行った。夏という季節の到来と退場に特別の感慨を抱くのは、我々だけではないだろう。夏は季節の中で特権的な地位を持っているのではないだろうか。我々が太古の海に近づく季節だからだろうか。


 我々の遥かな祖先は、夏の終わりに何度も振り返りながら、海に永遠の別れを告げたのではないだろうか。その陸上の重力にはまだ重すぎる身体を引きずりながら広い浜辺をじわじわと進むと、皮膚が次第に乾いていき、それを日焼けのような痛みに感じていたのではないだろうか。夕陽が引き潮の海に沈んでいく光景が我々の眼の奥のどこかに焼きついているのだろう。


 さて、あの二人はこの夏をなんの収穫もなく、過ごしたのであった。仲林は役所の窓口でたくさんの書類を出し、嘆願し、時に声を荒げ、そして疲れていた。羽部は事業の方は仲林の話し相手になっていただけであるが、『オフェルトリウム』については六重唱の形で一応書き上げていた。


 しかし、どうにもちぐはぐな感じがするのだった。気に入らない。男声四人、女声二人という構成に無理があるのかもしれないが、いずれにしても一から書き直すしかないという気分になっていて、そのせいもあって上京する話も延び延びになっていた。


 宇八は欽二には言わないが、トカゲ・ビジネスはもうあきらめていた。と言うよりは、とっくに飽きていた。彼は飽きてしまうと、もう何も考えられなくなる。欽二もこの頃には同じような気分になっていたのだが、ここで引いては男がすたる、何より店の権利書がかかっている。さっさと敗北を認めればいいものを、いつかのどこかの軍隊のようになってきた。傷口から血が流れるように、欽二の金庫からはカネが無益に流れ出て行った。仲林も敗北は認められんと、破滅が着実に近づいていった。


 どうしてこうなってしまうのだろう、常識も分別もあるはずなのに。いや人は破滅が好きなのかもしれない。家族や仲間が一緒に破滅してくれるなら、鬱陶しかったり、屈辱に満ちた現実に甘んじるより、よほどすっきりしていいと思っているのかもしれない。いざとなればみんな一緒に死ねばいのよと、思考停止するのが痺れるほど好きな連中がいるのかもしれない。


 ただ欽二の家族は一緒に死んでくれても(彼はそれほど悲観的になっていた)、肝心の仕事のパートナーにはなんの悲愴感もない。九月になって、深刻そうに相談しても、一家心中はダメだぞ、下手に生き残ると殺人犯だからな。死ぬなら一人で盛大にやってくれ。方法とかの相談に乗ってやりたいが、自殺幇助罪っていう人情をわきまえない法律があるから悪いな、などと言う始末である。


 欽二も力なく笑いながら、

「そこまでは考えてないよ。ただ資金が……」と言う。

「もう一銭もこの事業には使うな。今までのカネはあきらめろ」

「でも店の権利書が」

「あれは、おれが時期を見て取り戻してやる。今はダメだ」

「大丈夫か? 信用していいのか?」

「おまえが他に信用できる奴がいるのか?」


 そう言われれば仲林も受け容れざるをえない。内心では深い徒労感から、重荷を宇八でも誰でもいいから早く引き渡したいのである。


「そう言ってくれてほっとしたよ。いやもう地獄だからな」

「ふうん。おれは地獄でも花くらいは咲いていると思うが」

「長生きするよ。おまえさんは」


 欽二の『重荷』を受け取って、なぜか宇八の方もすっきりして、これまで書いた分を捨て、『オフェルトリウム』を一から書き直し、男声二人、女声二人の四重唱として改めて書き始めた。最初の三行を男声二人で、次の三行を女声二人で歌い、残り四行は二行ずつ、バスとソプラノ、テノールとアルトでそれぞれ分担するという形で作曲した。


