表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ジャパンレクイエム:Requiem Japonica  作者: 夢のもつれ
5/11

4.四月一日に生まれて~TRACTUS

≪1975年≫


「このように主、イエス・キリストは御自らわたくしどもすべての罪を御身に担われ、あえてあらがおうとせず……」


 ルーカス神父のたどたどしい日本語の説教が質素な教会の中に響いていた。歳時記でそうなっているわけではないが、キリスト教に日本の夏は似つかわしくない。元々クリスマス前の待降節くらいから復活祭頃までが通常の教会の掻き入れ時で、神父によほどの愛情か義理を感じていないと梅雨明け直前の蒸し暑さの中で、日曜のミサなんかに来るような者はいなかった。


 栄子は、引っ越して来てから近所の熱心な信者に誘われて通いだしてもう二年になり、その信者が引っ越して行ってからも続いているのだが、この季節は苦手である。実際のところ、通って来る信者(元々そう多くない)が夏の到来とともにだんだん減って、いつの間にか二、三人になっているのに気付いたときには、もう逃げられないと観念した。嫌がる夫と子の手を引いて、おまけに夫が逃げ口上に使おうとした、たまたま家に来ていた仲林欽二まで連れて来たのだった。


 今日は、この羽部家の関係者以外にはたった一人しかおらず、途中で帰ってしまったから、栄子が来なければミサがどうなっていたかわからないところであった。いずれにしてもいつもよりも多くの信者を相手に額から顎にしたたり落ちる汗をものともせず(ミサに来る者すべてが善き羊たちなのだ)、ルーカス神父は自分でも少し長いと感じる説教を続けていた。


 栄子は睡魔と三回目の戦闘を開始しており、輪子と仲林はとうに眠っていた。宇八は、はたからでは起きているのか、眠っているのかわからないような顔をしていた。彼は吊り革につかまり、目を開けたままで何駅も乗り過ごしてしまうような男である。……


 ようやく長く暑いミサも終わり、神父も誘って、すぐ近くの大衆食堂でかき氷を食べることにした。注文した順に言うと、輪子はイチゴ、宇八はミルク金時、欽二と栄子はみぞれ、神父はレモンであった。


「このかき氷ですか、日本の夏にとても合っていますね。」


 カラーをゆるめずに神父が言う。


「神父様もこの暑いのに大変ですわ。アロハシャツかなんかでもよろしいのに」

「ふだんはそんな格好もしますが、信者の皆さんの前、ミサの時はダメですね」

「神様ってのは、風紀委員みたいに神父さんの服装のことをつべこべ言うんですか?」


 何か考え込むようにひじ杖で頭を押さえながら、しかし口調はからかうように宇八が訊いた。


「そうではありませんが、こちらの気持ち、心の、なんと言いますか。形、姿勢? うまく日本語では言えないのですが、そういうもの、違うのです。……わたし、忙しいので失礼します。あ、ごちそうさまでした」


 そんなふうに言うと、まだかき氷が少し残っているのに代金を置いてまた炎天下の街へ出て行った。


「あと、食っていいよ」


 宇八はほとんど残っていないラムネ色のガラス鉢を輪子の方へ押しやる。


「あー、頭がキーンとした。これってなんでかき氷だとなるんだろうな」


 わかばに火を点けながら言う。


「急いで食うからだよ」

「でもそうなるのがかき氷らしいのよ」

「神父を目の前に氷食うと、調子が狂うな」

「めったにない経験だぜ」

「なんの得にもならんだろ」

「そんなことありません。とてもいいお話をいつもしてくださいます。今日だって……」


 輪子が小豆をこぼすのを叱りながら、栄子が言った。五年生になってもおかっぱ頭の輪子は、無口で少し暗い感じの性格は変わっていなかった。


「何言ってやがる。半分は寝てたくせに。……ま、あんなサウナ風呂でまじめに聴けって方が無理だが」

「そういや、途中で帰ったがいい女がいたな。つるっと涼しげな。ありゃご利益だ」

「ふうん、そうだったかな……相風呂で美人がね」


 最後の方が少し言い淀むような言い方なのを、栄子は輪子にハンカチを渡しながら何気ないふうに聴いていた。


 店を出て、アパートに戻り、少しでも風を通そうと玄関のドアを開け放つまで、誰も口をきかない。

 女の話なんかして、なんだか雰囲気を悪くしてしまったのかなと思った仲林は、話題を変えるように出された麦茶に口を付けながら言った。


「あれさ、やっぱりイヌかネコにしとけば良かったんだ。毛でも生やかしてさ」


 上目遣いの先には、ほとんど売れず、夜逃げの原因となった商品が古ぼけた本棚の上に一つだけ置かれていた。この本棚は宇八の会社にあったものであるが、夜逃げの直前に持ち出す際に片目のダルマは捨て置かれた。


「いくらなんでもカモノハシなんてさ。誰も知らんし、しかもあんな銀色のプラスティックで」

「カモノハシのロボットなんだから、あれでいいの。ぬいぐるみやおもちゃじゃないって何度も言っただろ」


 三年も前のことをほじくり返しやがってと思っているので、返事がぶっきらぼうだ。


「でも、仲林さんがおっしゃるようにもう少しみなさんに親しまれている動物でも」

「イヌやネコみたいに人ずれしてる連中のロボットなんか作って、何がおもしろいんだ?」

「おまえ、おもしろいかどうかで商売すんなって言っただろ? カネ出してる奴らの身にもなってやれよ」

「せめてカモじゃダメだったの? カモってかわいいでしょ?」

「そうだよ。ネギでも背負わせりゃ、よかったかも」

「暑苦しいさなかにうだうだ繰り言ばっかり言いやがって……空飛んでるような奴の頭の中なんて想像できるかよ、俺に」

「へー、いつもは偉そうなことばっかり言ってるくせに」

「わかること、想像できることしか、おれは言ってないぞ。いつでも」

「じゃあ、オーストラリアだかどこだかにいる、卵を産む変な哺乳類のことなら想像できるのか?」

「うーん、想像してみたかったんだな。カモノハシ性を」

「なんだそりゃ?」

「『人間性』の問題だとか言うだろ? 極左のテロとか、無差別殺人の時に。あれと同じさ、『カモノハシ性』の問題だ」


 欽二が呆気にとられたのは一瞬で、「またこれだ」と呟いて、かき氷で頭が痛くなったようなポーズを取った。栄子は、こういう場合にいつもそうするように、いつの間にか輪子を連れてどこかへ出て行っていた。


