ラヴィーネ
ランヴィーア軍の司令官アルガムが思い通りにならない状況に苛立っていた頃、商都ミストルンでは評議会議員のルイスもまた同様の悩みを抱えていた。もっとも、彼の方はまだ救いがある。
ルイスのもとには様々な報告が届けられていた。悪い報告が多いが、しかし中には良い報告もある。その一つはロストク帝国に派遣している、イブライン協商国の大使からのものだ。
『……ランヴィーア王国に要請されて援軍を派遣したものの、ロストク帝国はイブライン協商国内に出現した新たなダンジョンについて、野心を持ってはいない。昨年スタンピードを起こしたダンジョンのことで手一杯の様子であり、再びスタンピードを起こさないことのみが、彼らの派兵目的であると思われる。……』
大使からの報告は、大雑把に纏めれば上記のような内容だった。公式には「イブライン協商国には新たなダンジョンを管理する能力はなく、ランヴィーア王国が管理することが望ましい」というのがロストク帝国の立場だ。ただ、これはいわば表向きの発言であり、腹の内の実情は大使が探ってくれた通りなのだろう。
そうであるなら、ロストク帝国としては早めに部隊を戻したいはずだ。ランヴィーア王国との交渉にも、余計な横槍を入れてくることはないはず。イブライン協商国がきっちりとダンジョンを管理するという姿勢を示せば、彼らはそれで納得するだろう。
さらに、良い報せはもう一つ。こちらはランヴィーア王国の大使からのものだ。どうやらランヴィーア王国の上層部では、ここのところ厭戦気分が広がっているらしい。これによって「交渉すべし」という意見が徐々に強まっているという。
もちろん、「ダンジョン奪取すべし」という強硬意見は根強いし、オーギュスタン二世も今のところ撤兵の指示は出していない。しかしロストク軍以外の増援はこれまでに確認されていない。ルイスはそれを、上層部の意見が統一されていないことの影響と考えていた。
さらに、評議会の流れも少しずつ変わってきている。商人たちがダンジョンに興味を持ち始めたのだ。
入念な偵察の結果、件のダンジョンが当初思っていた以上に大規模であることが分かった。現在防衛軍が傭兵を使って攻略を行っているが、それによって得られた魔石やドロップアイテムの量をもとにしつつ、ダンジョン全体から得られる富を試算し、その結果を議会に報告したのだが、それが商人達の興味を引いたのである。
加えて、ダンジョン管理のためには大規模な拠点を建設しなければならない。城砦で済ませるとしても、そこに駐留させる部隊は新設する必要がある。まして都市ともなれば、あらゆる物が必要になるだろう。
つまり、新たな商機が生まれるのだ。ランヴィーア軍を撃退するのに多額の金が必要になるとしても、一考する価値があると商人たちはそろばんを弾いたのである。それでついに、評議会は追加の予算を出すことを決定していた。
「少しずつだが、状況が好転してきたな……」
ルイスはそう呟いた。しかしまだ動ける状態ではない。追加の予算は確保したものの十分とは言いがたく、それで彼は今現在積み増しに奔走している最中だ。ただ感触は芳しくなく、交渉は難航していた。
そんな彼のもとへ、ある日、一報が届けられる。それによれば先日、ランヴィーア軍の陣中で魔獣が暴れたという。前線部隊が動揺を見せなかったので、一挙に敵を排除することはできなかったが、決して小さくない被害が出たようだ、と報告書にはあった。
ルイスはこれを好機と判断した。十分な予算は確保できていないが、それを待っていては、ランヴィーア軍が立ち直ってしまう。その前に手を打ち、情勢を決定付けてしまいたい。そのためには今動かなければならなかった。
「……っ!」
意を決してルイスは立ち上がる。ここで失敗すれば、状況は最悪の方向へ転がっていくだろう。しかしずっとこのままにして置くわけにもいかないのだ。
新たなダンジョンをめぐるイブライン協商国とランヴィーア王国の対立は、最終局面へ入ろうとしていた。
