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弟二人

幕間をもう一話。

次から新しい章です。

 アンタルヤ王国の第一王女ユリーシャが降嫁したのは、ヘリアナ侯爵家という家だ。夫の名前はオルハン。彼との間には、すでに一男一女が生まれている。


 ヘリアナ侯爵家はアンタルヤ王国の建国当初から存在する、由緒正しき家柄である。ただし領地は持たず、そのため固有の武力もまた持っていない。


 ヘリアナ侯爵家の当主は代々、王都クルシェヒルで王立図書館の館長を勤めている。そのため、政治闘争からは常に距離を取っていた。いや、むしろそれに関わることを戒めてすらいた。


 その理由は、ヘリアナ侯爵家が帯びている少々特殊な使命にある。その使命とは「王家の血筋を保全すること」。つまり王家の血を絶やさぬよう、外でその血脈を保つことがヘリアナ侯爵家に課せられた使命だった。つまりヘリアナ侯爵家とは、いわば王家の分家のような存在だったのである。


 ヘリアナ侯爵家の嫡男として生まれたオルハンは、ほとんど生まれながらにして人生を定められていた。すなわち王立図書館の館長を務め、その血筋を残すのだ。武功を立てることも、大臣や宰相として辣腕を振るうことも、領地を豊かにすることも、なにもできない。野心家からすれば、先の見え透いたなんともつまらない人生であろう。


 ただオルハン自身はそれほど悲観してはいなかった。幼少期からの教育のおかげもあり、権力欲というものを彼はあまり持ち合わせていない。また情熱を注ぐ対象として詩歌を見出しており、その方面で彼は高い評価を得ている。彼は彼なりに、ちゃんと生きがいを見つけていたのだ。


 文学に深い造詣を持つ者として、オルハンは王立図書館の館長という仕事にもやりがいを見出している。そして才能を生かせる趣味もある。権力に関わることさえ望まなければ、それほど悪い人生ではないと彼は思っていた。


 そんなオルハンとユリーシャが結婚する事になったのは、言うまでもなくヘリアナ侯爵家の使命が関係している。実はオルハン以前の四代にわたり、侯爵家には王家の直系の血が入っていなかった。そのため、いわば血を濃くするために、ユリーシャが輿入れすることになったのだ。


 ただ、それは理由の一つでしかない。何しろユリーシャは第一王女。他国の王妃となってもおかしくない。だが現在、アンタルヤ王家には彼女のほかにイスファードしか子供がいない。つまり彼に何かあった場合、ユリーシャが国外にいると王位継承の問題が面倒なことになる可能性が極めて高いのだ。


 かといって、国内の有力貴族のもとに降嫁させた場合、その貴族が王家の外戚となって権勢を求める事は目に見えている。それはイスファードが王権を得たとき、治世の障害になるだろう。


 それで国内の貴族で、なおかつ権力闘争からは距離を取っているヘリアナ侯爵家が選ばれた、というわけだ。こうしておけば、外戚がイスファードの治世の妨げになることはない。また彼に万が一のことがあった場合も、ユリーシャの子供を王座に据えれば血筋の正当性は確保される。


 以上から分かるように、ユリーシャとオルハンは政略結婚である。個人の意思よりも、王家や国の都合が優先された。そのことに関して、ユリーシャは特に思うところはない。むしろ王族として正しい姿だと思っている。


 それどころか、政治闘争から離れていられる今の生活を、ユリーシャは存外気に入っている。夫のオルハンは結婚前から知らない仲ではなかったし、彼の人柄もユリーシャにとっては好ましい。子供も生まれ、彼女は穏やかで静かな生活を送っていた。


 しかしながら最近、彼女は悲しげに遠くを見つめたり、物憂げにため息をついたりすることが多くなった。その原因は二人の弟。一人は最近になって血の繋がった弟であることが公表されたイスファード。そしてもう一人は最近になって血が繋がっていないとされたジノーファである。


(本当に、哀れな子たち……)


 ユリーシャはそう思わずにはいられない。二人と関わる、あるいは関わった者として、彼女のその想いはひとしおだった。


 一般的に言って、多くの人が哀れと思うのはジノーファの方だろう。アンタルヤ王国の王太子として育てられながら、実はその全てが嘘であった。絶体絶命の戦場で殿を命ぜられ、それを必死に生き残ったというのに、捕虜となった彼は「王太子の身分を詐称した」として見捨てられたのである。