「……あれか? 去年の夏の丸の内のビル爆破とか、ピアノの音がうるさいとか言って隣人を殺しちまったような事件か?」

「うん、あれのヒントは浅間山荘事件とか大量粛清とかだったかな。あの時のテレビとか見てて、あ、こういうのはイデオロギーとか主義主張とかじゃなくて、あいつら人を殺したいから殺したんだなって思ったんだ。連中の主観はともかくとして、何かのきっかけで人を殺したいから殺すという観念に背中からしがみ付かれてしまったんだ。それでこういう連中は、これからもっと増えるんじゃないかって思ったんだ。まあ不幸にしてそうなっているが」

「まあ、それはいいや。当たってるのかもしれん、いやな話だが。……だが、なんでまた、それでいきなり変なロボットになるんだ?」

「だって、これからは電子計算機、いやコンピュータの時代なんだろ? マスコミが言ってんだから、みんなそう思ってんだろ? それを繋いだんだ。あん時そうはっきり考えてやったわけでもないが」

「さっぱりわからんぞ」

「ふん。いいか? コンピュータが人間の頭脳を超えるだの、心を持つだの、反乱するだのって映画やマンガは昔からあるよな? そんなことはあるわけないんだが……その辺りから説明した方がいいか?」


 欽二は素直に頷く。


「じゃあ、コンピュータってどうやってできたんだ? ものを考えているとして、どういうふうに考えているんだ?」


 欽二は、何か思い出そうと頭の中の雑然とした押入れを探し始めるが、何も出てきそうもない。


「二進法とかって奴か? 電気のオン、オフで1と0を表わすとかいう」

「うん、まあそれでいいんだ。それで数字を何百、何千と表わせるとしても、それだけじゃあ、数字の記録はできても足し算、引き算なんかはできないだろ?」


 欽二はやはり不得要領の表情をしている。


「……そういった四則演算のような計算だけじゃなくって、論理式一般を二進法で扱えることを戦時中にフォンノイマンとかいう天才が証明しちまったんだ」


 宇八は自分が証明でもしたかのように得意気だが、欽二はもちろんきょとんとしている。


「つまりだ、論理的なもの、広い意味での言葉をコンピュータが扱えるってことを証明しちまったんだ。これがコンピュータの原理だ。いいか? 単なる計算と言葉とじゃあ、とてつもなく大きな違いがあるぞ。計算機なんかじゃなく、言葉を扱えるってことは自分で考えられるってことだ」


 我らの愛すべき友人が要領を得ないのも無理はない、我々が語っている一九七五年当時にはまだパソコンはおろか、ワープロもなく、コンピュータは大量の数値やデータの処理、保険や税金の計算や管理に威力を発揮するものとして、使われ始めていたのにすぎない。


 つまり映画などのフィクションの世界でなく、本気でコンピュータにものを考えさせようとして、(可能性として知っているだけでなく)実際の作業を行っていた人間は日本にはほとんどいなかった。それよりは、現実の必要に迫られて、ハードではメモリーの大きなICやLSIの開発、ソフトではかな入力や漢字変換の方法の研究といったことが中心だった。


「ま、いいや。話はこれからだ。ともかくだ、遅かれ早かれ自分でものを考えるコンピュータがあちこちにあふれ出す。今だってIC制御とか言ってるだろ? 電気毛布とか。あれのもっと高級なのがじゃんじゃん出てくるってことさ」

「電気毛布がもの考えてるって? あんなの熱すぎたり、冷たかったりで、湯たんぽの方がよっぽど具合がいいぞ」

「具合の問題じゃない。布団の中の温度をフィードバックして、自分でスイッチを入れたり、切ったりしてれば立派にものを考えていることになるだろうが。ちゃんとしたもんかどうかは別にして。他にどういうときにおまえはものを考えているって言うんだ?」


 少し風が通るようになってきたのか、欽二は古風な扇風機の風の当たる左腕が冷たいように思う。どういうときに考えているかなんて、考えたこともない。


「考えるって外から見てどういうことだよ? 暑くてたまらないから、かき氷食おうって考えることか? 天気予報で雨だって言えば、傘持って出るのが、考えるってことか? ニュースで景気がいいって言えば自民党に、悪いって言えば社会党に投票するのが考えるってことか? いい女見りゃちょっかい出したくなって、女房子どもが見てるとまずいなってやめるのが考えるってことか? そういうこと全部ひっくるめて『考える』ってことじゃないのか? 頭の中でごちゃごちゃ言葉が飛び交うのが考えるってことだって? おまえは、他人の頭の中見たことあんのか? そういうごちゃごちゃを切り捨てて言えば、電気毛布がやっていることを複雑にしただけだろ?」

「なんかやな話だな。気味悪いぞ」

「そりゃそうさ。でもこれからそうなるって、コンピュータが人間らしくなるより、人間がコンピュータらしくなる方が早いだろう。人間にはかわいそうなことに順応性っていう、部品交換の要らない自己修正装置が付いているからな」

「おまえの話は『人間の尊厳』ってのを無視してるよ」

「そうさ。だから、カモノハシなんだって。おまえが言ったとおりさ。……話の入り口まで来たところで、おさらいしとこう。コンピュータはそういう意味で『考えることができる』機械と定義していいんだが、その考えるときに使っているのはなんだ?」


 欽二は、返答する気力を正午近くのうだるような暑さの中で失っていた。


「数字と論理さ。広い意味での言葉だけだ。コンピュータは映像や音声も扱えるそうだが、それにしたって言葉での命令がなきゃなんにもできない。それが原理だからな。これは人間の脳の機能を忠実に機械に移し変えたってとこかもしれんが、ほんの一部にすぎんし、だいいち成り立ちが違う。人間の脳はどうやってできてきた? どう進化してきた?」