□ ■ □ ■
魔獣騒ぎから数日後のこと、その日もジノーファたち三人はダンジョンの攻略を行っていた。彼らが把握している大広間の一つで、そろそろエリアボスが復活する頃合であり、それを討伐するのが今日の目的だった。
誰かと競っているわけでもない。マッピングした地図を確認しつつ、三人は比較的ゆっくりと進んだ。途中、マナスポットを見つけ次第吸収していくが、その数は攻略を始めた最初のころより、明らかに少なくなっている。ダンジョン内部のマナ濃度が、通常の状態にかなり近づいたためだ。
ここまでくればもう、「スタンピードを再び起こさせない」という、ロストク軍の派兵目的は達成されたと言っていい。そうであるならさっさと撤兵しても良さそうなものだが、今のところその気配はなく、ジノーファたちを含めロストク軍の兵士たちは今日もこうして攻略を行っていた。
それは、この遠征の主体であるランヴィーア軍が退こうとせず、いまだイブライン軍との対陣を続けているからだ。まさかロストク軍だけ先に抜けるわけにも行かない。そんなことをすれば、同盟にヒビが入る。それでこうして、本筋から言えば必要のない攻略を行っているのだ。
ただ決して、嫌々ながらやっているわけではない。攻略して経験値を得れば、それだけレベルアップに繋がる。特に兵士達の場合、平時であれば様々な訓練もあるので、こうして心置きなく攻略に没頭できる機会はあまりない。それで兵士たちはむしろ嬉々として攻略に励んでいた。
一方ジノーファたちはと言えば、それほど熱心に励んでいるわけではなかった。帝都へ戻ればまた変わらずに攻略を行えるので、ここで経験値を溜め込む必要がない。なんとなく、目標のない状態だった。
(ドロップ肉をまた集めようか……)
休憩中、水筒の水で軽く唇を湿らせながら、ジノーファはそんなことを考える。ちなみに水筒の水は、先ほど水場で汲んだものだ。
ドロップ肉と言えば、先日、また提供したばかりなので、備蓄はほとんどもうなくなっている。もう一度提供するのであればまた大量に集めなければならないが、しかしジノーファはなんだか気乗りしなかった。もうすぐこの遠征が終わりそうな、そんな予感を覚えていたからである。
先日の魔獣騒ぎで、ランヴィーア軍は決して小さくない被害を受けた。戦線が崩壊するほどではないにしろ、無視できるものでも、隠せるようなものでもない。ロストク軍から多量の物資とポーション(シャドーホールに収納していた分だ)を融通したとはいえ、傷はまだ残っているのだ。
そのせいで、陣中にまで厭戦気分が広まりつつあるという。もちろん、魔獣騒ぎだけが原因というわけではない。要するに、ランヴィーア兵たちも長引く対陣に飽きてきているのだ。
援軍は来ない。そして魔獣によって被害を出した。対陣は長引き、先は見通せない。そういう状況に、ランヴィーア兵たちの士気は下がっていた。その上、イブライン軍はすでにダンジョンに食い込んでいる。
かろうじて本丸に手はかかっていないが、外堀は埋められた。交渉に入るのはもう時間の問題であろうというのがルドガーの意見であり、事情を教えてもらったジノーファもそれに同意している。それがもうすぐこの遠征が終わると考える根拠だった。
「そろそろ行こうか」
短い休憩を終え、水筒をシャドーホールに戻すと、ジノーファはシェリーとユスフにそう声をかけた。二人が頷くのを見てから、ジノーファは気負いのない足取りで歩き出す。エリアボスが出現する大広間はもうすぐ。ここで大怪我でもすれば、画竜点睛を欠く。彼は集中力を高めた。
さていまさらだが、エリアボスは挑戦者が大広間に足を踏み入れると出現する。逆を言えば大広間に入らない限りエリアボスは出現しないし、顕現していても敵がいなければ眠ったように動かない。それで、戦いが始まる前の大広間は、静まり返っているのが常だった。