 出来上がったものをルーカス神父に見せたのは十月の半ばだった。神父はざっと見ただけで目を輝かせて、


「とてもすばらしいです。シンプルで、深みがあって。『深い淵から』の歌詞に寄り添うようなチェロ。“et semini ejus”(その子孫に)のところからのフーガを金管とティンパニーが控えめに彩るところが伝統にも合致していていいですね。……来週の水曜日に東京に行くんですが、ご一緒しませんか?」

「それはいいチャンスだ。行きましょう。いいな?」


 傍らの栄子に念を押す。彼女も神父のお誘いとあらばへそくりをはたいてでも準備する。その時、時木茉莉の姿が目に入った。身体の具合が良くなったのか、久しぶりに教会にやって来たようである。会釈する彼女に、宇八はふと思いついて、


「今度、晩飯でも食べませんか? 百合さんや仲林君も一緒に」と声を掛けた。

「そうですね。……では、わたしか、姉の方から仲林さんにご都合を伺って」


 すんなりと返事が返ってくる。仲林がスポンサーなのもわかっているらしい。

 結局、それは次の週の金曜日ということになった。つまり水曜日の朝に神父と一緒に上京し、一泊して戻って来て、次の日の夕方にはご会食という、彼にしては忙しい日程だ。


 新幹線の中で宇八と神父はほとんど話をしなかった。神父はドイツ語の分厚い本を読んでいたし、窓際に座った宇八は子どものように飛びゆく風景をずっと見ていた。


 六年ぶりの東京は大して変わりばえしないように思えた。かつては債権者から逃れるため、今は作曲家としてカトリックの神父とともに、東京に現われた宇八はしきりに大あくびをしていた。


 青山の貸会議室のようなところで、『聖書を読む会』のメンバーに神父から紹介された。神父の前でもあるので、さすがの宇八もあまり変わったことを言わないように注意しながら、全体の構想を説明した。『イントロイトゥス』とできたばかりの『オフェルトリウム』を隅にあったアップライト・ピアノを神父に弾いてもらいながら、試奏した。途中からピアノの周りに集まってもらって声楽の部分を歌ってもらった。神父は調律が狂っているのが気になっているようだった。


 どうもこいつらは何を考えているのか、よくわからんな。お行儀の良さそうな五、六人の男女を見ながら、彼は思った。


 会合が終わると、歓迎会ということで表参道のレストランに連れて行かれた。神父も一緒なので、白ワインを一杯ずつという(彼には)物足りない食事だった。ルーカス神父は聞き役に徹しているらしく、会のメンバーに話を促す。いちばんよくしゃべったのが四十くらいに見える植村美沙子だった。


 彼女の口からは『テレビの仕事』という言葉が何度も出てきた。他人の反応を気にしているらしく、視線を絶えず動かしているが、そのくせ人の言うことは表面的にしか捕らえていないと宇八には感じられた。


 他には中央官庁の役人で三十そこそこの安田博子と更に若そうな椎名俊夫がいた。安田が「霞が関でこき使われています」と自己紹介して、どこの省庁なのか言わないのがもったいぶっているようで、かえって生意気だと思った。


 有名人に取材をし、打ち合わせをし、生番組でのハプニングをどう収拾するかといった苦労話に見せかけた自慢話を植村がすればするほど、宇八は、テレビって奴は肝心要の自分を見えなくさせるものだなと思った。霞が関の二人の話は、要は自分たちのような優秀な頭脳を酷使して、国民のために日夜働いているのに全く理解してもらえないと愚痴っているだけだった。


 誰々さん(有名なタレントの名前なんだろうが、そんなものは宇八は知らない)って実はこうなのよ、へえわからないものですね。そうなのよねえ、わたしたちって報われてないのよねえ。三人で狎れあった噂話と内輪話ばかりだった。


 ああそうか、こいつらが何を考えているのかがわからないんじゃなくて、こいつら何も考えていないんだ、知識を詰め込んで吐き出すしか能がないんだと、グラスの半分ほど空けたところで、宇八ははっきりと理解した。そうするとこの食事がますますつまらなくなった。