「そりゃ、サルからだろう」

「そうだ。チンパンジーの親戚みたいなところからだよな。だからチンパンジーは喋れなくても、言葉みたいなものが使える。人間に飼われてるのは特にそうだ。イヌとかネコとかもそんな感じだろ? そういう言葉っぽいのがいやなんだ。足し算するイヌなんて、飼い主がバカに決まってる。……ま、それは置いといてさ、元々人間の脳の元になったサル、そのずっと前のカモノハシみたいもの。進化の過程ってよく知らんが、個体発生を見りゃ大体は分かる。まともな脳が出来た頃はえらの付いた魚かおたまじゃくしみたいだったのが、地面をもそもそ這い回わる、目玉の大きなイモ虫みたいになってという進化をしたんだろう。で、その間ずうっと、人間になってもしばらくは言葉なしで考えてきたんだ。今は『考える』ことが『言葉で考える』ことと同じように思われているかもしらんが、『言葉抜きで考える』は『言葉で考える』よりはるかに長い時間を持っているし、広いんだ」

「それで哺乳類でいちばん原始的なカモノハシのロボットを作ったってわけか? 全くおまえさんは。……だが、そのロボットは口を開けたり、閉じたり、歩いたりするだけだったじゃないか。しかもしょっちゅう故障するし」

「うん、ICが全然ダメなんだ。技術の進歩って遅いんだな。まあ、そんなもんだ」

「そんなもんだって、そんなんで終わりか? 人間性とか、カモノハシ性とか大層なこと言って」

「あの時は、カモノハシ性を考えれば人間性も少しは広がって、深くなるかなって……ああ帰って来たか。冷や麦でも作ってくれ。赤いのと緑のが入ったいつもの奴な」


 欽二は、その言葉でいつの間にか玄関口に栄子と輪子が黙って立っているのに気づき、少しぎくっとなった。


     **************


 その翌週から毎日曜のミサに宇八が欠かさず出るようになり、あまつさえ欽二も時折はるばる(まあ電車で十五分ほどだが)やって来て参加するといった事態は、いかなる神のご加護、ご配剤と言えば良いのか、我々としても戸惑いを感じるところだが、例の美女、時木茉莉(ミサ終了後、栄子の目を盗んですばやく話しかけて名前を訊いたのだが)がいる間だけと言えば、大方の得心が得られるだろうか。


 いずれにせよ、真夏の日曜ミサにうら若い美女と羽部家の三人、更にその友人の中年男が参列するような次第となった。座る位置は、大抵は栄子と輪子が最前列、三、四列目のやや左に茉莉、その少し斜め後ろに宇八と欽二が仲良く並ぶというものだった。


 ここでカトリックのミサの次第を述べても仕方ないだろう。有り体に申し上げてふつうの人にとっては退屈な代物であるから。むにゃむにゃお説教があって、お祈りがあって、しゃらんしゃらんと鐘が鳴るとお煎餅みたいなものを順繰りに神父から食べさせてもらうといったものである。まあ、クリスマスの時などにちょっと出てみるくらいならともかく、毎週欠かさず参列する人は、この日本では圧倒的な少数者なのが実態であり、今後とも変化はないと言いきって差し支えないだろう。そういうことから、我々としてはそういう人たちをおかしいと批判するつもりはないが、特別に仏教の信者などと比べて尊敬するつもりもない。単に我らの主人公を始めとした人びとについて述べていくだけのことである。


 ミサが終わる。栄子は神父と話をしたがる。輪子のおかっぱ頭はまるで神父の手の置き場所のようになっている。宇八は茉莉と話をしたがる。欽二の肩はまるで宇八の肘の置き場所のようになる。……


 解説が必要だろうか? 栄子は、神父から今日のありがたいお話についての解説と好意を与えてほしいのだ。宇八と欽二は、茉莉から彼女自身についての解説と好意を与えてほしいのだ。違うものだろうか? もちろん違うのである。前者は社会的に認められた布教行為、ルーカス神父のミッションであり、後者は社会的に許されにくい、独身女性に対して妻帯者の行う、ちょっかいなのである。


 この時、オーストリア出身の長身のルーカス神父は三十五歳の若さで、栄子はこうした雑談の途中にいつも清潔に剃り上げた顎の線を見上げているうちに、何度か「神父様は独身なんですか?」とうっかり訊いてしまいそうになるのだった。それは、単に神父についてもっとよく知りたいという好奇心からだけだったのかもしれないが。


 この時、背はさほど高くないのにすらっとした印象の時木茉莉は二十六歳の若さで、宇八はこうした雑談の途中にいつも違ったオーデコロンの微かな香りを嗅いでいるうちに、何度か「恋人かボーイフレンドがいるんでしょう?」とうっかり前にもした質問をしてしまうのだった。それは、単にその伏せ目がちに小首を傾げて否定する様を観賞したかっただけかもしれないが。


「でも、わたしの姉の百合はいろいろボーイフレンドもいるらしくて」

「お姉さんがいるんですか。それはそれは……」

「あ、いえ双子なんです、一卵性の。性格とか人との付き合い方とかは全然違うんですが」

「いやあ。わはは、奇遇ですな。何から何まで。ぼくにも双子の片割れがいるんですよ。紘一って言いましてね」

「おい、何がぼくだよ。双子の兄弟がいるなんてほんとか?」


 茉莉の話に合わせるために口からでまかせを言っているとしか、欽二は思えない。


「言ったことなかったかな? 仲林君には。いやあ、親が同じ日に生まれて、こっちが兄で、あっちが弟なんてはおかしいとかいう考え方の持ち主でしてね、それで片割れなんですな。……ま、彼は学習院から東大の法科を出て、大蔵省にちょっと勤めてたっていう奴なんですが」

