三年
大統暦六三八年。この年、ジノーファは十八歳になる。ロストク帝国の帝都ガルガンドーで暮らし始めたのが十五になる年だったから、早いものであれからもう三年が経ったことになる。
この三年間で、ジノーファは少年から青年へと成長した。身長も伸び、今ではシェリーよりも背が高い。身体つきも、痩躯ではあるが、しなやかで良く鍛えられている。顔立ちは怜悧さを増したが、瞳の輝きは優しげだ。灰色の髪は相変わらず伸ばしていて、最近ではたまに自分で三つ編みにしたりしている。
さてこの間、ジノーファは自分の誕生日を祝っていない。正確な日付が分からないからだ。アンタルヤ王国の王太子であった頃は、十月十九日が彼の誕生日とされていた。しかしその日付は真の王太子イスファードのもの。国を追われ、身分を失ったとき、彼は自らの誕生日もまた喪失したのである。
自分の本当の誕生日が一体いつであるのか、ジノーファは思い悩んだ。その悩みは深く、究極的には「自分は一体何者なのか」という疑問に根ざしている。一年近く悩み続け、そして出た結論は「分からない」というものだった。
自分のことながらあんまりな結論だ、と、ジノーファは苦笑する。しかし分からないモノは分からないのだ。自分の本当の誕生日も、そして自分が何者なのかも。それを知っているのは恐らく、両親と思っていたガーレルラーン二世とメルテム王妃だけで、今のところその二人を問いただす手段など彼にはないのだから。
『いくら悩んでも分からないのだから、しょうがない』
いつの頃からか、ジノーファは肩の力を抜いて、そう考えられるようになっていた。分からない事は分からないままにして、ひとまず分かる事やできる事に目を向けるようにしたのだ。
そうした時、ジノーファは自分を取り巻く環境が、そう悪くないことに気付いた。大きな屋敷があり、そこを快適に整えてくれる優秀な使用人たちが揃っている。官職にはついていないが、紅玉鳳凰勲章に伴う年金収入があり、さらにダンジョンも近くにあるので、お金には困っていない。
ガルガンドーは大きな都市で、食べ物も衣服も娯楽も、一流のものが揃っている。新たな交友関係も、ここで得ることができた。みんな、気のいい人たちである。冬が寒いのが玉に瑕だが、しかしここは住みよい場所だとジノーファは思っている。
そしてなにより、今は傍に想い合う人がいてくれる。言うまでもなく、シェリーのことだ。彼女は普段の生活でも、そしてダンジョン攻略のときにも、傍にいてジノーファを支えてくれる。
かつてジノーファは自分のことを「空っぽだ」と言った。その彼にシェリーは「ジノーファ様は空っぽではありません」と告げた。「ジノーファ様は大切なものをまた蓄えている最中なのです」、「未来に多くを持っている」のです、と。その言葉に、ジノーファは確かに心を救われたのだ。
以来、シェリーの存在はジノーファの中で大きくなるばかりである。シェリーがいてくれるだけで、彼は心の奥のほうで安心感や安らぎを得ることができるのだ。そしてそれは彼女にとっても同じなのだと、ジノーファは信じている。
(本当に……)
本当に、たくさんのものをここで得た。シェリーの言ったとおりだ。失ったものは確かに大きいが、しかし今となっては、それさえもかすんで見える。
そうやって、過去を過去にできた事の一つの象徴が、誕生日なのだ。過去にしがみ付いていたのなら、ジノーファはきっと意地でも誕生日を祝っていただろう。けれども彼はもう、それに拘る素振りを見せない。むしろ今となっては、「余計な手間が掛からずちょうどいい」と嘯く始末だ。
ただ、誕生日が分からないからと言って歳をとらないわけではない。正確には分からないとは言え、イスファードと入れ替わったのだから、その頃に生まれたと考えるのは自然だ。それでジノーファは自分の誕生日を秋ごろと予想し、秋が過ぎて初雪が降ったころに一歳を加えていた。