 ところが、植村たちが目線とわずかな言葉で交わしていた内容は、会話にすればこうだった。ルーカス神父が連れて来た遠来の客だと思って、折角こっちからいろんな話題を振ってやっているのに、この風采の上がらない中年男はいっかな反応がない。大方、いきなり東京の真ん中に連れて来られて萎縮してしまっているのだろう。ちょっと作曲ができるといっても、これじゃあ、わたしたちも協力のし甲斐がない。だから田舎者は嫌なんだ。……


 神父の夜は早い。羽部も一緒にホテルに引き上げて、さっさと寝た。次の朝、帰る際も口を開くと、


「神父さんはあんな連中も受け容れて、心が広いですなあ」などと憎まれ口を叩いてしまいそうなので、終始ほとんど口を開かなかった。ルーカス神父は、相手がしゃべらなければ何時間でも無言でいられるのだった。沈黙は神父という職業にとって必須の徳目である。


 その翌日、金曜日は待ちに待った美人姉妹との会食である。ただ今回ばかりは、欽二はともかく、宇八は醒めていた。新幹線の窓から風景を見ているうちに思いついた、いくつかの工夫をすることも決めていた。


 出かけようとする時に欽二から電話が入った。

「どうした、下痢か?」

「古いことを言うなよ。俺じゃない、百合さんが遅れるって話だ」

「ふうん、そうか。まあ、いいじゃないか」

「いや、まあいいんだが。……しかし」

「しかし、なんだ?」

「いや、あの姉妹が二人並んで、いずれアヤメかカキツバタって具合にはなかなかならんなと思ってさ」

「ふん。そういうもんだろ」


 わりと有名なふぐちりの店の黒く磨き上げられた階段に手を掛けながら二階の部屋に上がる。四畳半くらいの部屋の襖が抵抗なく開き、ぴたりと閉まる。欽二と茉莉が向かい合って、座っている。くいと会釈してすぐに茉莉の隣の座布団に座る。


「おい、そこは」と仲林は言いかけるが、


「遅れるそうなんですな。お姉さんは」と茉莉の目を正面から見て言う。


「ええ」といつものように伏せ目がちな返事がある。


 白いブラウスの上にモスグリーンのカーディガンにチョコレート色のロングスカートで、何か花と葉が絡み合ったような模様が白抜きのように描かれている。ふぐ刺しをつまみに飲み始めていると、鍋が沸き上がったところで、仲居がふたを開け、ふぐの身とあらを入れる。


 舞い上がった湯気が収まっていく。それを横目で見ながら、東京での印象、会った人間の悪口、街の様子、ファッションなど、喋るそばから忘れてしまうような話を宇八は楽しそうにする。