そのはずなのに、ジノーファの耳は大広間から漏れ出る喧騒を捉えていた。彼は小さく眉間にシワを寄せる。誰か先客がいるのだろうか。横取りなどと咎める気はないが、しかしこのルートで他のロストク兵と出合ったことはない。イブライン軍の傭兵がここまで来たのかと考え、ジノーファは警戒した。
慎重な足取りで、三人は大広間に近づいた。近づくほどに、ジノーファは怪訝なものを覚える。傭兵たちが戦っているにしては、聞こえてくる物音がそれらしくない。不審なものを感じつつ大広間を覗きこむと、彼の疑問は氷解した。エリアボスと戦っていたのは、人間ではなかったのである。
「グゥルル……!」
剣歯をむき出しにして唸り声を上げるのは、一匹の狼。ダンジョンの中にいるのだから、恐らくは魔獣だろう。興奮のせいで、灰色の体毛が総毛立っている。
よくよく見ると、狼は一匹ではなく三匹いた。子供の狼で、一匹は白く、もう一匹は黒い。ただ黒い方の子狼は、自らの血で赤黒く染まっていて、倒れ伏したまま少しも動かない。もう死んでいるのだ。
殺したのは、この大広間の主たるエリアボスだろう。灰色の狼が唸り声を上げて威嚇するのは、剣と盾を構えた動く甲冑。全身を漆黒に塗りつぶされたこの黒騎士こそ、この大広間のエリアボスである。
その黒騎士へ、灰色の狼が襲い掛かる。素早い動きで敵を翻弄しようとするが、しかしどっしりと構えた黒騎士は、体の向きを変えることで常に狼を正面に捉えている。そして飛びかかってきた狼を、逆に盾で痛烈に打ち返した。
「ギャン!?」
反撃にあった灰色の狼が悲鳴を上げる。起き上がろうとするが、足が震えてまともに立てない。そこへ黒騎士が見た目より俊敏な動きで間合いを詰め、一刀のもとに灰色の狼を切り捨てた。
悲鳴は上がらない。二つに分かれて崩れ落ちていく狼には一瞥もくれず、黒騎士は己のテリトリーに侵入した最後の一匹を始末するべく、ゆっくりと血に濡れた剣を構えた。白い子狼は、何が起こっているのか分かっていないのだろう、きょとんとした顔で首をかしげている。
黒騎士が剣を振り下ろす。その瞬間、ジノーファが聖痕を発動させて割り込んだ。彼は白い子狼を掻っ攫うと、そのまま黒騎士から距離を取るようにして壁伝いに走る。手の中では子狼が嫌がって暴れるが、その小さな牙と爪では、聖痕持ちの皮膚にかすり傷一つ付けられない。
突然の乱入者を、黒騎士は排除せんとする。しかしそこへユスフがライトアローを射掛けて黒騎士の動きを封じた。ジノーファはその隙にやや遠回りをしながらユスフたちのところへ戻る。そして先ほど助けた子狼はシェリーに向かって放った。
「きゃん!?」
その雑な扱いに抗議するように、子狼が甲高い悲鳴を上げる。シェリーは反射的にそれを受け止めたが、しかしすぐに困惑した様子を見せる。そんな彼女にジノーファはこう頼んだ。
「ソレを頼む。アレはわたしが倒すから」
そう言うなり、ジノーファは返事も聞かずに双剣を構えた。シェリーが何も言わなかったのは、彼の集中を乱すのを嫌ったからだ。ユスフもライトアローを射掛けるのを止め、子狼は気圧されたのか大人しくしている。つかの間、大広間は静寂を取り戻した。
ジノーファは黒騎士の様子を窺う。兜の奥にはぼんやりとした二つの赤い輝きがあって、どうやらそれが黒騎士の目らしい。腰を落として剣と盾を構えるその姿は、まるで名のある騎士のようだ。「それならこれは決闘か」と思い、ジノーファは小さく苦笑した。
そうこうしている内に、黒騎士が動いた。盾を前面に出しつつ、見掛けよりも素早い動きで間合いを詰める。しかしその漆黒の剣がジノーファを捉える前に、彼の放った不可視の斬撃が黒騎士の盾をしたたか打ち据えた。
「っ!」
思いがけず強打を受けて、黒騎士は驚いたように足を止めた。そこへジノーファは両手の双剣を駆使して不可視の斬撃、伸閃を幾重にも浴びせかける。その攻撃は全て黒騎士が掲げた漆黒の盾に阻まれたが、しかし黒騎士をその場に縫いつけ動きを封じることには成功した。