「まあ、とっても秀才でいらっしゃるのね。じゃあ羽部さんも……」

「おんなじようなもんですかね。わっはっは」

「おまえ、でたらめ言ってんじゃないのか? なんで東大出がこんな……その紘一ってのは今何してるんだ?」

「消息不明なんだよ。仲林君。五年前から音信不通でしてね」


 話し始めて半分もいかないうちに、仲林から茉莉のほうに相手が変わっている。


「でも、一卵性双生児って、テレパシーみたいなのがありますでしょう? わたしも時々、姉のしていることがふっとわかったりしますけど」

「いやあ、そういうのとは縁がありませんねえ。できればぼくもそのテレパシーのお仲間に入れていただきたいですね」

「おまえ、いい加減に……」

「いえ、いいんですよ。じゃあ、またそちらの方でも……」


 そう言うと、ペパーミントグリーンのスカートの裾を翻して帰って行った。後には暑さのせいばかりでなく、呆けたような中年男が二人。


 こういうふうにお上品な会話を続けて、栄子の監視網をかいくぐりながら、かき氷を三人一緒に食べるくらいまでにはなったが、「(ねんご)ろになるにはお月見くらいまではかかるな」との友人の見立てに、宇八としても頷かざるを得なかった。


 ところが、思わぬところから救いの手は差し伸べられるもので、栄子が忙しくなってしまったのだ。と言うのも、栄子、達子、光子の三姉妹にはこれまでもちょくちょくあったことなのだが、姉妹ゲンカを始めたのだった。きっかけはいつもつまらないことだ。


 彼女たちの実家、上川家の跡取り息子である兄の正一から、五年ほど前に亡くなった父の保の遺品を三人に形見分けするという連絡が少し前にあった。鷹揚と言うか、粗雑と言うか、金張りの時計と鼈甲のメガネとオノトの万年筆の三つを適当にわけろと言って、栄子一人に取りに来させた。父の遺愛の品であるから、金銭的価値を云々してはいけないと三人とも思ったのがいけなかった。


 我々は質屋ではないので正確なことはわからないが、金銭的価値から言えばたぶん時計、万年筆、メガネの順であろう。しかし、亡父の思い出という面から言うと、メガネはいつもかけていたものであり、時計は改まった外出時くらいにしか身につけておらず、万年筆に至っては使っているところを娘たちが見たことはない。


 そうしたことが絡み合って、三人の思惑でぐちゃぐちゃになり始めたのを、更に光子の夫の薫が万年筆を自分が使ってみたいものだから、「そりゃお義姉さんから順番にお義父さんの思い出の濃いものを取ってもらうのが筋だ」とか口をはさみ、達子の夫の片山幸三が妻たちがああだ、こうだ言うのが煩わしくて、「本家の考えをきちんと訊いて来なかった義姉さんが悪い」とか言い出し、関係者が増えて収拾がつかなくなった。……


 実は、亡父に対する愛情が強いのは我々の目からすると光子、栄子、達子の順で、先の二人は自分こそ父の最愛の娘と自負していた。つまり達子は、少しばかりの物欲(そんなものは一週間も電話の応酬やら、いさかいをしていれば消えていくものだ)を除くと、結果はどうでもよかったので、次第に姉の側に立った。


 しかし、光子側は執拗だった。それは栄子は長姉だから立てるところは立てなければならない。だが言いたくはないが、いつぞやのこと(もちろん夜逃げしてころがり込んだことである)を忘れたのか? あの時少しでも厭な顔をしたか? お義兄さんに晩酌を欠かしたか? 輪子ちゃんにつらく当たったりしたか? ……厭な顔の一つや二つはしたし、晩酌も酒が自分の前にないと宇八が要求するので結果的に欠かさなかったということに過ぎないようないような気もするが、客観的事実よりは相手の痛いところを突くという点では目的は達成しているのだろう。


 とは言え、こうした言い草を黙って聴いている栄子ではない。彼女も三姉妹の(かしら)としてプライドも高く、口も負けずに達者なのである。今は形見分けの話ではないか。過ぎてしまったことを恩着せがましくねちねち(こういう細部の表現が戦場を一層燃え立たせる)と持ち出すなら、光子たちが父親の反対を押し切って結婚した当時、風呂代にも事欠いてぴいぴい言っていたのを哀れんで、こっそり小遣いを上げたのは、一体誰だったか?


 達子も言っているように、光子は末娘で自分だけかわいがられたとでも思っているかもしれないが、お父さんは子どもたちを平等に可愛がっていたと。自分はお父さんの晩酌の相手もしていたから、本音がぽろっと出てくるのを聴いたことがあるが、それはかわいそうだから言わないでおこう(実は亡父は娘たちに対する愛情の濃淡など口にするような人間ではなかったので、これは栄子のトリックである)。……


 いや、もう、こうした激しい戦闘が昼夜問わず、ほとんど毎日、電話口で三十分、一時間、どちらも泣くわ、わめくわの大騒ぎ。光子の後ろでは薫が自分まで興奮して応援演説をぶって、そのくせ万年筆がほしいとは一言も言わない。栄子もどれがいいとは自分でも決めていないのだから、何を争っているのかもわからなくなるという、べトナム戦争のような泥沼の事態と成り果てた。


 この妻の混乱、困惑ぶりを見て千載一遇の機会と思わないのはどうかしているのであり、一緒になって騒いでいる薫に至っては正気の沙汰とは思えない。いや我々ではなく、主人公の意見である。妻の心労を自分の苦難としてじっと耐え忍ぶぼくの心情、ああ苦しい、茉莉さん聴いてはくれぬか、欽二も抜きで。……


 そうした図々しい演技と口からでまかせで、まんまと三十近く年の離れた美女を元男爵の別邸とかいう瀟洒なレストランに連れ出し、挙句の果てに昼食後のコーヒーの時には、おっといけない茉莉さんの悩みについても年長者として懇ろにアドバイスしてさしあげなくては、夜に。


 世迷言をきちんと聞くと、口に運びかけたカップをソーサーに戻して、茉莉が答えることには、姉が一緒でそちらも仲林さんがご一緒ならと伏目がちに言う。かえって育ちの良さを感じる慎重な判断、それはそれでなかなか乙なご提案。では、いついつに場所はぼくの方で手配しておきましょう。よく手入れされた日本庭園に向かって煙を吐きながら、そうのたまわった。