 ビールをつぎ、茉莉にも飲ませるようにする。欽二もご機嫌で、もう顔を真っ赤にしている。今、何時だ? ちらと腕時計に目を遣ると、まだ七時半だった。


「仲林君、君は茉莉さんと百合さんのどちらが好きなんだ?」


 欽二は危うくビールのコップを引っ掛けそうになる。


「何を言い出すんだ。もう酔ったのか?」

「さあ。別にいいじゃないか。お互い妻子持ち、好きだ、嫌いだと言ってみても、どうこうなるわけじゃない。ねえ、茉莉さん。訊くくらいいいですよね?」

「ええ……」


 宇八が目で催促すると、意外にあっさり、


「嫌いとかそういうことじゃないんだが、百合さんのように華やかな人はちょっと……」


 その答え方を聞いて、こいつはやっぱりお人好しだなと思いながら、


「おうおう、純情なもんだね。茉莉さんだそうですよ」とからかう。


 茉莉もビールを口元に運びながら、恥ずかしそうである。欽二は、


「おれだけに言わせるのか?」とこういう場合の常套句を言う。

「不肖、羽部宇八、申し上げにくいことながら、お姉さんのあでやかさにより惹かれますな。早く来られないかと心待ちにしております」

「ええ、用事を済ませばすぐに駆けつけると申しておりましたが」と腕時計を見ようとするのを押し留めるようにして、


「いや、失礼なことを申してすみません。さ、ぐっといきましょう」と今度は日本酒を勧める。


 しばらくして、煮詰まって白濁した出汁の中で、野菜がくたくたになった。身を食べた後の骨が黄色い。欽二も茉莉もかなり酔ってきた様子である。宇八も酔ったふうに、


「何か暗くないか、この部屋は」と言う。


 茉莉がついと用を足しに出たかと思っていると、何やら話し声が聞こえる。しばらくして襖が開くと、百合が入って来た。百合は、今日は一段と派手な化粧で、金のアクセサリーを耳、首、腕とたくさん着けている。青紫のセーターに、ビリジャン・グリーンの短めのスカートである。とろんとした半眼で宇八は、


「よく来てくれました。お待ちしてまして」と呂律(ろれつ)もあやしく、ビール瓶を傾けようとする。


「はい。本当にお待たせして申し訳ありませんでした。でも妹は……」

「いいんです。妹さんは欽二君のお気に入りだから、任せておきましょ」


 薄っすらと、茉莉が眠り込みそうな欽二をあやすように相手をしているのが見える。


「さあ、それよりお腹が減ってるんじゃあ。ふぐはたくさん残ってますよ。ああ、出汁がすっかり減っちまったな。……どうぞ、どうぞ」


 そう言って、出汁をじゃぶじゃぶ入れて、再び火を点けた。


「はい、いただきます」


 百合を相手に楽しく話をしばらくしていたが、まだ九時にはなるまい、時計を見ようかと思った矢先、襖がバンと開いて、そこに仁王立ちしていたのは、上川昭三の娘、姪の月子だった。


「わっ。なんでおまえがここに来るの?」

「なんでも、かんでもないわよ。伯父さん、そんなことやってていいと思ってんの? 恥ずかしいわよ」


 二十歳の娘にそう言われると、大抵の中年男は恥ずかしいと思ってしまうだろう。しかも月子は親戚の中でも愛嬌のいいので評判の娘だ。本人はそんなつもりではないのだろうが、笑顔で語気荒く叱られては、曲りなりにも、いや曲がったなりの伯父としての面子(めんつ)もあったものではない。


 月子の剣幕に驚いたか、百合と茉莉は、

「それでは、わたしたちはこの辺で」と言葉少なくそそくさと去って行った。


 欽二はちょっと目を開けたが、また柱にもたれて眠っている。その欽二の両肩を月子と二人で抱えながら、店の外へ出た。


「伯父さん、あたしが来てびっくりした?」

「したよ。栄子か輪子のはずがさ」

「伯母さん、あんなとこ行くの嫌だってさ。輪子ちゃんは論外よ」

「そうか、そいつは迷惑掛けたな」


 トレーナーとジーンズという格好だが、こいついつの間にこんなにいい女になったんだっけと思い、さっき襖を開けたときのシルエットが思い浮かぶ。


「なんで、誰かに迎えに来てほしかったの? いつもは行き先も言わないくせにって、伯母さん言ってたよ」

 

 それには苦笑しただけで答えない。


「……おまえ、あそこにいた女どう思った? 二人いたろ?」

「え? あたしが入って行った時は、一人だったよ。……そうね、まあ美人だけど、なんかちぐはぐな感じね。ほら、くすんだ色のカーディガンに派手なミニスカート? おんなじ緑ってもさあ、変だよね……伯父さん、何笑ってんの? 大丈夫?」


 それほど酔ってもいなかった宇八は、思い出し笑いしながら駅までの道を歩いて行った。


 明けて一九七九年、一月十六日のイランのパファレヴィ国王の亡命、翌日の石油メジャーの対日原油削減の通告、二月十一日のイラン革命政権の樹立などいわゆる第二次オイルショックとイラン革命の進行を我らの主人公は、


