2.古代ギリシャのマスコミ~KYRIE
≪1972年≫
「大丈夫、大丈夫。順風満帆、この上なし。……売れてるよ、すごい評判だ。こういうのを待ってたんだ、じゃんじゃん作ってくれって、みんな言ってるよ。見本だからって言っても、ちょっと目を離すと勝手に持ってっちゃうんだから。……話半分じゃないよ、話全部だって。控え目なくらいだ……いいのかい? 後で追加してくれって手を合わせても駄目だよ」
部屋中段ボール箱だらけの中で、羽部宇八は身振り手振りも忙しく、電話の相手にまくし立てている。支払いを待ってもらうため、手形が不渡りにならないようにするための電話であったが、にぎやかに言葉を並べていると、返品、在庫品の山という現実がいつしか消えていくような、本当に今度こそは彼の発明品が大当たりしたような気になってくるのだった。その感覚はギャンブルと似ているのかもしれない。……
電話の相手の返事に彼の生まれたばかりの会社の命運が掛かっているというだけでなく、ギリギリまで行かないと気が済まないような、もう一押しすれば現実の皮膜が剥がせるような幻想。理性や処世術からすれば決して是認されないような彼の性向について、熟知した人物が薄っぺらな事務所のドアを開けた。
「なんだこりゃ。……おーい、いつから倉庫番になったんだ? 宇八さんよ」
電話の向こうに聞こえそうな友人のドラ声に、この物語の主人公は顔を顰めながら、「またこまめに連絡するから」とかなんとか言いながら話を打ち切って、きつい目で振り返った。
その目を見て仲林欽二は、あ、こいつまた瞳孔が開いてやがると思った。
「一時的に置いてあるだけだ。……ノックもなしに入って来るな」
「ノック? いつからそんな大企業になったんだ?……奥さんは?」
「ちょっと使いに出している。今日は戻らん。……あいつに何か用か?」
切り口上で言うのを受け流して、仲林は駅前の信用金庫で下っ端の職員に頭を下げている栄子の姿を思い浮かべながら、口の中で「いや」と言った。しゃきしゃきしていながら脆いところがある彼女には、この有り様はつらいものがあるだろう。
帳簿や『式辞・挨拶の心得』といった古ぼけた本が雑然とガラス扉の中に入った木製の本棚やその上の片目のダルマにぼんやりと目を遣りながら、ここも半年ももたなかったなと思った。
「いや、ちょっとどんな具合か訊こうと」
「今、電話で言ったとおりだ」
「まあ、そのようだな。何よりだ。あ、これ、つまらないものだが」
憮然とした回答に、皮肉で応えながら駅前の果物屋で安売りしていた一房のバナナを机の上に置く。
「ふん、今日は忙しいんだ。用が済んだら帰れよ」
「そうか。他にも電話するのか?」
「うるさいな」
宇八はいつになくいらいらとした様子で、肘掛だけ不釣合いに立派な椅子をくるりと回して、欽二に背を向け、ソロバンをかちゃかちゃ振る。ソロバンどころかこいつは二桁の足し算だって、暗算でできないくせにとおかしかった。
欽二はしばらく手近の箱の中を覗き込んで商品を手に取っていたりしていたが、友人が少し落ち着いた様子になったのを見て言う。
「ほんとにおまえさんは昔っからわけのわかんないのを作るんだよな。……ほら、いつだか、地方の美術館の庭にでも置いてもらおうって造った奴。ずいぶん苦労したし、俺も及ばずながら手伝わせてもらったよな?」
古傷をほじくり返すような話の内容だが、いたずら坊主の片棒を担いだような口調なので、宇八は穏やかな表情になる。
「ありゃ日時計のくせに風でくるくる回るんだったっけ? 風見鶏じゃあるまいし。……」
「芸術家気取りのくせに時流に乗りたくて仕方ない前衛を皮肉ったつもりだったんだが、あんなに軽く回っちゃ自家撞着だ。油圧がうまく効かなかったんだ。……まあ、オブジェがばかばか売れるような時代になっちゃいなかったってことかな」
欽二の調子に合わせるように言う。『風の時、光の時』という巨大なオブジェで、円盤に三角のプレートが立っているという点では日時計と同じ形をしているが、円盤自体が風向きによって回る仕掛けになっていた。
現在を指し示しそうとしながら、その時々の風向きに流されるために果たせないという趣向だが、プランを聴いてくれる市役所の文化担当(と言っても、半年前までは税務担当だったというのが多かったのだが)は、5.6メートルという大きさと経費に目を剥いた。
