かくして密偵は放たれた
アンタルヤ王国は魔の森を抜きにして語ることはできない。なぜならその建国には、魔の森をめぐる事情が深く関係しているからである。
魔の森が生まれる前、そこにはヴァルハバン皇国と呼ばれる国があった。皇国は強国であり、その地域一帯の、いわば盟主的な存在だった。要するに当時その辺りには、皇国に匹敵するような他国はなかったのである。
言い方を変えれば、皇国のほかは小国や都市国家が乱立しているような状況だった。そこへ魔の森と、そこからあふれ出すモンスターの大群という、未曾有の大災害が降りかかったのである。
当初、それらの小国や都市国家群は、それぞれの力でこの大災害に立ち向かっていた。しかしながらこれらの国家には体力がない。対処しようにも限界があり、限界を超えた場合、それはすなわち滅亡を意味した。
実際、暗黒期と呼ばれた、トレント・キングが出現するまでの間に、幾つかの都市国家がモンスターによって滅ぼされ、魔の森にのまれている。人類は弱肉強食の土俵に無理やり乗せられ、そして弱いところから文字通り喰われていったのだ。
自分達の力だけで対処するのは不可能。まず矢面に立たされた小国や都市国家がその結論を出すのに、そう時間はかからなかった。それでそれらの国家はまだ被害を受けていなかった国々に援助を要請した。
その援助要請に、多くの国々は応えた。いま矢面に立っている国々が滅べば、次は自分たちの番。それは考えるまでもないことだ。ならば自分達の国がモンスターに踏み荒らされる前に、他国の領土でこれを食い止める。それは冷徹で合理的な判断であり、同時に必死で形振り構っていられない情勢の表れでもあった。
もちろん、その地方に存在するすべての国家が援助要請に応えたわけではない。中には自国の都合を優先した国もある。それどころか、他国が苦しいのを好機と捉え侵略を行った国もあった。
ただし、それらの国々の未来は決して明るいものではなかった。後者のような国家はまず真っ先に人間の手によって滅ぼされた。そして前者のように協力的でなかった国家は、暗黒期の後に報復として滅ぼされた。そうやって奪われた財は、モンスターと戦い疲弊した国々の復興に充てられたという。
閑話休題。暗黒期に話を戻そう。周辺国の援助が得られたことにより、いわゆる対モンスター戦線は一応の安定を見た。しかしながらそれが薄氷を踏むような状態であることに変わりはない。
事実、それが場当たり的な処置でしかないことは、多くの国々が認識を共有していた。その頃、対モンスター戦線はまだ矢面に立った国々がそれぞれ独自に維持している状態。いわばぶつ切りのロープを並べて何とか一本に見せているかのような、そんな状態であった。
これを結び合わせ、真に一本の線としなければならない。それがまず早急の課題であった。確かに問題は多い。しかし一丸となって事に当らねば未来はない。その危機感が、国々を一つにした。
それらの国々の代表は集まって条約を交わし、協力して魔の森とそこから出てくるモンスターに対処することを取り決めた。後の世に言う、「アンタルヤ大同盟」の結成である。この時初めてアンタルヤの名を冠した組織が誕生し、後には「アンタルヤ王国」へと繋がっていくのである。
トレント・キングが出現し、モンスターの脅威が軽減されても、アンタルヤ大同盟の枠組みは維持された。ただその目的は徐々に変わっていく。最初はモンスターの脅威に対する備えであったものが、外敵の脅威に対する備えに変わっていたのだ。そしてこの外敵とは、主にモンスターではなく人間、つまり他国のことだった。
アンタルヤ大同盟は、少なくとも対外的には、まるで一つの国であるかのように振舞った。そうしなければ他国の脅威に対抗できなかったのである。ただしその内部では、少なからず凄惨な権力闘争が繰り広げられた。
ある意味でそれは、避けられない闘争であったと言えるだろう。本来であれば闘争を経て徐々に器が形成されていくのに対し、アンタルヤ大同盟はまず器が必要になり、そこへ無造作に中身を放り込んだような成り立ちだ。納まりのよい状態へ落ち着くために、摩擦と衝突は避けられない。組織を整えるために、血を潤滑剤として欲するのだ。人間の業の深さの表れと言っていい。
