木の芽時
今朝、赴任先の事業所の掲示板に人だかりができている。この時期に掲示板といえばサラリーマンの宿命である辞令だ。住み慣れた職場から突然の上からの異動命令、それが栄転であろうと左遷であろうとサラリーマンというのは上からの命令に絶対服従の運命にあるので、自分の名前が載っているか血眼になって探すのだ。
ここに来て三年目、そろそろ私にも来るのであろうが私はこの大事な時期に掲示板に見向きもせず、三階の窓から見える芽吹いていない桜を見る。蕾ばかりで一つたりとも芽吹いていない。傍から見れば淋し気であるが、あの桜を眺めると、私はあの時のことを想起させられる。
それはあのおじさんと初めて出会った時候のことだ。確かあの時もこの時期であった。
いよいよ高校から卒業まじかという時、友人からのメッセージが着ると布団の中で眠り込んでいた私は一気に跳ね起きた。
久々だった。携帯の通話アプリから遊びに行こうと連絡が来たとき、私は二つ返事で即座に返信した。体の節々がひどく傷んでいて、一日は布団の中にいたかったはずが、やけどした部分が氷で冷やされたようにすっと消えていった。
待ち合わせの公園に向かうと私の友人は、双眸を私にではなくいつも見慣れてる何でもない桜の樹木に向けていた。
「何見てんだよ」
「あのおっさん、さっきからずっと桜ばっか見てんだぜ。なんも咲いていない桜に」
確かに奇妙であった。
一枚の花弁も開いてないただの桜をただじっと、まるでおじさんの周囲の時間が静止したかのように桜の芽を凝視していた。おじさんは今はなき野球球団の野球帽をすっぽりと被り、白い無精ひげを生やしている。両腕は後ろに組んで腰を守ろうとしているので、もう六十は優に超えているのがよくわかる。
動くことさえも何もしないというのが、芽吹いていない桜と相まって不気味さを演出している。私は不安になりながら友人に場所を変えるか聞いた。
「場所変える?」
「……どうせなんもしてこねえよ。ただの電柱だと思えばいいじゃんか」
友人が何でもないさと言いたげに、白黒の玉が紙やすりのような砂の上を削られながら転がり蹴っていく。サッカーボールを交互に蹴っては打ち返しと繰り返していくうちに、体に爽快な汗と高揚感が満たされていく。昨日まで研修という名の肉体労働をしていた時とは異なる幸せな感触だ。
私は卒業後そのまま就職するので、会社から入社までに研修に入っていた。私のいた高校はバイトが原則禁止だったので、仕事とというものに就くのは初めてであったがこれがなかなか体に堪えた。工場に響き渡る機械音の中で、八時間も同じ作業を繰り返す。学校のチョークがこすれる音と教室でクラスメイトの話し声しか聞えない日常で過ごしてきたのが、一変した環境の中に投げ込まれて学校の勉強よりも酷く疲れた。
だからであろうか、この静かな公園で、友人の声とボールを弾く音しか聞こえない環境はとても幸福に感じられるのだ。いつもしていたことのはずなのに、この感覚がこんなに幸せなのだと。これは錯覚なのだろうか、でも私は夢中に蹴り続けた。
「お前さ、たしか大学進学するんだっけ」
「ああ、といっても三流大学だけどな。おまけにほぼ隣の県境にあるから、片道一時間かかるしよ。でも大学進学していたほうが何かと就職に有利だし」
「いいよな大学生活。四年もまた学生できるんだとよ」
「その分、いっぱい勉強と先公にゴマすりしたんだぜ。まあ結局俺の頭じゃ三流大が限界だったけど、な」
返ってきたサッカーボールが勢いよく空中で回転しながら飛んでいく。ぐるんぐるんとサッカーボールの回転する軸が見えると、私はここで時が止まってくれないかと不可能で不可逆的な願望が湧いた。
十月早々に就職が決まったとき、もう勉強も進路も何も考えることもなく、一人先にその後の苦役を味わうこともないのだと内に安堵していた。その分友人が大学受験という苦役にまだいたので、おおいに喜びを現わさなかった。彼の苦役を傍から笑うようなことはしたくなく、暫し疎遠になった。