 アンタルヤ王国とその王家は、ジノーファを使い捨てにして、その働きになんら報いることをしなかった。イスファードが王太子として冊立されると同時に、ジノーファは全てを失って国外追放とされたのである。それを「哀れ」と言わずして何と言えばよいのか。王家の血を引き継ぐ者として、ユリーシャは胸の詰まる想いだ。


 そして同時に、胸を詰まらせることしかできない己の無力さをユリーシャは嘆く。ジノーファが追放されたときのことは、衝撃が大きすぎてユリーシャはあまりよく覚えていない。なにも考えられないまま、ただただ微笑みの仮面を被っていた。微笑を浮かべることしか、彼女には許されなかった。


(何も、できなかった……)


 いや、何もしなかった、というべきか。その想いはユリーシャに重く圧し掛かる。そしてさらにこう考える。王家は、そして自分は、ジノーファになにかしてやれたのだろうか、と。


 王太子として育てられていた頃から、ジノーファは決して幸福ではなかった。外から見れば恵まれた環境ではあっただろう。衣食住に困らず、最高の教育を受け、皆から傅かれて育った。けれどもたった一つ、両親からの愛情だけは、注がれることがなかった。


 ガーレルラーン二世やメルテム王妃がジノーファにどんな眼を向けていたのか、ユリーシャは良く覚えている。あれはモノを見る眼だ。まるで記号か、あるいは人形か何かのように扱っていた。メルテム王妃に至っては、憎んですらいただろう。


 当時は不思議だった。待望の男児であるはずなのに、なぜそこまで邪険にするのか、と。今ならば分かる。あの二人にとって、ジノーファは確かにモノだったのだ。メルテム王妃の憎しみも、愛するイスファードを手元に置けないゆえだろう。


(本当に……)


 本当に、身勝手だ。ユリーシャはそう思う。イスファードを外に出したのはあの二人の都合で、ジノーファを王太子に仕立てたのもあの二人の都合だ。そしてジノーファを排除したのも、彼らの都合。徹頭徹尾、自分達の都合で物事を見、そして進めている。王族らしい傲慢さだ。


 そしてその傲慢さ、あるいは身勝手さというものを、恐らくはユリーシャもまた持っている。


 ユリーシャはある意味で、ジノーファと似ている。アンタルヤ王国では、王位継承権順位で男性が優先される。つまりジノーファが、いやイスファードが生まれた時点で、彼女の継承権順位は一つ下がり、実質的に次期女王として期待される事はなくなった。


 だからなのかもしれない。ユリーシャがジノーファのことを構うようになったのは。つまり、両親から注がれる期待や愛情が減ったその分を、穴埋めするための代償行為だ。当時、そこまで冷徹な思考があったわけではないが、今思い返してみて、それを否定するだけの材料がユリーシャにはなかった。


『あまり、そう自分を卑下するものじゃないよ。少なくともジノーファ殿は、君が傍にいてくれて良かったと思っているんじゃないかな』


 ユリーシャが後ろ向きの思考に囚われていたとき、そう言ってくれたのは夫にしてヘリアナ侯爵のオルハンだった。こうして話を聞き、そして慰めてくれる夫の存在が、今のユリーシャにはありがたい。


 さらにオルハンは詩歌の関係で、あちこちのサロンに出入りしている。また彼は口が堅い。それで彼のもとには自然と多くの情報や噂話が集まってくる。その中にはユリーシャが知りたがっているジノーファに関する情報もあった。


『ジノーファ殿はロストク帝国の帝国騎士に叙任されたらしい。名誉職だけど、これで身分は安定したね。屋敷と年金が与えられたというし、ガルガンドーにはダンジョンもあるから、生活に困る事はないだろう。ただ、ダンダリオン一世はジノーファ殿を飼い殺しにするつもりだとも言われているよ』


 そう教えてもらったとき、ユリーシャは涙が出そうになった。ジノーファを哀れに想う気持ちは変わらない。彼に対しては、罪悪感すら覚える。それでも彼は居場所を得た。飼い殺しだろうが何だろうが、そこが彼にとって暖かい場所となることを、ユリーシャは願わずにはいられなかった。


