act.1 始まりの地下牢
遡ります。
*改稿しました。
不自然な箇所がないよう、誤字など修正しました。
赤い光。
高い天井に一つだけある小さな窓から差していた光が小さくなっていく。
いつから、何回、この光景を眺めていただろう。
建物の西側に作られた薄暗い地下牢は、夕方になる時間帯だけ太陽の光が差していた。
その影に一人の少女が、薄汚れた肌着同然の服と痩せ細った手足を投げ出して横たわる。
小さな体躯は垢にまみれ、赤色、というよりは真紅に近い髪は手入れなど全くされず、無造作に伸ばされていた。
昔は清潔にされていたベッドや机はある時を境に撤去され、トイレは滅多に掃除されず、人が生活する場とは思えない惨状だった。
人として生きることも許されなければ、自死を選ぶ事もできない。
ーーだったらもうどうなったっていいや。
何も考えたくない、それに考えさせてもくれないだろう。
答えてくれる人もいないのだからーー 。
*
物心ついた時、まだ清潔な地下牢の一室で目を覚ましていた時、一人の立派な服を着た初老の老人が毎日のように地下牢に来ては少女に話しかけ、童話や神話を語っていた。
老人は少女に言葉や歴史を教えた。
人としての倫理観や住んでいる国や崇める神の事、「普通」の事を少女は教わった。
変わった事と言えばひと月に一度、診察だと、老人に渡された粉末を流し込まねばならず、その後二日ほど眠りにつかされる事ぐらいだった。
…今思えばこの行為は老人にとっての優しさだったに違いない。
老人は少女が疑問に思う事はなんでも答えてくれた。
ふと疑問に思って、あなたは誰なのか、私は何なのか、と質問したら困ったような顔で皺を深めて笑っていたのが懐かしい。
そんな風に、何も考えずに過ごしている日々を繰り返す。
ある日、いつもと様子が違う、焦燥した老人が地下牢を尋ねてきた。
どうしたの?と聞くと、真剣な目で老人は少女の前に立ち、口を開く。
「可哀想にメリア、君は『アリス』を顕現させる為のシステムの一部に過ぎない。
ーー栄誉な事だ。
『アリス』で世界が変わるのだから」
言葉が理解できず、不安な表情を浮かべ老人を見ると、老人が自分を見ている目が、普段自分をどう見ていたか、理解する。
ーーわたしは可哀想だったのか。
その後、老人は知りたい事も聞きたい事も何も教えてくれなくなった。
悲しそうな顔で少女の頭を撫でると、その日を境にパタリ、と地下牢へ来なくなった。
暫くして、また人が訪れるようになった。そこで私は生きることの「痛み」をはじめて知る事になる。
夢も希望も童話に出てくるような白馬の王子様もいないと、思い知らされる事になるーー 。
*
ーーこのまま死んでいた方がいい。ずっと痛いくらいなら。
少女は小さな体を捻り、冷たい布切れの上で寝返りを打つ。
夕暮れの中、遠くで鐘が鳴るのが聞こえる。
……そろそろくる。
暫く呆けていると、複数の足音が狭い地下牢の上の方から響いてくる。
これから起こる事を考えると今すぐに意識を失う方法は無いかと少しだけ考えるくらいには人間としての機能が失われてない事を実感する。
その足音とぼんやりとした蝋燭の薄明かりが鉄格子の前まで来ると同時にガシャン、と音共に錆びた扉が開いた。
「兄上、これはなに?」
薄暗い地下牢には不似合いな、異質な幼い声が地下牢に響く。
「カイル、お前もゼハルの子息として教えておかなければならないと思ってな。
…メリア、挨拶をしろ。」
名前を呼ばれ、視線だけを動かす。
老人が「家族」だと呼んでいたものーー 顰めた面を隠そうともしない、上等な服を纏った栗色の髪の青年が一人と、自信なさげなライトブラウンの髪をした幼い少年が一人、牢屋の中へと入ってくる。
その後ろには使用人らしき者が三人程控えていた。
少年以外の顔ぶれはいつもと変わらない。
声を出そうにも身体を動かそうにも、衰弱した身体は力が入らず、興味もなくぼんやりそれらを眺める。