しかし、私の苦役は卒業一か月前までに持ち越されただけだった。あの作業の後、学校からの帰りとは異なる疲労感と倦怠感が背中にびっしりと染みついていた。学校の時ならあの先生がうざいかった、かったるいと辛さを共有できたが、職場では誰も知り合いがなく、その倦怠感が一日布団の中に捨てれなかった。だから卒業まで僅かという日に、数か月ぶりに友人と遊べるということに私は喜びに打ち震えたのだ。
なのに、この時になって私はもっと友人とこの時間を過ごしたいととても言い出せなかった。友人からすれば一人先に逃れたくせになんて言うだろうが、時が止まってほしかった。
初めて春が来てほしくないと思った。もっとみんなといたい、だが私もすでに就職先が決まっていて、すでに研修という名の仕事が始まっている。彼も大学進学への準備も着々と進んでいるのだろう。私も彼もこうして昼間にサッカーを蹴ることも、遊べることももう二度とないのだなと思うと、喪失感が止め度目もなくあふれ出てきた。
どうか、この時が終わらないでほしいと願った。
結局ボールは止まることはなく、地面に落ちてボールを後逸してしまった。
転々とボールがあのおじさんがいる桜の所に転がっていき、私は恐る恐るまるで猛犬に近づくように腰を低く屈めながら桜に近づいていった。
だが、不思議なことにおじさんに近づいてみると怖ろしさも何もなかった。先ほどの不気味さは一体何だったのか。私はおじさんに何をしているのか聞いてみた。
「あの、何を見ているんですか」
「ええ、桜の開花するのを待っているんですよ」
「まだ開花していないのをですか?」
おじさんはこっくりとうなづいた。すると、またじっと蕾の桜の枝を眺めた。私はボールを手に取ると、拍子抜けたように友人の元に戻っていった。
「何か言われたか?」
「いや、なんも言われなかった。さあつづきだ」
ひとしきり遊び日が西に沈んだころになって帰るころになっても、おじさんはずっと蕾の桜を見続けていた。
満開の桜の下でブルーシートを敷き始める人々が現れたころに、私は入社した会社の花見で再び公園に訪れたがあのおじさんの姿はどこにもなかった。
私は地元の会社に就職した後も、実家住まいで通勤していた。その途上で時折この公園を通っていた。友人とは時間が合わないこともあり、本格的に疎遠になった。公園を通るたびに、子供たちがサッカーをしているときを見ると戻りたい願望が沸き上がる。だが不可能だ。時は容赦なく私を流していくのだから。
現場の仕事から社内の仕事に配置換えされたなどのことがあったが、あわただしく年がまたぐ。三月の本格的な春が来る時期には毎日毎日おじさんは飽きもせず芽が出ていない桜の枝を見続けていた。
そして開花するとおじさんは姿を消した。新入社員の私も消えた。もう入社二年目の若手というレッテルを張られ、社内イベントの雑用係を命じられる番が回ってきた。最初の雑事は私が新入社員の時にあった花見の場所取りだ。まだ夜のうちに場所取りをすべしと上から厳命され、私は苦痛を押しつぶして従うことになった。
花見をする場所はいつもの公園であるので場所を確保するだけであるのだが、同じようなことを考える人はいるものであり、まだ空が白む前の時間なのにブルーシートを敷く人が桜の下を占拠していた。むろんその中にはあのおじさんが見つめていた桜もであった。
重たげな瞼を上げて他の場所を探していると、鈍い音が聞こえた。桜で花見をしていた一人の男が、桜の枝を折ったのだ。しかし男は桜に詫びることもなく、満開であった桜の一枝をまるで戦利品のように何か誇らしくしていた。見れば男のいるブルーシートには桜の花びら一つも落ちてなく、まるで塵芥のようにちりとりでごみに捨てられていた。
なんてことをと腹の中で侮蔑した。別段あれがおじさんの見ていた桜でもなく、ただの桜だ。だが、桜が侮辱と陵辱されてたのにどうしても憂憤してしまった。
私はあのおじさんが蕾の状態で見ていたのにどこかしら合点がいくような気がした。蕾の時にはなにもしなかったのに、いざ咲くとなると手のひらを返したかのように傷つける。そういう輩が集う前に誰もいない咲く瞬間をあのおじさんは拠り所にしていたのかもしれない。