 その帰り道、小学生のようにぶんぶん手を振って別れた後、ただでさえこういうことにはよく回る頭を一層回転させ、旧盆直後のべとつく暑さの中で、かっか、かっかと策略をめぐらせた。とは言え、色恋事の手筈にそうそういろんなものがあるわけもなく、自分は茉莉、欽二は百合ときっちり分担を決めて、洋食ではどのナイフから、どのフォークからなのかしらんと、まごつくこと必定、しっぽり和室で和食、費用は欽二持ち、食後は各自奮闘努力し、恨みっこなしということにした。


 この話に、翌日直接面談した際の欽二の反応と言えば、持つべきものはよき友人、若干の見解の食い違いと感情の揺れはあれど、腹を割って話せばちゃんと状況を理解した上で現実的な判断を下し、大人として話もまとめられる。それに引き換え女どもは、いつまでやるのか、いやずっとでもありがたい……と一服点けながら清々しい歓談と相成った。


 さて、宇八にはめずらしく、これだけ周到に打ち合わせをし、手抜かりなく、銘店ながらそう高くもないようなところを欽二に探させるなど努力をしたわけで、これで成果がないのでは神も仏もない。いや、神のご深慮は測りがたいといったところなのか、まず欽二が当日午後になって急激な腹痛、猛烈な下痢に見舞われ、尾籠な話で恐縮だが、「こうやって電話するのさえ……」という有り様になった。まあ、それはそれでけっこうなのかも知れん、しかしあの美人二人を相手にするには、ちと準備運動でもしないとなどと考えながら、当の店に赴くと向こうも茉莉一人しかいない。


「申し訳ありません。姉は本当に気まぐれな性質で、お昼になってから『あら、今日はお友だちと買い物のお約束があったのよ』とか言って、さっさと出かけてしまって……」

「そうでしたか。いえいえ気になさるようなことはありません。お姉さんとはまたの機会にでも。仲林君もきちんと自己管理せにゃならんですな。まあここは二人で楽しくやりましょう。……え、何? ねえ、仲居さん。言いにくいことを回りくどく言うくらいなら、言わない方がいいんだよ。四人で予約していたのが二人になったから、別のちいちゃな部屋へ移れって言いたいんでしょ?」

「いえ、その方が落ち着いていただけるのではと……」

「そんなことはありませんね。ここがお庭も見えて涼しげでいいですよ、広すぎもしないし。……ああ、仲林商事に伝票を回すことになってるんでしょう? ぼくは、仲林君の友人兼相談役の羽部って言います」


 やり手そうな仲居がおし戴いた羽部の名刺には『㈱HABEニューエンジニアリング代表取締役』という肩書きが義妹の達子の住所とこれは本当の自宅の電話番号とともに書いてある。名刺を見て電話する者は多いが、郵便物を送る者はめったにいない。達子とその夫、幸三の住まい(小さな雑貨問屋をしている)も大したものではないが、町名を挙げれば「けっこうなところにお勤めで」と言われるようなビジネス街の隅っこにあるので、名刺に拝借しているわけである。


 仲居は人を見る目があると自負しているだけに引っかかり、彼の服装が盛夏のそれでいながら、カネに不自由していない雰囲気を漂わせていたこともあって、応対はがらっと良くなり、エアコンの効き具合にも細かく気を配る。


 宇八は何種類もの名刺を持っていて、『羽部興業』だの、『ハベ・コーポレーション』だのいろいろあるが、ほとんどが登記もしていない、ペーパーカンパニーであり、『㈱UHACHI紙業』なんてのまである。ついでに言うと、『仲林商事』は一応株式会社だが、欽二の妻が専務、去年どうにか大学を出た『不肖のボンクラ息子』が常務、他にバイトが二人のお菓子の卸兼小売店で、欽二が羽部ら友人を人数合わせに非常勤役員としているのは事実で、それだけにこの宴会の代金を経費で落とすのは、当然と宇八は心得ている。


 名刺をちらっと見た茉莉が宇八の期待通りの質問をしてくれる。


「羽部さんって、いろんなことをご存知の博識な方と思ってましたけれど、お仕事の方も幅広いんですね」

「いやあ、あれこれ手を広げてはうまくいかないんでいるんですよ。仲林君のようにコツコツやらんといかんのでしょうが」

「でも時代の最先端を行くって感じが……お見受けしていると」

「そうですねえ。もう少し資金の面でも、アイディアの面でも長い目で見て、支えてくれる人がいれば、ぼくも地に足を付けてビジネスに取り組めるのかもしれませんね」

「精神的な面では奥様が支えていらっしゃるんじゃないんですか?」

「どうでしょう。女房は今はああいった状態ですし、ぼくのビジネスについては、てんで理解がないようですね。いつも仲林君を見習えって言ってますから。事業面は孤立無援ですね、今のところ」

「そうですか。……大変なんですね」

「茉莉さんのように、理解してくれて、助けてくれる方がいればいいんですが」

「わたしなんてとても……」

「いやいや、お宅の手伝い、家事見習いに差し支えない程度にちょこちょこっと助けてもらえれば十分ですよ」

「そうなんでしょうか?」

「そうなんですよ。ぼくもこのままじゃいかん、この不況の時こそ、今までにない、新しいタイプのビジネスチャンスがたくさんあるって思ってるんですよ。近々、また事務所を開いて、バーンと大掛かりにやろうと思ってます。……茉莉さん、一緒に苦労してくれませんか?」

「……ええ、わたしでできることなら」


 さて、この会話の間、我々が沈黙していたのは、言葉を差し挟もうにもおかしくて腹の皮をよじっていたからに他ならない。事務所を立ち上げる話など、架空の話、でっち上げのペテンに過ぎない。時木茉莉のこの日の服装が赤いバラを散らした薄いブラウスと細かいプリーツの青紫のスカートという、清楚にして華麗であるが故の口から出まかせである。とは言え、その場の思いつきでどんどん話を進めて、本当に事業を開始し、破綻への道を家族、友人もろとも引き連れて行進してしまうのは毎度のことなので、油断はならない。