 さて、もう一人の弟イスファードについても語らなければならない。実のところ、ユリーシャにとってより気懸かりなのは、ジノーファよりイスファードのほうだった。


 誕生日のパーティーで初めて姉弟として顔を合わせて以来、イスファードは頻繁にユリーシャのもとを訪ねてくるようになった。降嫁したとはいえ、彼女は王都クルシェヒルで暮らしている。弟が姉を訪ねてくるのは、なんら不思議なことではない。


 しかしながらイスファードがある種の不安や焦燥を抱えていることに、ユリーシャは気付いていた。彼の抱える不安や焦燥を一言で説明する事はできない。幾つもの要素が重なり、そして絡まっているからだ。


 最も大きな要素は、やはり王太子としての自分の将来に対する不安だろう。イスファードは王太子としての最初の大きな事業、つまりロストク帝国への対外遠征で失敗した。出だしで大きく躓き、しかもそれを挽回できていない。周囲からの評価は冷ややかで、オルハンが集めてくる情報もそれを裏付けている。


 今のところ、ガーレルラーン二世もメルテム王妃もイスファードのことを擁護している。そしてそうである以上、表立って彼を批判するものはいない。しかし「人の口に戸は立てられぬ」というし、そういう空気を彼自身が感じ取っているのだ。


 それはイスファードが行った最近の人事にも現れている。もちろん彼が行える人事の範囲など限られているのだが、逆を言えばその範囲で彼はかなり露骨な人事を行った。メイドを含め、自分の周囲に仕える人間を、エルビスタン公爵家から連れて来た者たちで固めたのである。


 信頼できる者たちを傍に置くのは、何も間違ってはいない。ただ繰り返すが、彼の場合それが露骨だった。気心の知れた、悪く言えばイエスマンだけで周囲を固めてしまったのだ。そうやって集められた側近たちが、ユリーシャには弟が自分の心を守るために作った人の石垣のように見えた。


(褒められたことではないと、そう思いはするのだけれど……)


 そう思いつつも、ユリーシャはイスファードの人事を頭ごなしに否定する気にはなれなかった。あそこは、王宮は冷たい場所だ。気温のことではない。人の心のことだ。そんな場所で生きなければならないイスファードが味方を欲するのは当然のこと。少なくともその心情は理解出来てしまうので、彼女としても忠告に二の足を踏んでいるのが実情だった。


 ユリーシャの想いは別として、この人事にはさらに別の意味もあった。そしてそれは、イスファードが不安や焦燥を覚える二番目の要素とも関係してくる。その意味とはすなわち、「ジノーファを知る者の排除」だ。


 イスファードはジノーファに劣等感を覚えている。それが不安や焦燥に繋がっているのだ。本人は断固として否定するだろう。しかしユリーシャの目から見てそれは明らかだった。だからこそ、彼と比べられないよう、彼を知る者たちを遠ざけているのだ。


 また最近、イスファードはダンジョン攻略に精力を傾けている。それも劣等感に突き動かされてのことだろう。ジノーファといえば、その代名詞となるのはやはり聖痕(スティグマ)。それで自分も聖痕(スティグマ)を得られれば劣等感から解放されると思っているのだ。


 その考えは間違っていない。しかしそもそもの前提として、聖痕(スティグマ)を得るのは奇跡だ。大抵の人間はその前に成長限界にぶつかる。聖痕(スティグマ)を得ることなく成長限界に達したとき、イスファードの心は一体どうなってしまうのだろうか。ユリーシャは心配だった。


(きっと……)


 きっと、絶望するのだろう。ユリーシャはその様子を容易く想像できた。そしてその場合、弟のことではなくまず国のことを考えてしまう自分は冷たい人間なのかもしれない。彼女はそう思った。


 ただ、絶望すると決まったわけではない。成長限界に達するにしても、あと数年はかかるであろう。その間にイスファードが何か拠り所となるモノを、確固としたモノを得ることができれば、その時が来ても絶望せずにすむかもしれない。


 ただユリーシャはそれを自分が与えられる自信がない。そしてなによりイスファード自身が、いまだ不安定な精神状態にある。


 イスファードは自分の血筋に、心のどこかでは疑義を抱いているのだ。つまり自分が本当にガーレルラーン二世やメルテム王妃の子供であると、心の底から信じ切ることができていない。それが不安や焦燥に繋がる、三番目の要素だ。