ちなみに、実のところそれさえも適当であり、特に三十になった時などは「誕生日が不明だからまだ三十じゃない」と頑強に言い張ったとか。まあ何にしてもいくぶん先の話である。
まあそれはそれとして。ジノーファが帝都ガルガンドーで暮らすようになって以来、ロストク帝国は大きな戦乱を経験していない。
ランヴィーア王国とは同盟が結ばれているし、アンタルヤ王国とは休戦協定の期間がまだ残っている。イブライン協商国はダンジョン開発に力を入れていて、侵略などする余力はない。そのような状況にあって、帝国もまた内政に力を注いでいたので、流血の交渉は起こらなかったのだ。
しかしながら、だからと言って問題が起こらないわけではない。むしろ毎年、いや毎月毎週、大なり小なり問題は起こっている。そしてそれらの問題の中には、ジノーファが関わることになった事件もあった。
その中で最も大きな事件と言えば、やはりダンジョン攻略を目的としたイブライン協商国への遠征だろう。ジノーファが国外へ出たのは、実はこの一件だけ。その後のゴタゴタも含め、強く彼の印象に残っていた。
その他にも例えば水害、洪水があった。被害に遭ったのは地方都市で、そこにはダンジョンがあったのだが、水害の影響で攻略が滞ってしまっていたのだ。そこでジノーファがヘルプとして派遣されたのである。形式としては、以前と同じくダンダリオンからの依頼であり、彼の客将としてジノーファはこの任務に当った。
『この上スタンピードまで起きてはたまらん。頼んだぞ、ジノーファ』
『微力を尽くします』
ダンダリオンの最大の関心はスタンピードの抑制だったが、しかしジノーファの請け負った任務は、ただダンジョンを攻略することだけではなかった。シャドーホールを利用して、多量の支援物資の輸送もすることになったのである。後日ダンダリオンからは「おかげで復興が早まった」と礼を言われたが、これにはリップサービスも含まれているから、何割かは差し引いて考えた方がいいだろう。
それにジノーファの感覚としては、普通に移動しただけ。改まって礼を言われると、少し面映く感じてしまう。もしかしたらダンダリオンはそれを見越して、半分くらいはからかっているだけなのかも知れない。
一方、肝心の攻略だが、こちらは何の問題もなかった。内部の地図がすでにあった分、イブライン協商国のダンジョンの場合よりかなり楽だったと言っていい。初日からエリアボスを三体も討伐して見せて、周囲を呆れさせたものだ。
ただ、それだけなら、記憶には残っても印象には残らなかっただろう。ジノーファにとってこれが忘れられない任務となった理由。それは、彼はこの任務の最中、初めて人を殺したのだ。
(そう、あれは……)
あれは攻略を終え、帝都へ向かう帰路でのことだった。ジノーファたちは盗賊に襲われたのである。ジノーファら三人を除けば、一行は全員兵士と分かる装備をしていたのだが、盗賊たちは数の優位を頼みに襲いかかってきたのだ。
この盗賊たちはもしかしたら、水害のせいで食い詰めた者たちであったのかも知れない。数は多いが戦いなれしておらず、装備も貧相だった。それで一行は大きな被害を出さずに盗賊を撃退したが、この時ジノーファは初めて人を殺したのである。
決して気持ちのいいモノではなかったが、しかしかといって激しく動揺することもない。この世界では、人の命は軽いのだ。ただ、自分が斬った相手の血の臭いだけは、しばらく鼻の奥に残って消えなかった。
とまあ、こんなふうにして、ジノーファはたびたびダンダリオンに頼まれ、客将として働いた。その過程で、特に直轄軍の士官を中心に多くの誼を得ることができ、彼の交友関係は広がった。それもまた、彼の得た財産と言っていいだろう。
さて、ジノーファのプライベートな事柄や、彼の周辺でも同じだけの時間が流れている。まず使用人たちについて。ユスフとカイブを加えたのを最後に、新たな使用人は加わっていない。シェリーを含め、七人の使用人で屋敷の維持管理、そして主人の世話を行っていた。なおこの他に、頼もしい番犬としてラヴィーネが控えている。