 しかしながら、この茉莉の話の合わせ方も少なからず注目すべきものがある。深窓の令嬢で世間知らずだから、こんなあやしげな中年男の胡散臭い話を鵜呑みにしてしまったのか、あるいは彼女なりの計算なり、打算なりがあるのか。その辺は、彼女のふだんよりも濃い目の化粧と閉めきった部屋に漂うオーデコロンの香りに我々も少々幻惑されて、よくわからない。


 現にお膳を上げ下げしている例の仲居ですら何を慌てているのか、鱧の湯引きの置き方を間違えたり、ハマグリの吸い物を引っくり返したりする始末。もちろんそういう失態は鷹揚に赦しながら、抜け目なく冷酒をサービスさせたりするのが、宇八のやり方ではある。


 そんな次第で、デザートのマンゴーのシャーベットを仲良く食べながら、彼が考えていたのは、今夜一気に行くのか、今日のところは手でも握ってお別れし、改めてじっくり攻めるのかという、戦術・戦略両面にわたる難問であった。我々としても、この一般的にも重要な問題の正解があればぜひとも会得したいものだが、ことの本質から言ってそうしたものはなかろう。正に各自知力を絞り、奮闘努力せよに尽きるのであり、あえて付言すれば引き際が肝心といったところであろうか。


 では、この夜、我々の主人公はいかなる考えに基づき、いかなる行動を取ったのか。――出たこと勝負、行けるところまで行く、これが彼の行動規範である。彼とても迷いや逡巡は時にあるが、最後はこれである。してその結果は、と気になるところであるが、少々お待ち願いたい。


 その夜、体調不良により無念の欠席を余儀なくされた仲林の行動をまずは追いたい。小宴が始まる頃合いになるとにわかに腹部の嵐も収まり、外出はかなわぬまでも、親友の活躍ぶりは気になる。悪気はない(そう思うことにしよう)のだが、栄子に電話してみた。


 あにはからんやか否かは別として、さすがに練達の栄子、すぐにピンときた。


「いや、今日一緒に晩飯食うことになってて、俺が腹を壊して悪いことをしたなって思って、電話しただけで……」


 茉莉のまの字も言わないのに、もたもた言っただけなのに、これだから、浮気者の夫は名探偵を作ると言うべきであろう。栄子は抜く手も見せずに切りかかった。


「それで、あの蛇みたいな女とどこにいるの?」

「いや、そんなことじゃないって。……だいいち蛇みたいだなんて言い方しなくても」

「仲林さん。あなたもあの女の味方なのね?」


 もう勝負はついている。手繰り寄せていくだけである。


「いや、そんなことないですよ。ただ……」

「じゃあ、その場所教えてくれるわよね?」

「教えて……どうかするわけじゃあ。まさか」

「バカねえ……そんなみっともないことするもんですか」


 いかな敏腕検事でもこう早く容疑者を落とすのはむずかしかろう。元々欽二は彼女に弱いのであるが、親友、盟友と言えども人の心は当てにはならない。電話での取り調べで、頭をぐわんぐわんかき回され、すべて自白させられた欽二はまた厠に引きこもり、腹だか良心だかの痛みに耐えかねることになった。


 それで栄子は、その後どういう行動を取ったのか。教会に行ったのだった。……我々は、『懺悔』というのはなかなか精神的に、ひいては社会的に良い機能を果たせるものと思っているのだが、それを栄子は利用したのだ。輪子に留守番させて、生暖かい真夏の夜の街に出た。


 もう七時を回っていて、誠に申し訳ないが、ぜひとも神父様に懺悔したい。主のご加護の下、よく眠り、朝の清々しさを神の栄光と感じられるように。ルーカス神父も大変であるが、迷える信徒を救うことこそが天職、何よりの喜びとするものであった。


 懺悔、告解と言ってもいろいろなやり方があるが、この教会では何もかもべらべらしゃべるわけではない。自分の行いが神の教えの何に反するか(栄子はもちろん嫉妬の罪を挙げた)を述べ、神父はそれに対応する聖書の一節を引いて共に読む。しかし、神父のたどたどしい日本語にゆっくりとついていくことで、栄子の頭は徐々に整理されていった。


 たぶんあの人のことだ、調子よく行っても最後の最後でしくじるに違いない。あの女はなかなかどうして食えない子よ。『信頼』してていいはず。ここで彼女は思わず笑みをもらしそうになり、慌てて(こうべ)を垂れた。


 やがて形見分けで混乱していた隙を突かれたこともわかり、その解決策も見えてきた。自分はメガネをもらい、達子は時計、光子は万年筆でいいだろう。まだ光子がなんのかのと言うなら、三つとも渡してしまえばいい。勝手に騒がしておけばいいのだ、あんな子は。昔からあの子はそうだった。末娘の甘えん坊で、自分の言う通りにならないとすぐに拗ねる、むずがる、親や兄に言いつける。お互い五十近くにもなっているのに何も変わっていない。


 そうだ、自分も夫も今年で五十歳だ。来月はあたしの誕生日じゃないの。ああそうだ結婚してもう二十年になる。今度のことでぎゅうぎゅう絞り上げて、両方のお祝いでも買わせようか。……でも二十年前のことを思い出すと、とてもお祝いなんて気分ではなかったわね。結婚式を挙げようにも、なんにもありゃしなかった。


 お父さんはどんな気持ちだったろう。


「あんな男のところへ行くような奴は、もう親でも娘でもない」


 そんなふうに言えばあたしが意固地になって、あの人についていくのに決まってるじゃない。光子のときもそうだったんでしょ。……お父さんって、とてもいい人で、かわいがってくれて、今でも大好きだけど、あたしたち娘のことはわかっていなかったわね。


 涙ながらの告解は終わった。ルーカス神父は、もう一度新約聖書の中から一節を朗読した後、主の恩寵がありますように、栄子の魂が救われるにふさわしいものとなりますようにと、共に祈った。


 その夜、十一時を過ぎた頃、宇八は帰って来た。妻子は既に寝床に入っていた。栄子は寝たふりをしたまま、彼が悪酔いしたような様子なのをちらちら見ていたが、そのうち本当に寝入ってしまった。