返事もできずに視線だけを向けていると、青年がわざとらしく足音を立てて近づいてくる。
目の前まで迫ると、容赦なく少女、ーーメリアの薄い腹を蹴り上げた。
「…ッ…!」
痛みで呼吸を乱すが言葉は出てこない。
「聞こえないのか? 挨拶をしろと言ったんだ」
今度は頭を踏みつけられる。
ゴリ、と鈍い音共に額が軽く切れたのか、石畳に小さく赤い染みができていた。
死んだ目で危害を加えた主を見上げると、怒りで染まった顔が汚らわしい物を見る目でメリアの長い赤毛を掴んだ。
「卑しい腹の子は挨拶も碌にできないのか?貴様のような忌み子、我が家の敷地にいるだけで由緒あるドロシアの地のマナが穢れるというものだ。」
そう言うと、汚いものを払うように投げ出される。
鈍い痛みを堪えてけられた箇所を抑える。
「…父上も何故このような庶子を認知なされたか、理解に苦しむ。困ったものだよ本当に…」
そう呟きながら青年は上質なシルクのハンカチで手を拭いた。
痛みにも顔色を変えずに、ただただ窓の外を見る。
夕暮れの鐘が、毎日の暴力の始まりなのは今に始まった事ではない。
メリアは諦めた顔で不興を買わないように縮こまる。
大人しくされるがままの方が小さい痛みで済むことを知ってからは、なるべく反応をしないように堪えていた。
「さあ、カイル。『ウサギ』の餌をこっちに」
餌という言葉にピクリと体が反応する。
黒いどろりとした鉄臭く苦味の強い液体を思い出す。
ひと月に一度必ず飲まされるそれは、喉を通るだけで痛みを伴った。後の熱や吐き気、幻覚作用が強く、どんな暴力よりもメリアにとっては地獄だった。
…早く終われ。
そう考えていると、オドオドとした少年が、黒い液体の入った瓶を持ちながら近づいてくる。
「あ、兄上、まだ六つにもならないような子供相手にこんなこと…僕には無理です…」
少年の様子に青年は優しく微笑むと少年の肩に手を置き、口を開いた。
「優しい子だなカイル…
だが、いつまでも甘えてはいけないよ、私はまたひと月したら聖都に戻らなければいけない、これからはお前がこの役目を果たす事になる。
父上の言いつけ通りに指定の餌だけを与え続ければ、中央から毎月援助金が入る。
その資金でお前が先に望む、新都での事業開拓も叶うだろう」
「新都にいけるの…!? 本当に…」
少年の瞳が揺らぐ。
だがハッとした顔になると転がる少女に視線を戻し、それを見た青年は短くため息を吐く。
「…父上は今や峠を迎えてる。いつ神に許される日がきてもおかしくはない。
本来ならある程度育ったら西の娼館に売るか、『ウサギ』として魔道具の素材にするつもりだったが、お前が役目を果たすのなら、全て終わったらお前が好きにすればいい。」
「で、でも…… 」
青年は言い淀む少年の手から、貸しなさい、と瓶を取ると、メリアの顎を掴み逃げられないよう固定した。
「…、ッ!」
「戻されたら餌の調達が面倒だ…おい。」
指示を出された使用人が慣れた動きでメリアの鼻を摘まむと、暴れないよう身体も抑える。
そこに無理やり口をこじ開けられ、瓶の口を押し込まれると喉に直接黒い液体を流し込まれた。
……ここで吐いたら3日は動けないくらい殴られる。
痛みや苦味で嘔吐きそうになるのを必死に抑えて飲み干すと、目の前に水差しと麻袋に入った食事を放り出された。
「用は済んだ、行くぞ。いつまでもこんな所にいたら本当にマナが穢れるな…」
暫く唖然とこちらを見ていた少年は青年に連れられ、去っていく。
少年がチラチラとこちらを振り返り何かに魅入られたように笑みを浮かべ、こちらを見ていたように見えたが、それが現実なのか幻覚なのか、メリアには判別ができなかった。
…やっと今日は解放される。
ぐらりと視界が歪む。
安らかには眠れない2日間が始まる。
何も知らない少女は、意味すらもわからず、熱と痛みで声が枯れるまで呻いた。
まだメリアは何も知りません。