主人たるジノーファはおおらかな人柄で、これまでに使用人を殴ったことはおろか、怒鳴りつけたことすらない。それどころか良く礼を言って彼らを褒め、さらには時々ボーナスまで支給している。
『気前のいい旦那様だ』
『ああ。アンタルヤ王国から追っかけて来たかいがあった』
コックのボロネスと庭師のカイブは、そう言って安物のワインを酌み交わしたとか。二人は自分の職場と主人に満足していたし、それは他の使用人たちも同様だ。彼らは気持ちよく、そして意欲的に働いた。
働きやすい職場は、人間関係も円滑になるものなのかもしれない。少なくとも、前向きな気分にはなるのだろう。使用人同士で結婚する者たちも現れた。カイブとメイドのリーサだ。一年ほど前の話である。
多少歳の差はあるものの、それでも常識の範疇だ。もちろんジノーファは二人を祝福した。二人共、結婚後も仕事を続けてくれるとの事だったので、ジノーファは屋敷の一室を彼らのために用意した。
『使用人には、過ぎた待遇かと思いますが……』
『まあ、いいじゃないか。どうせ部屋は余っているのだし』
家令のヴィクトールは苦言を呈したが、それも形式的なもので本気ではない。それに結婚した二人が自分たちで家を持つ場合、リーサはメイドの仕事をやめることになる。信頼できる有能なメイドが辞めてしまうのは、ジノーファにとっても好ましくない。部屋を与えるのは、囲い込むためでもあったのだ。
『これで子供ができれば、乳母としても働けます!』
『気が早いですよ、リーサ』
意気込むリーサを、年上のメイドのヘレナが嗜める。ただジノーファとシェリーの仲は使用人達の知るところであるし、実際にリーサが乳母を務めることになる可能性は決して低くない。あとはタイミングの問題であろうか。ともかくジノーファは聞かなかったフリをした。
次にダンジョン攻略の話をしよう。イブライン協商国でスタンピード抑制のためのダンジョン攻略を行った後、ジノーファたちはすぐさま下層の廃墟エリアに向かった、訳ではなかった。ダンジョンの窓口を介してダンダリオンから依頼が入ったのである。
曰く『中層で水を汲んできてくれ』
イブライン協商国への遠征では、大量のポーションを使用した。またその三ヶ月弱の間、ジノーファがガルガンドーを離れていたことで、ポーションの備蓄が少なくなってしまったのだ。
いつまた不測の事態が起こらないとも限らず、十分な量のポーションを備蓄しておく事は重要だ。ただ、ポーションを作るためには、ダンジョン内から水を調達してこなければならない。シャドーホールほどその任務に向いた魔法はなく、それで早速、ダンダリオンはジノーファをこき使うことにしたのである。
『それじゃあ、まずは中層だな。しばらく攻略していないから、エリアボスも復活していると思う。気をつけていこう』
『はい』
『了解です』
ジノーファの言葉に、シェリーとユスフは神妙な顔をして頷いた。ただ、二人とも気負いはない。イブライン協商国への遠征では、エリアボス戦を何十回となく繰り返した。そこで得た経験値が彼らの自信を裏打ちしている。
『ラヴィーネも、気をつけるんだよ?』
『ワンッ』
ジノーファが言い聞かせると、ラヴィーネは元気よく一つ吼えて答えた。本当に分かっているのか、いないのか。ジノーファは苦笑しつつ、しゃがみ込んで彼女の頭を撫でた。その首には、鮮やかな紫色の首輪が付いている。
さて肝心の水汲みだが、こちらは何の問題もなかった。ルートは確立済みだし、目的地は中層。加えて、水汲み自体これまでに何度も行っている。失敗するとしたら油断した場合だけだろう。もちろん、彼らは少しも油断しなかった。