ともかく、そのような権力闘争を経て、徐々に大同盟の盟主とも言うべき存在が浮かび上がってきた。それが現在のアンタルヤ王家、あるいはアンタルヤ王朝である。アンタルヤ王家は徐々に権力を強め、ついには盟主から主君となった。
その経緯については本筋ではないので省く。ただ、いかに至高の座に着いたからと言っても、それまでの歴史的な流れを無視することはできない。つまりアンタルヤ王国が、もともとはアンタルヤ大同盟であった事実は変えられない。その歴史的な事実は、アンタルヤ王国にはっきりと影響を与えていた。
前述したとおり、そもそもアンタルヤ大同盟は魔の森と、そこから出てくるモンスターに対処するために生まれた組織だ。よって大同盟の流れを汲むアンタルヤ王国も、その役目を継承して担っている。
またアンタルヤ大同盟は多数の小国や都市国家が連合することで生まれた。大同盟に加わった国々は、すべて対等な同盟者であったのだ。王国として生まれ変わった後、それらの小国や都市国家は貴族として列せられたのだが、しかしその名残は今でも残っている。つまりアンタルヤ王国は貴族の発言力が強いのだ。
王家の視点でアンタルヤ王国の歴史を見た場合、それは外敵に対処しつつ貴族の力を殺いでいった歴史であると言っていい。拡大した版図と国内に点在する天領はさしずめその戦果。その意味では、アンタルヤ王家はおおよそ上手くやってきたと言っていい。だがしかし、それでも王国における貴族の力はなお強い。
アンタルヤ王国における貴族の力とは、単なる武力や経済力のことではない。もとは対等であったという意識。そして対等であったゆえの制度。これこそが、アンタルヤ王家が目の上のたんこぶと感じている物だ。
アンタルヤ貴族にとって王家とは、要するに国内のまとめ役だ。敬意は払うし、優越性も認めている。しかしその一方で、神聖不可侵とは少しも思っていない。隙を見せれば取って代わってやると思っている貴族家もあるだろう、と王家は信じている。
ただ、それだけならまだいい。程度の差こそあれ、どの国でも似たようなことはあるだろう。アンタルヤ王家が頭を悩ませ続けてきたこと。それは貴族たちの忠誠を保証する制度がないことだ。
より具体的に言うなら、「妻子を王都クルシェヒルに住まわせること」という、いわゆる人質制度がないのだ。これでは貴族たちが簡単に叛乱を起こしてしまえる。それが実際に成功するかは別問題だが、しかし武力蜂起という選択肢を取りやすくなるのは間違いない。王家にとっては頭の痛い問題だった。
もちろんこれまでアンタルヤ王国において、人質制度を明文化しようとした動きは何度かあった。しかしそれはいずれも貴族達の強硬な反対によって頓挫している。貴族達の力を縛るには人質制度が必要だが、その制度を作るためにはまず彼らの影響力を殺がねばならぬ。八方塞りだった。
ただ、これが普通の国家であったなら、アンタルヤ王家は人質制度を成立させていただろう。この場合、時間は王家の味方だ。時間さえかければ何とかなる。これはそういう問題、のはずだった。
しかしアンタルヤ王国の場合、他国とは事情が異なる。魔の森という、災害じみた脅威がすぐ傍にあるのだ。トレント・キングのおかげで小康状態を保ってはいるが、いつ何時どうなるか分からない。
さらに実際問題、モンスターの襲撃がなくなったわけではないのだ。襲来自体は断続的に続いている。そしてその襲撃に対し、実際の対処を担っているのは王家、ではなく魔の森に領地を接する貴族たちだった。
これもアンタルヤ大同盟の名残と言っていい。大同盟の時代から対モンスターの最前線であった場所が引き続き、というかなし崩し的にそのまま最前線として残ったのだ。それが問題視されなかったのは、魔の森が小康状態になったことと、さらに王家と貴族たちの双方にメリットがあったからだ。