 この世界において、親子の絆を証明するのは、一緒に過ごした時間と注がれた愛情だけ。イスファードはそのどちらも与えられてはいない。ただ「我が子である」というガーレルラーン二世の言葉だけが、彼の血筋を保証している。


 父王の言葉だ。疑うことは許されない。当然、イスファードもそれを信じている。いや、信じているものとして行動しなければならない。だからこそ不安は燻るのだ。「自分は本当に王子なのだろうか。いずれは自分も放逐されるのではないだろうか」と。


 エルビスタン公爵家の公子であったころ、イスファードは「自分は本当に王子なのだろうか」と悩んでいた。そして王太子となった今、しかしまったく同じ不安を燻らせている。傍から見れば滑稽なことだろう。しかし本人にとっては、アイデンティティに関わる問題なのだ。


 だからこそ、イスファードはユリーシャのもとを頻繁に訪れるのだ。まるで姉弟の絆を確認するかのように。王女ユリーシャの弟として、王族としての自分を確立しようとしているのだ。


 それを意識的にやっているのか、それとも無意識のことなのか、ユリーシャには分からない。けれども必死に自分の弟であろうとするイスファードを見ていると、彼女は彼が哀れに思えてならなかった。


 そして今日もまた、イスファードはヘリアナ侯爵家邸にユリーシャを訪ねてきた。何か用事があるというわけではない。ただ話をしにくるだけだ。大抵の場合、イスファードが自分のことを話したがるので、ユリーシャは聞き役に徹することが多かった。


「……この前戦ったエリアボスは強敵でした。巨躯を持つ黒いオーガで、まるで鉈のような剣を振り回していました」


「まあ、恐ろしい」


「ですが私たちの敵ではありません」


 そう言ってイスファードは自分たちがいかに勇敢に戦ったかを誇らしげに語った。ユリーシャは相槌を打ちながらその話を聞く。そして話が一段落したところで、彼女はこう切り出して話題を変えた。


「そうだ、イスファード。兎肉を使ってミートパイを作ったの。良かったら、食べてみて」


 弟の名前を呼んで、ユリーシャはそう言った。彼からどうしてもと言われたので、最近こういう非公式の場所では名前を呼ぶようにしている。必死になって家族の絆を求めるイスファードの願いを、彼女は無下にはできなかった。


「本当ですか、姉上!? ぜひいただきます」


 兎肉のミートパイはイスファードの好物。人づてにそう聞いたので、今日は作っておいたのだ。笑顔を浮かべて喜ぶイスファードに微笑を返し、ユリーシャはミートパイを切り分ける。


「美味しい! 絶品ですよ、姉上!」


 ミートパイを一口食べると、イスファードは歓声を上げた。それを聞いて、ユリーシャもホッと胸を撫で下ろす。


「良かった。今日みたいに前もって連絡をくれれば、また作って上げられるわ」


「そのことなのですが、姉上」


 そう言ってイスファードは真剣な面持ちを見せる。そしてさらにこう言葉を続けた。


「近いうちに、全国の巡視へ赴くことになりました」


 彼の行う巡視は、決してただ見て回るだけのものではない。問題があるならそれを指摘し、さらに解決の方策を考え、それを報告するのだ。場合によっては陣頭指揮を取ることもあるだろう。それが、将来王座につくための準備である事は、ユリーシャにも一目瞭然だった。いよいよ彼も王太子として実績を積み始めるのだ。


 当然、一月や二月で終わるようなものではない。数年単位の時間がかかり、同時に別の事柄も行っていくような形になるだろう。もしかしたら、ファティマとの結婚式も、その期間中に挙げることになるのかもしれない。


 ただ何にせよ、これからイスファードは忙しくなる。今までのようにユリーシャを頻繁に訪ねることはできなくなるだろう。彼はそのことを姉に詫びた。


「謝ることではないわ。わたくしはクルシェヒルしか知らないけれど、国中の様子を自分の眼で見ておく事は、きっといいことだわ」


「はい。母上も、そう言っていました」


 全国巡視は何度かに分けられ、その度に一度王都へ戻ってくるのだと言う。その時には必ずまた会いに来るとイスファードは言った。


「土産話を楽しみにしていてください」


「ええ。待っているわ」


 願わくは、この旅でイスファードが何かを掴めますように。ユリーシャは胸の奥でそう祈った。


イスファードの一言日記「姉上は料理上手」

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