なぜもっと小さいものじゃだめなのか? なぜ三角のプレートが割高なマジックミラーになっているのか? いや、そういうのが説明できなきゃ、上司の了解が得られるわけないでしょ?……
「売り込みなんて『芸術家』らしくないからな」の一言で、あちこち交渉に駆けずり回らされた欽二は、予算を取る苦労を教えてくれる親切な市の担当者と一緒にため息をついた。
「……そこだよ、あんたの問題は。アイディアはおもしろいかも知らんが、それをきちんとモノにしていく地道さがないんだ」
段ボールの山に向かって指を突きつけるようにして、ここぞとばかりに追及する。この前読んだ経営学の知識を見せてやる。
「これにしたってちゃんと市場調査をして、消費者のその……ニーズってやつを汲み上げろって言ったじゃないか。そういう意味だ、あん時言ったのは。そんなのはバカバカしいと思っているんだろうが、事業としてやる以上はそうしないと誰もついて来ないぞ」
「そうかもしれんな」
いつもの宇八ならニーズなんて言葉を聞いただけでいきり立つのに、いつになく弱気な影の射した言い方は欽二には意外だった。そう出られると遅まきながら今回も手伝ってやろうかという根っからのお人よしが顔を出す。しかし、いや自分だって余裕もないのにこいつに付き合ってまたひどい目にあってもと、考えが堂々巡りし始める。……
仲林はこういう時に幾度となく話した話を、今、初めて話すような調子で始める。中国での体験を何回も話していれば、自分では気が付かないうちに中身が変化しているだろう。実際のところ欽二自身も赤茶けて埃っぽいその村や吊り上った目だけが光っていた農夫が本当にいたのか最早定かではないのだけれども。
「おまえと会うちょっと前だったのかな……南京から四日行程ほど行ったところだったっけ。見たところ何てことないような村だったから、小隊長は便衣隊なんかいねえよって無防備に入って行きやがったが、俺はいやーな予感がしてたんだ。掘っ立て小屋の中からこそこそこっちを見てる奴らの様子も、違うんだよ。ちょっとした物音が俺の第六感にびんびん来るんだ。……ひとあたり村の中を見て回って、あやしそうな小屋や積み藁の中を銃剣で突っついたりしたんだが、変な感じは収まるどころか、首のあたりが強張って来やがった。誰かにじいっと見られて、いや、間違いなく誰かが俺の頭に照準を合わせているんだ」
そこで彼はいったん言葉を切って、自分の左の後頭部を人差し指で突いてみせた。
「そう思ったら、もうだめだ。そっちの方が見れない。首をちょっと振ることができないんだ。村はずれの小川、その向こうにある短い土手がさ。そこだけ妙に影が射しているような。……下手に騒ぎ出せば俺に照準を合わせている奴はそうっと銃爪を引くだろう。そうすりゃおしまいだ。黄色い地面があっという間にぶつかってくる。身体はなんともない、ちいちゃな赤黒い銃創が頭のどっかにあるだけ。……脳みそを撃ち抜かれるって、どんな気分なんだろう。意識が吹っ飛んで、おっちんじゃうまで意外と長いんじゃないかって、そんなバカなことを考えてたよ。……その村を出てもその日一日中、首の強張りは取れないんだ。臆病じゃあない。あの戦争で、何日も飲まず食わずだったり、無茶な突撃をさせられたり、同じ部隊の連中が病気でコロコロ死んでも、俺はそう怖いと思わなかった。死と隣り合わせの毎日だったが、慣れてしまえばどうってことはない、友だちみたいなもんさ。たぶん他の連中も似たようなもんだったろう。暗い目をしてるくせにケラケラ陽気だったからな。……ただあの時の首の強張りだけは、間違いなく自分だけのものだ。あんな底なしのものは真っ平ごめんだ」
宇八は黙ったままタバコ(彼はわかばを愛用していた)に火を点け、それにつられて欽二もハイライトを取り出した。
「……その後もさ、たまにだけど、狙われているような気がすることがあるんだ。あの土手からさ。変に早く目が覚めた時とか、紫陽花がきれいだなって目を留めた時とかに、後頭部に照準がピタリと合っているのが判るんだ。首筋が強張って、そっちを見れないんだ」
自嘲気味にそう言って、ようやく点いたタバコを浅く吸う。
「紫陽花は俺も好きだな」