王家にとっては、魔の森とモンスターの対処を貴族に丸投げできる。問題は国内外に山積みなのだ。特に外交を担えるのは国家組織をおいて他にない。予算にも限りがある。任せられる問題は、任せてしまったほうがいい。
それにモンスターと戦えば、当然被害がでる。つまり貴族の力を殺ぐことに繋がるのだ。また対処に失敗したなら、その責任を問うこともできる。その時には堂々と国軍を動かして問題に介入できるだろう。
一方で貴族にしてみれば、自分たちで対処している限りにおいては、王家の介入を最小限にできる。そしてなにより、「モンスターへの対処」という責任を負っている以上、それに伴う「権利」を主張できるのだ。
そしてその「権利」を最も上手く使ってきたのが、何を隠そうエルビスタン公爵家である。モンスターへの対処を名目に、公爵家は一大派閥を形成した。当然、その派閥の影響力は国内外に及ぶ。魔の森を上手く使ってきた、と言っていいだろう。
王家と貴族の綱引きは、これまで貴族のほうに分があった。王家は確かに天領を増やして力を増してきたが、同じことは貴族たちにも言える。幾つかの家は滅んだり断絶したりしたが、今日まで存続してきた家の中には、新たな領地を獲得したところも多い。つまり王家だけが力をつけたわけではないのだ。
その上で、アンタルヤ貴族たちは概ね自分達の力を維持し続けてきた。その証拠に、今日に至るまで王都クルシェヒルに人質を置くことは明文化されていない。ただ最近、このパワーバランスに変化があった。
最初の変化は三年前、つまり王太子イスファード率いるアンタルヤ軍がロストク軍に敗北したことによって生じた。この時のアンタルヤ軍はエルビスタン公爵家とその派閥によって形成された軍勢だったのだが、大敗を喫したことにより彼らは大きなダメージを負うことになった。
ただこの敗戦が、直接パワーバランスに影響を与えたわけではない。むしろ大きかったのは、「敗戦の責任を問う」としてガーレルラーン二世がかなり重い処分を彼らに下したことである。
しかもその際、エルビスタン公爵カルカヴァンを筆頭に、派閥の主だった者たちは全てロストク軍の捕虜となっていた。そのため処分に異議を唱えることもできず、大いに力を殺がれる結果となったのである。
余談になるが、魔の森からの防衛を担っている派閥の力を、しかしかまわずに大きく殺いだことから、アンタルヤ王国では小康状態が長く続いたために危機感が薄れていたことが窺える。だからこそ、防衛を名目に力を保ち続ける公爵家を、ガーレルラーン二世は快く思わなかったのだろう。
さて、この一連の仕置きは、王家の力の増大を国内の貴族たちに印象付けた。別の言い方をすれば、貴族達は心理的劣勢に立たされた。王家に対し恐れを抱くようになったのだ。その恐れとはつまり畏怖よりも恐怖に近いもので、それは今後彼らに対し確実に影響を及ぼすだろう。
そして二番目の変化は、つい最近のことである。つまり魔の森の活性化だ。何の前触れもなく、永遠に続くかに思われた小康状態は終わりを告げ、代わりに新たな厄災の日々が幕を開けたのである。
もちろん、アンタルヤ大同盟結成当初の頃と比べれば、かなり事情は異なる。国力が違うし、危機感が薄れていたとはいえ、最前線では備えもされていた。ただ魔の森の厄災の最も恐ろしい点は、終わりがないという点だ。つまりどれだけ備えても、最後にはすり潰される。
それを避けるための方法は大きく分けて二つ。一つは抜本的対策。つまり遠征軍を魔の森に派遣し、そこにあるであろう多数のダンジョンを攻略するのだ。これが成功すれば、魔の森は沈静化するだろう。ただし成功する可能性は限りなくゼロに近い。無謀と呼ぶべき策だ。
二つ目の対策は、継続力の強化。つまり人員や物資を戦線に送り続けてそこを支えるのだ。今までやってきたことを、より大規模に行うのである。そして抜本的対策が事実上不可能である以上、魔の森の脅威に対抗するにはこの方法しかなかった。
しかしながら、モンスターの襲来の規模と頻度が増すにつれ、エルビスタン公爵家とその派閥だけでは戦線を維持できなくなってきた。これには敗戦の責任を問われ、力を大きく殺がれたことも関係している。