また年が越して、三月のこの季節がやってきた。あのおじさんはまた、この芽吹いていない時期にあの桜を見ていた。またこの時期が来たのだなとまだ三年しか経っていないのに、年中行事と化している。あのおじさんの執念のようなものに、あの時の私はあのおじさんにはなにか畏れのようなもの憑りついているようではないかと思い始めた。
下賤な人々が桜の下を踏み荒らす前に、その下で桜の開花を待ち望む姿。私は尊敬に値した。あの人は春を望んでいるのだ。常に押しつぶされるこの春の時期で、あの人は悠然と待っている。
会社に入ると、掲示板の前で人だかりができていた。追加賞与のお知らせかと少しばかり淡い期待をつくって、飛ぶように人ごみをかき分けて覗き込んだ。そして小さな期待はシャボン玉のようにすぐに消失した。人事異動の張り紙だ。こういう季節なのだからそうであるだろうと薄々わかっていた。しかし、私の名前が書いているのを見みると今度は重い鉄球がぶら下げられた。
引っ越しの準備、人間関係、赴任先の仕事あらゆるその先のことが頭の中で撹拌されてめまいが起こりそうになった。
そんな状態でも仕事を終えて、私は重い体を背負いながら帰路を行っていた。
いつもの公園の淡い蛍光灯の光が見えてくると、遠目にあのくたびれた野球帽を被ったおじさんがいた。おじさんはいつものように開花していない桜を見続けている。
もうすぐここを去るから最後に一つ、話しかけてみるかと、果たして私はまたこの公園に足を運んだのだ。閑寂な公園の蛍光灯の照明は、一人のおじさんと一枚の花弁も花開いてない桜の樹木を映し出していた。おじさんは相変わらず今はなき近鉄バファローズの野球帽をすっぽりと被り、相変わらず桜の芽を凝視していた。まるでそこだけ時間が止まったままのようだ。しかし、おじさんの眉が黒のほかに白い毛も混じっているので、経年を感じずにいられなかった。
ふいに、風がびゅおうと吹きすさみ枝が小刻みに揺れるが、おじさんはまぶたの上に白と黒が入り混じった眉毛を揺らしただけで、瞬きしなかった。暦の上では春で、日中の気温も穏やかな温かさが感じられるが日が没すると真の春はまだ遠いことを私たちは嫌でも教えてくれた。それを知ったうえであのおじさんは震えも凍えもせず、異様な存在を放ち続けている。
蛍光灯が照らすおじさんの顔は、三年前よりも皺が増えていて、帽子から出ている髪の毛も白髪がだいぶ増えていた。けれども、体が経年劣化していても絶えず変わらず蕾の桜を見ていた。
もうあのおじさんもこの見慣れた桜も見られなくなると、空虚な感傷に浸った。消失するわけでもないのに、二十年も見慣れたものが私の方から去っていくのだと、心に一つ寒さが通った。それは高校を卒業する前に友人と最後のサッカーをした時のと似ていた。止まってほしい、この時を止めたいという無常なる感情だ。
私は口元が震えながらおじさんに話しかけた。
「あの、何を見ているんですか」
「ええ、桜の開花するのを待っているんですよ」
「開花するまで毎年何日待っているのですか? 私は毎日見ていますけど、貴方は急にいなくなってしまう」
するとおじさんはひゅーひゅーと歯が抜けた笑い声が誰もいない公園に響き渡る。
「はぅははは。あんた、毎年見ているけどそうか、タイミングが悪かったんだな。なら今年は運がいいわ。ほれ、この桜の蕾触ってみろ。これはたぶんもうすぐ明日の朝あたりに開花するぞ。どうだ一緒に開花の時を見ないか?」
するとおじさんは桜の根の傍に置いてあったカップ酒を一つ私に手渡した。つまみのスルメイカもあった。この人はすでに花見が見られる時期も予測していたのかと圧巻させられた。私はカップ酒を手に取るとアルミの蓋を開けて中の酒をあおった。
「おじさんは、どうして桜の開花を見ようとしたのですか」
「実はな、昔自殺しようと考えてたのだよ。この時期にこの桜で」
それを聞いて私は酒を落としかけた。だがおじさんの話はラジオのように続けられた。