埃っぽい窓ガラスに煙を吹きかけながら宇八がそう呟いて、自分の目を見た目つきの中に憐れみのような色があるように欽二は感じて、ほんの一瞬だが、激しい敵意のような感情を覚えた。……このお決まりの話をする習性が墓場まで持っていくと決めている体験と結びついていることに(自分ですら最近そのことに気づいたのに)この風変わりな友人はとうに見抜いているような気がしたからだった。しかし、欲しいのは憐れみじゃない、救いですらないんだ。
そうした感情がもとになって、更に話題を変えるために唐突に難じるように言ってしまった。
「だからさ、おまえさんは何がしたいんだ? そこんとこはっきりさせて、いい加減落ち着かないといかんだろって言ってるんだ。奥さんも子どももこれからって時に。もういい年なんだから。……一体何が」
そういう友人の気持ちを全く顧慮することなく、宇八はバナナを剥きながら言い出した。
「おい、この間の佐藤さんの会見、どう思った?」
「は?……どうって、テレビカメラだけでぽつんとやったあれか? さあ、新聞記者がよほど嫌いだったんだなとは思ったが、最後っ屁としてもちょっとおとな気ないような」
何でそんな話になるのか、別に話を逸らしているわけではなくて、こいつの頭の中ではちゃんと繋がっている。それは「話を逸らすなよ」と言うと、瞬時に反論が返ってくるからわかっている。ただ、それが一回も腑に落ちたことがないから、もう怒らないし、訊かないだけだ。
「違うんだな。あれは日本のテレビがいかに遅れているかを現わしているんだ」
「はあ」
「はあじゃないって。いいか? アメリカが、アメリカがって言うのはバカの証拠だが、アメリカじゃケネディ以来、政治家はいかにテレビで演技するか、テレビはテレビで政治家をどう視聴者に見せようか知恵を絞って、丁々発止やってるって時代にだ、テレビはありのままを映してくれるから好きだって言う首相と、はいそうですかとカメラ1台だけおいて出てくるテレビ局と来たもんだ。なんとも呑気な国じゃないか?」
テレビ映りが大統領選挙の結果を左右したというような話を聞いたかすかな記憶はあるが、民主主義の堕落のようにしか欽二は感じなかった。そうした考えを見透かしたように言う。
「民主主義が発達すればそうなるのは当然なんだ。マスコミが作り出す意見が世論であり、マスコミが悪と決めたものが悪なんだ。日本もいずれそうなるさ。古代ギリシャ以来の法則だからな」
戸惑ったような表情を浮かべている欽二をおもしろそうに眺めている。
「おまえ、まさか民主主義イコール良い政治なんて前提を持ってないだろうな。そんなのを持ってると、何にも見えないぞ。『ソクラテスの弁明』くらい読んだことあるだろ? あれを読んでいれば俺が言うことは分かるはずなんだが」と面倒くさそうに言った。
「古代ギリシアにマスコミなんてあるのか?」
「あはは!」
友人の常識的な疑問に間髪入れずに哄笑をもって返す。それがつまらない人間との付き合いを断つ最善の方法だと宇八は常日頃、嘯いている。
「あるさ、もちろん。新聞やテレビがなくても、民主主義があればマスコミはあったに決まってる。広場にいる民衆の一人一人が自分の考えを持っていたとでも思っていたのか? 政治家でも演説家でも何でもいいんだが、そういう壇上の人間に観客席から声援を送ったり、攻撃したり、扇動する奴。頼まれもしないのに、同調したり、阿ったりする合唱隊。……それがマスコミでなくて何なんだ?」
「相変わらず、見てきたようなことを言うんだな」
「見えない方がおかしい」
煙に巻くようなことを言って、ザ・ピーナッツの『恋のフーガ』だかなんだかを鼻歌で歌っている。自分で始めた話のくせに取り付く島もないじゃないか、こいつとしゃべってるといつもそうだと、欽二は思う。
「今日はバナナをご馳走になったから種明かしをしてやろう。おまえは市場調査が大事だと言った。だから民主主義の話をした。そして、中国の話をしたからアメリカの話に絡めてみた。これまでの日本はアメリカに振り回されてきたし、これからは中国にも振り回されるだろうと思ってな」
仲林欽二はとりあえずこいつがペテン師なのは間違いないと思った。
KYRIE
Kyrie eleison.
Christe eleison.
Kyrie eleison.
キリエ
主よ、憐れみを。
キリストよ、憐れみを。
主よ、憐れみを。
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