 翌朝、家計を支えるため、スーパーマーケットで惣菜作りと販売をしている栄子と学校のある輪子が出掛けた後、布団の中でのたくっていた宇八に欽二から電話が入った。


「昨日は悪かったな」

「いや別にかまわん。済んだことを気にするな」

「どうだった? あそこはわりとうまいだろう?」

「まあ、あんなもんだろ。……何か用か?」

「用ってことも……奥さんは?」

「あいつはとうに出掛けた」

「何か言ってなかったか……いや何もなければいいんだが。どうだった? 昨日の首尾は」

「ふん、どう言えばいいのか。長くなるぞ。昼飯でも奢るなら教えてやろう」

「高い料亭なんて言うなよ」

「おまえんとこの近くの中華料理屋で、冷し中華と春巻でどうだ?」

棒々鶏(バンバンジー)も付けよう。じゃあ十二時過ぎに会社に顔を出せ」

 

 以下は、その中華料理屋で皮蛋(ピータン)とクラゲ、棒々鶏をつまみに生ビールを飲みながらの会話である。


「……おれも結構飲んでたし、あっちもわりと飲んだと思うよ。こっちは飲ませるつもりだったし、勧めるとあんまり断らないんだ」

「いいな、ちきしょう」

「それで食事が終わって、どうすべえって話なんだが、公園をお散歩しながら天文学の話って年でもないし、すぐにラブホテルでお医者さんごっこってのも、紳士たるもの、ちょっとね。……怒るなよ、考えただけだって。それであの近くにひねたババアがやってる飲み屋があるのを思い出して、もう酒は要らない気分だったけど、あそこなら小上がりがちょっと間仕切れて、状況の変化に柔軟に対応できるかなって思ったんだ」

「ついて行ったのか、彼女は」

「そんな切なそうな顔すんなよ。話やめようか?」


 出てきた冷し中華に辛子をたっぷりかき混ぜながら訊く。


「……わかったよ、そんなにクラゲくわえたまま、顔をプルプル振るなって。聞きたくなくても、知りたいんだろ?」

「その、なんて言うか、あんまりドギツクないように」

「ガキみたいなこと言いやがって。わかったよ、上品とはいかなくてもせいぜい客観的に言うよ。あ、中ジョッキお代わりね」


 羽部が冷し中華を二口、三口すすり込み、揚げたての春巻を辛子醤油にちょっと漬けて、パリリッと噛み、「アチチ」と言いながら、運ばれて来た中ジョッキを喉を鳴らしながら飲み込むところを、仲林は箸を持ったまま、講義が始まるのを待つ真面目な学生のような顔をして見ていた。


「それでさ、ババアにビール二、三本に、しけたつまみ出したら、暖簾しまって二時間ばかしどっか行って来なって、いくらか握らせたんだ」

「……おまえって、そんなに手際よかったっけ?」

「うるさいね。昨日は冴えてたの。相客もいなかったしさ、そんな日があんの」

「そういうもんだよな。競馬とか競輪でもビンビン来る日ってあるんだよなあ。で、どうした?」

「うん。それで小上がりに差し向かいで、ビールを一、二杯ずつくらい差しつ、差されつしながら、なんの話したと思う?」

「いやあ、分からん」

「キリストの話さ。イエスキリスト。……あいつが言うとエス様に聞こえるんだけど、そのお話」


 にやりと笑いながら、冷し中華を更にすすり込む。欽二もほっとしたように冷し中華に手をつけ始める。


「エス様が受けた苦難をわたくしどもも受けなければとかなんとか、辛気臭い話してるなあと思ってたら、何か変なんだ。……わたしもエス様と同じように鞭打たれ、縄打たれ、十字架に架けられなくてはなんて、うっとりした顔で言うんだ」


 欽二はとたんに口の中の冷し中華がむせ返り、しばらく咳き込んで声が出ない。


「そ、それで、おまえは……」

「うん。『ぼくはエス様でも神父様でもありませんが、君の苦しみを少しでも取り除くお手伝いならしましょうか』って言ったんだ。耳元でな」

「そ、そしたら?」

「ますます、うっとりした顔になって、『はい、お願いします』って目を閉じて言ってさ。するとぱあっといい香りがして、顔全体が光り輝いてくるんだな。いいもんだな、今思い出しても」


 仲林は好奇心が口惜しさを抑えつけ、打ち克とうとして、黙っている。


「おれも立ち上がってみると思いのほか酔ってるのに気づいたけど、なんか芝居がかったような気分で細い顎をつかんで、くいっとこっちに向けると、またいい表情するんだよ。でも、それ以上いろいろしてみようと考えは浮かぶんだが、体が鉛みたいに重く感じてしまうんだ」

「いざとなるとってやつか?」

「まあ、そうなんだろ。だが……」

「だが?」

「子どものいたずらみたいだけど、ほっぺたをつねってみると体をくねらせるもんだから、これはあっちの気があるのかなって」

「本当かよ?」

「酒の見せた夢かもしれん。話はますます変になるからな」

「変に?」


 欽二にしてみれば話は上がったり下がったり、その度に冷やし中華をつまむ箸も上下する。


「うん、じゃあ、ご期待どおりいじめてやるかってズボンのベルト抜いてさ、端っこ持って軽くぺしぺし顔を叩いたら、手を後ろに回して縛ってほしそうなんだ。またその振り返った腰のひねり方がいいんだよな。じゃあって後ろ手に縛ろうとしたら……」

「縛ろうとしたら?」

「手首のところに赤くくっきりと縄の跡が」

「嘘つけ、いくらなんでもそれはないだろ」

「うん、おれもそんなはずはない。今の今までこんな縄の跡なんかなかったぞと思ったら、ぐわんと酔いが回って、あとはもう断片的なヘンテコな記憶しかない」

「どんなだよ」

「逆におれが責めたてられてるとか」

「おまえ、そんな趣味あったのか?」

「知らんよ、記憶に訊いてくれ。それに」

「それに?」

「さすがにこれは正真正銘の幻だと思うんだが、『姉はもっと罪深いんです』とか、『姉も苦しみを受けなくては』とか言ってるなって思ったら、百合とかいうのも店の奥から出て来たんだ」