ともあれ、このままでは戦線が崩壊する。そう判断したカルカヴァンは、ガーレルラーン二世に国としての支援を求めた。ガーレルラーン二世も魔の森の活性化を重く見ており、この申し出を受諾。手始めに近衛軍三〇〇〇をイスファードに与え、戦線の手当てに向かわせた。
イスファードにとっては、あの敗戦以来、待ちに待った軍事行動である。意気込んで北へ向かった。そして彼の指揮の下、防衛軍は少なからぬ戦果を上げる。この働きにより、彼は敗戦以来の汚名をある程度雪いだと言っていい。
ただ、前述したとおり魔の森の厄災には終わりがない。モンスターの波は次から次へと押し寄せてくる。防衛軍の状況はまた徐々に苦しくなった。そこでイスファードとカルカヴァンは連名で、ガーレルラーン二世にさらなる支援を求めた。
ガーレルラーン二世は先に派遣した三〇〇〇と入れ替える形で、さらに近衛軍五〇〇〇と多量の物資を送った。さらに彼はイスファードに手紙を送り、「他の貴族たちにも支援を要請し、負担を分担させよ」と命じた。
これは事実上、国内で人員や物資を徴発する権限を与えたと言っていい。そしてイスファードとカルカヴァンもそのように解釈した。
二人はすぐさま動いた。それだけ事態が逼迫していたということもあるが、それだけ彼らにとってこの権限は魅力的だったのだ。戦線を維持する上でも、そして派閥の力を増大させる上でも。
イスファードとカルカヴァンは「活性化した魔の森からの防衛」を名目に、国内の他の貴族たちから富を吸い上げた。戦線の維持に必要な分以上を、だ。もちろんある程度の安全マージンは必要だが、そこに三年前の敗戦と仕置きで負ったダメージを回復する意図があったことは明白である。いや回復するどころか、かえって力を伸張させさえした。文字通り遠慮なく、分捕ってやったのである。
あまりに露骨なやり方であったため、当然抗議の声が上がった。ただ、名目が「活性化した魔の森からの防衛」であるために、表立って反対するのは難しい。そんなことをすれば、「国難に際し自己の利益を優先する獅子身中の虫」と呼ばれ、見せしめもかねて一家断絶となるだろう。かつてガーレルラーン二世が見せた苛烈さが、その推測に真実味を与えていた。
王家に対し、付け入る口実を与えてはならない。貴族たちはそう考え、度重なる支援の要請になんとか応じた。しかしその一方で、やはり悪感情は募る。そしてその悪感情の向かう先は決して王家ではなく、王太子イスファードとエルビスタン公爵カルカヴァンの両名だった。
さて、前述したとおりイスファードとカルカヴァンは全国の貴族に対し、支援を要請していた。大多数の貴族はそれに応えたが、実は応えなかった貴族たちもいた。それがネヴィーシェル辺境伯を筆頭とする一派だ。彼らの言い分はこうだった。
曰く「我々もまた、魔の森に対し戦線を維持している。我々も手一杯であり、残念ながらそちらを支援するだけの余力はない」
実際、ネヴィーシェル辺境伯の領地は魔の森と接しており、活性化の影響を受けていた。徴発は「活性化した魔の森からの防衛」を名目にしている以上、彼らの主張には説得力がある。それでイスファードとカルカヴァンもここへ手を伸ばすことはできなかった。
同時に積極的に連携することもしなかった。それでエルビスタン公爵家の派閥とネヴィーシェル辺境伯家の派閥が、それぞれ独自に戦線を維持するような形になった。
困ったのは後者である。支援要請は断ったが、実際のところ支援して欲しいのは彼らの方なのだ。しかしそのアテはない。前者に比べ、維持している戦線が短いので何とかなっているが、このままではジリ貧になるのは明白だった。
何か手を打たねばならぬ。しかし何をすればいいのか、妙案は出てこない。そして唯一実現可能で、かつ実効性がありそうに思えたのが、「聖痕持ちたるジノーファの招聘」だったのである。
かくして密偵は放たれた。懐に書状を大切に仕舞いこんで。後は知っての通りである。
サブタイトルボツ案「あわれな密偵ちゃんが身体中をまさぐられるにいたった理由」