「いいぞ、いいぞ、もっとやれ」と大はしゃぎでテレビにかじりついていた。


 三月に入って原油供給逼迫の動きがいよいよ明らかになってくると、欽二に電話した。


「おい、好機到来だ。時木さんに面会の約束を取り付けてくれ」

「今、どこも大変なんだぞ。時期が悪いんじゃないのか?」

「今だからできるんじゃないか。いいから『事業の現状について至急ご説明したい。会社でもご自宅でも伺う』と言え。いいな?」

「……わかったよ」


 それから、一週間ほどして一流ホテルのラウンジで時木獅子男と会った。百合も茉莉も同席しなかった。二人が待つところにほぼ時間どおり獅子男が現われた。彼が座るなり、宇八は説明を始めた。


 これまでこの事業にどれだけ二人が努力したか、多くの資金を投入したか、いかに相手政府、我が国政府の官僚機構の壁が厚かったかを。欽二の努力を何倍にも膨らませ、自分の労苦のように語り、しかし資金については主に仲林商事の資金が使われたとあまり粉飾しないで、領収書を並べて(若干は自分の会社名義のものをでっち上げて混ぜておいた)説明した。


 しかるに、この度の原油供給削減という我々の全く想像しなかった事態に遭遇し、最後の努力も虚しく、ここで涙をのんで撤退することが時木さんにもこれ以上迷惑を掛けない唯一の方途であると考えた次第であると無念やる方ない風情で述べた。


 その間、獅子男は一言も言葉を差しはさむことなく、タバコを吹かしながら聞いていた。欽二は去年来のことを思い出してか、涙ぐんでいた。……


 話終えて、宇八が獅子男の顔を見るとおもむろに口を開いた。


「よくわかりました。わたしの理解するところと違う点も少々ありますが、お二人のご努力を虚しうするのはわたしの本意ではありません。これはお返ししましょう」


 背広の内ポケットから権利書と登記簿を出してテーブルに置いた。欽二は喉から手を出しそうな顔をしている。宇八は平然と『それで?』という目で獅子男を見た。彼はかすかに口元をほころばせて言った。


「……これまでに出費された資金は、こちらでもよく確認した上で、然るべくお支払いしましょう」

「わかりました。時木さんだけでなく、お嬢さんたちにも、一方ならずご厚誼を賜りましたからな。……いやお嬢さんだったかな」


 獅子男は強い目つきで宇八をちらとだけ見て、息を少し大きめに吸って、吐くと、黙って去っていった。欽二はテーブルに残された権利書を押し戴いて、

「とりあえず、俺帰る」と言って、そそくさと帰って行った。


 次の火曜日には仲林商事の口座には領収書の七割ほどが、羽部の会社の口座には七十万円が振り込まれていた。すっかり立ち直った欽二から電話があった。


「全部はみてくれないんだな。まあ、欲かいちゃいかんが」

「まあ、残りはお賽銭と思うんだな」

「お賽銭? どこへの?」

「美女二人への……と思ったら美女と野獣へのだったがな」


 そう笑って、電話を切った。



   OFFERTORIUM

 

 Domine Jesu Christe, Rex gloriae,

 Libera animas omnium fidelium defunctorum de poenis inferni,

 et de profundo lacu; libera eas de ore leonis,

 

 ne absorbeat eas tartarus, ne cadant in obscurum:

 sed signifer sanctus Michael repaesentet eas in lucem sanctam,

 Quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.

 

 Hostias et preces tibi, Domine, laudis offerimus:

 tu suscipe pro animabus illis, quarum hodie memoriam facimus:

 

 fac eas, Domine, de morte transire ad vitam.

 Quam olim Abrahae promisisti et semini ejus.



    奉献唱


 栄光の王、主イエス・キリストよ

 この世を去ったすべての信者の魂を、地獄の罰と

 深い淵から救い出し、獅子の口から解き放ってください。

 彼らが冥府に呑まれることなく、闇に陥ることなく、

 旗手聖ミカエルが彼らを聖なる光に導かれますよう。

 その昔、アブラハムとその子孫に約束されたように。

 讃美のいけにえと祈りを、主よ、我らは捧げます。

 今日、追悼する霊魂のために、これを受け入れてください。

 彼らを、主よ、死から生へ移してください。

 その昔、アブラハムとその子孫に約束されたように。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