「そんなバカな。……おまえさんは想像力豊かだから、そういうの頭でこしらえちゃうんじゃないの?」

「そう考えておいた方がいいのかもしれんな。昨日のことは、お互い」

「……ふう、なんともすごくて、奥さんにはとても言えんな」

「言っても信じないだろ。信仰の何たるかなんて、あいつにはわからんからな」

「信仰とは関係ないだろ? そんなエロ話」


 欽二が憑き物が落ちたような表情で言うのに、春巻の最後の一本を口に運びながら、宇八は独り言のように言った。


「ふん。お行儀のいい、ためになるお話なんかよりずっと宗教的だったぞ。昨日の夢だかうつつだかは。キリスト教的かどうかは知らんが」


 それからしばらくは平和な日々が続いた。輪子の長いような、短いような夏休みも終わってしまった。いつの間にか、入道雲が彼方まで立ち上がる季節から、青空を箒で掃いたような雲の季節に変わっていたのである。



   **************


 宇八も欽二ももう日曜のミサには出なかった。残暑が厳しいこの都市で、にわか信者がそう長続きできるものではない。時木茉莉もミサに顔を出さないことが多くなったこともあって、栄子はあの夜のことも、自分の誕生日のことも口に出さない。形見分けの件も全く説明せずに光子には万年筆を郵送し、達子には時計を手渡した(代わりにあの店からのあいさつ状を受け取った)。


 光子は案の定、なんにも言ってこなかった。手に残ったメガネは、一週間ほどカモノハシの隣に鎮座した後、タンスの中にしまい込まれた。その後、鳥海家とは用件だけを告げるような電話が何回か、間を置いて交わされるといったふうにして、徐々に復交していった。


 カトリックの信者がお彼岸に墓参りに行くのはおかしいだろうか? カトリックの神父が信者の手作りのおはぎを食べるのは変だろうか? 我々の立場は、両方とも否である。そして、我々の物語の登場人物も幸いなことに、同じ立場であった。お彼岸の初日に、宇八も妙に素直に栄子に随い、義父の(たもつ)とその妻の春音(はるね)が眠る郊外の墓地に参り、その後、教会におはぎを届けに行った。ルーカス神父が手ずから日本茶を淹れてくれて、彼の私室で重箱のおはぎを食べながら、雑談を交わした。


「……いやそれで、うまく夜逃げしたのはいいですがね、どこかに身を潜めていないと債鬼が追っかけて来やがる。東京なら隠れ場所はいくらでもあるだろうってんで、こいつらを親戚の家に預けて、俺は東京、それも貧乏たらしいところじゃあ、かえってダメだ。霞が関だとか、大手町だとか、そういうところに居たんですよ」

「そんなところに居たの?」

「そうさ。ああいうところで身なりさえ小ざっぱりしてれば、誰にもあやしまれない」

「いい勉強になります」

「神父さんが夜逃げのテクニックを学んでちゃいけませんぜ。わはは……それで霞が関ビルの前の広場で日がな一日ぼおっとしてて気づいたんだが、ああいう高いビルの近くには強い風が吹くんですな。最近、新宿の方にもっと高いのが何本もできて『ビル風』とか呼ばれているらしいが。ま、それでその時、そうか東京はこれから”a windy city”になるなって思ったんですよ」

「とても勉強になります。羽部さんのお話は。わたし神父なのに迷うこと多いです。悩んだりもしています。……こういうこと信者のみなさんに言ってはいけないのですが」

「ルーカスさん、年を取れば迷ったり、悩んだりするのも減りますよ。あたしなんかも若いときはいろいろ迷って、あれこれ考えるばかりだったんだが、四十の誕生日にもう考えるのはすっぱりやめちまったんですよ」

「だから、あたしたちが余計迷惑かかるようになってるのよ」

「まあ、そう言うなって。お蔭で退屈しねえだろ?」

「神父様、この人の話を真に受けちゃあダメですよ。この人は誕生日からして四月一日生まれって人ですから」


 ルーカス神父は日本茶を飲みながら微笑んでいたが、やがて口を開いた。


「わたしの生まれたオーストリアは、ドイツ語を話すのですが、あの”habe”というのは、英語の”have”と同じ意味で、その”Ich bin Habe”『わたしは羽部です』と言いますと、みんなきっと笑います。動詞が二つあって、『わたしは持つです』という意味になるからです。あ、すみません。変なことでないのです。わたし、とても良い名前と思います。……プロテスタントの作曲家ですけれど、わたしとても好きな作曲家、シュッツって人います。とても昔の人ですけど、その人に『音楽のお葬式』という作品があります」


 神父はいつになく少し熱を帯びてしゃべり続ける。宇八も含めてみな黙って聴いている。


「その中に”Herr, wenn ich nur dich habe, so frage ich nichts nach Himmel und Erden.”という、とてもすばらしい曲があります。どう訳せばいいですか? その”habe”を。『主よ、わたしがあなただけを持つならば、天も地も求めないでしょう』では、ふつうの日本語ではないです」


 ルーカス神父が歌詞を持って来て、ドイツ語の意味を少し説明した。すると宇八は三つめのおはぎをぱくつきながら、呟くように言った。


「ふーむ。こりゃ恋人かなんかに言うみたいに『あんたさえいればあたしはこの世に欲しいものなんかありゃしない、あの青空だって要らないもの』なんて訳すのが気分が出ていいな」

「ああそうです。いい勉強になります。羽部さん」


 神父はうれしそうに応えた。



  TRACTUS

 Absolve, Domine, animas omnium fidelium defunctorum

 ab omni vinculo delictorum.

 Et gratia tua illis succurrente,

 mereantur evadere judicium ultionis.

 Et lucis aeternae beatitudine perfrui.


  詠唱

 主よ、亡くなったすべての信者の魂を、

 罪の縄目から解き放ってください。

 主の恩寵の救いによって、

 彼らを報復の裁きを免れるにふさわしい者とさせてください。

 彼らに永遠の光明の幸福を味合わせてください。




最後までお読みいただきありがとうございました。

今後、執筆していく励みになりますので、よろしければ★★★★★とブックマークをお願いします。

感想やレビューをいただけるととてもうれしいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