「定年退職前だって言うのに、勤めていた会社が次年度前に大規模な首切りを断行してして。お金とかの問題じゃないんだよな、この会社一本しか知らなくて奉公してきたのにあっさりと首にするんだから、やりきれなかったんだ。まるで長年恋人だった人に結婚までこぎつけたのに別れられたみたいな感じでしたよ。まあ妻にも先立たれてしまっていてさ……」
水のように透き通るカップ酒におじさんは顔を写しながらそう言う。そこにはあの悠然と佇むあのおじさんの片鱗は一切なかった。この先に待つものに諦めた人の顔だ。
この人は春を待っていたのではなかったのか。
「とにかくなんでもいいから首でも吊ろうとしたんだ。だが、クヌギでもスギでもなく桜だった。枝がこんな細いのなぜか桜だった。縄をくくってさあ釣ろうとしたそん時だ、桜の花が咲いたんだ。たったひとつふたつだけだったが、美しいと思ったよ。いつも見慣れている桜なはずなのに……それを見て、この桜は何度も咲く未来があるのに、俺がこの桜を折っちゃかわいそうだなって。そこからまた働いたよ。警備とか、看板持ちとか」
「サンドイッチマンですね」
「そうそれ。年を取るとカタカナ語には弱くて……ああ、ほら見ろあの蕾が咲き始めるぞ」
電飾のような形の蕾の蓋が、ぷくりと五つの片となって頭が割れる。隣の蕾も、隣の枝にある白い蕾も緩やかに白い弁を開けた。そして最初に見た蕾だった花は、中心に立派な黄色いめしべを輝かせて花を咲かせた。それが幾重も開いて重なって、枝に桜が構築されていく。
まるで子供が生まれたかのような瞬間だった。いつも見慣れた桜なのに、見慣れた色と形をしているのに初めて生命の誕生を目撃したかのような高揚が沸き上がっている。
目に光が差し込んだ。それが暁の日であるとわかったのは少し後だった。そして私はただ一心不乱に、桜を見つめていたことに気付いた。なるほど、たしかにおじさんは何でもない人であった。ただ桜の魅力に魅入られた人だった。そして私もおじさんと同じように開花する桜を見つめる人になれたのだ。
もうここを離れてしまうと思いうと目の奥が潰れそうになるが、それを我慢した。
「あと何回、何回咲くのでしょうかね」
「さあねぇ。毎年のように咲いているからまた来年も咲くんじゃないかね。俺また咲くのだろうかと思い悩んだけど、やっぱり咲いたんだよな。台風が来ても、どこかの馬鹿が枝を折ることもしても、春ってのは来るものなんだよな。それがどこでも同じように咲く、見慣れているくせにこの年になって桜とは不思議なものだとつくづく思うよ」
おじさんがカップ酒を底に残ったアルコールを飲み干した。
そうだ、桜はいつも咲いている。桜は常に力強くどこでも、普段は感じ取れない畏怖をまき散らしながら存在している。私の海馬にこの桜と同じものを見るとここの桜を思い起こされるだろう。畏れとは、それほど印象に残るのだ。
私は桜に自分を重ねてみようと思った。どんな苦難があっても、雑多な人物に踏み荒らされてもこの桜のように……出来そうか? いや無理かもしれない。しかし生きるヒントにはなりそうかも。
スルメイカを噛みながら、どれだけ反芻したか忘れるほどだったが、桜と重ねることはできなかった。雄大な桜に、私という人間と重ねるなんて今振り返れば愚かしい行為だった。
ついにこの季節がまたやってきた。あれから私は桜のようになれたか、未だにそれは自分でもわからない。それとも三年前のあれは、やはりただの若気の至りによる背伸びかもしれない。
窓を開けると、ほんのりと柔らかな風が私を包み込み髪が撫でた。春の温もりだ。風ではらりと落ちた前髪をかき上げると、遠くにある桜の枝にポツンと白いものが微かに見えた。私は、また春が来たのだなと感慨深くなる。後ろで同僚が「お前の名前が載っているぞ」と声が聞こえた時私は現実に引き戻されて、みなと同じ感情に入ってしまった。
あのおじさんとまた酒を酌み交わせるのか。また別の所へ飛ばされるのか。引っ越しは? 仕事の引継ぎは? 様々な雑多な物事が頭にのしかかろうとしている。
しかしいずれにせよ。私の中がどうなろうと人の関係がどう変化しようとも、ただ事実として、芽吹いた桜の花というのは美しいのだ。