唯一の懸念はラヴィーネのことだ。彼女はまだ子狼で、戦力としては少しも期待できない。それで、通常の戦闘はジノーファが傍で見守り、エリアボス戦の時にはユスフが一緒にいるようにした。
当然、それなりに手間がかかる。それでもラヴィーネを連れて来たのは、マナを与えて成長を促すためだ。将来、彼女は頼もしいパーティーメンバーになってくれるだろう。ジノーファはその時が楽しみだった。
ちなみに、ダンダリオンからはシェリーを通じて別の依頼も入っていた。
曰く『久しぶりにドロップ肉が食べたい』
やはりジノーファにとっては他愛もない依頼なので、ちょうど良く手に入れたドロップ肉を、窓口を通じて献上した。屋敷にも持って帰り、美味な料理に舌鼓を打ったのだった。
さて、一ヶ月ほど中層で水汲みを繰り返した後、ジノーファたちは下層の廃墟エリアの攻略を再開した。彼らは焦ることなく丁寧に攻略を行い、着実にマッピングの範囲を広げていく。しかし廃墟エリアの地図が完成しても、さらに下へ続く通路は発見されなかった。
『行き止まり、でしょうか?』
『聞いたことがないなぁ……』
ジノーファたちも首をかしげる。ともかくもう少し詳しく調べてみようということになり、彼らは廃墟エリアの探索を続行した。そしてその中でまた、意外なことが起こる。ラヴィーネが魔法を覚えたのである。
いや、それが魔法であるのか、実際にはよく分からない。ただラヴィーネは確かに新たな特技を習得した。彼女はなんと、マナスポットを識別できるようになったのだ。これはジノーファが妖精眼で確認したので間違いない。
とはいえ、このパーティーにはもともとジノーファがいる。それで恩恵という意味ではそれほどなかった。ただ、その意義は大きい。妖精眼に類似した魔法を、ジノーファ以外でも習得が可能であると、図らずも証明したのだ。尤も、報告を受けたダンダリオンは「獣に先を越されたか」と苦笑していたが。
そしてこの特技(魔法)のおかげなのだろう。廃墟エリアからさらに先へ進むための通路を発見したのもラヴィーネだった。
その通路は、ある一軒屋の廃墟の地下室にあった。一度調べたことのある場所だったが、壁で隠されていたのだ。当然、見ただけでは分からないし、風が吹き込んでいるわけでもない。周囲のマナ濃度に差があるわけでもなく、妖精眼でも識別できず、今までは気付かなかったのだ。
その隠し通路を、ラヴィーネが見つけたのだ。おかげでジノーファたちは先へ進むことができるようになった。廃墟エリアを抜けた先はまだ下層だったが、今はすでに深層へ到達している。およそ半年前のことだ。
さすがに深層のモンスターは強い。基本的なスペックもそうだが、魔法と思しき特殊攻撃の使用頻度が高いのだ。加えて、往復するだけでかなりの時間がかかる。それでジノーファたちはゆっくりと攻略を進めた。
一度だけ深層のエリアボスと戦ったが、激戦だった。敵は三面六臂の鎧武者だったのだが、その連続攻撃や特殊攻撃にジノーファたちは苦しめられた。最終的には、腕を半分斬りおとし、連続攻撃の圧力を削いでから止めを刺した。
そしてこの鎧武者の魔石からマナを吸収したことで、シェリーが成長限界に達した。この時は分からなかったのだが、次に彼女に魔石を渡したとき、そこからマナを吸収できず、それが発覚したのだ。
『おめでとう、シェリー』
『ありがとうございます。ただ、少し寂しいですね』
シェリーは小さく笑ってそう応えた。彼女が寂しいといったのは、マナを吸収できなくなったことだけではない。彼女は結局、ジノーファの背中に追いつく事はできなかった。
もちろん聖痕を得られるとは初めから期待していない。しかし彼女はもう立ち止まってしまった。これから先、ジノーファの背中はどんどん遠くなるだろう。彼女はそれが寂しかった。
そしてタイミング的には、おそらくこの頃だったのだろう。
シェリーが懐妊した。
シェリーの一言報告書「身長を越されてしまいました」
ダンダリオン「成長期というやつだな」