ジノーファは鋭く前に出た。斬撃の嵐に身をすくめていた黒騎士が顔を上げるが、そこに彼の姿はない。黒騎士の右側、剣を持つ手の側へ回りこんだのである。
「っ!?」
黒騎士が剣を振るう。しかしジノーファがいたのはその間合いの外で、漆黒の刃は空を切った。そして黒騎士の腕が伸びきったタイミングを見計らい、今度は逆にジノーファが伸閃を放つ。不可視の斬撃は黒騎士の右腕を半ばから斬り飛ばした。
黒騎士は慌てて身体を捻り、盾をジノーファに向ける。だがその時にはもう、彼はその場所にはいない。黒騎士の動きに合わせて側面へ回りこんだのだ。そして鋭く息を吐きながら、彼は伸閃を放った。
「っ!!?」
黒騎士の視線がジノーファを捉える。彼は残身のまま、それを受け止めた。そのままにらみ合うこと、数秒。やがて黒騎士の兜の奥で輝いていた二つの赤い灯火が消える。そして黒騎士は脇腹の辺りで二つに分かれ、崩れ落ちて砂に還った。
「ふう」
黒騎士を倒すと、ジノーファは一つ息を吐いてから双剣を鞘に戻した。辺りを見渡すと、黒騎士が持っていた剣と盾がそのまま残っている。どうやらこの二つがドロップアイテムらしい。
盾は、あれだけ伸閃をぶち当てたにも関わらず、傷一つ付いていない。かなり良いもののようだ。剣も同程度のモノだとすれば、売ってしまうのが惜しいレベルだ。もっとも、サイズ的な問題でジノーファには使えないが。
「ジノーファ様、お見事です」
ユスフが駆け寄り、ジノーファにそう声をかける。彼の後ろにはシェリーがいて、子狼を抱いた彼女は少し困ったような顔をしながら、ジノーファにこう尋ねた。
「あの、ジノーファ様。この子はどうされるのですか?」
「……どうしようか?」
「考えていなかったのですか?」
「うん、反射的に、ね……」
呆れた様子のシェリーに、ジノーファは苦笑を浮かべながらそう答えた。反射的に助けてしまったが、どうするかは考えていなかった。
ここがもし帝都のダンジョンなら、ジノーファは迷わずにこの子狼を連れて帰っただろう。しかしここは軍隊の野営地。例えばこの子狼が乳離れしていなかったとして、ここには飲ませてやるミルクなどない。
どうしたものかと、ジノーファは顎先に手を当てて考える。そして「うん」と小さく呟くと、おもむろにシャドーホールからドロップ肉を取り出した。それを小さく切り取り、地面に投げる。ジノーファの意図に気付き、シェリーは子狼をそっと地面に下ろした。
子狼は、小さな肉片に鼻を近づけ、スンスンとその臭いをかいだ。そしてパクリと噛み付き、モグモグと咀嚼してゴクンと飲み込む。ジノーファたちはその様子を固唾を飲んで見守っていたのだが、子狼が肉を食べたのを見て三人とも笑顔を浮かべた。
「お肉はまだ早いと思ったのですが、さすがに小さくても魔獣ですね」
シェリーのその言葉を聞いて、ジノーファは「ああ、そうか」と納得した。この白い子狼は、先ほど殺されてしまった灰色の狼の子供なのだろう。ということはあの灰色の狼はメスで、子供を連れてダンジョンに入ったか、あるいはダンジョンの中で子供を産んだに違いない。
もしも後者ならば、この白い子狼は、いわば生粋の魔獣と言えるだろう。いずれにしても、見た目以上にその生命力は強靭であるに違いない。
「肉が食べられるなら、連れて行こうか」
「ご随意に」
ジノーファの言葉に、シェリーは逆らわなかった。せっかく助けたのに、ここで見捨てては目覚めが悪い。
それに動物を飼う貴族は珍しくない。中には鷹や猟犬などを熱心に調教する者もいる。そして煌石(マナを吸収していない魔石)を与え、鷹や猟犬を意図的に魔獣化させることも、ないわけではなかった。シェリーが反対しなかったのは、そういう例を知っていたからである。
「それでジノーファ様、この子の名前はどうされますか? メスのようですが……」
「そうだね……、〈ラヴィーネ〉というのはどうだろう」
ジノーファはそう言って子狼の頭を撫でた。ラヴィーネはきょとんとして彼を見上げる。それが自分の名前だとは、まだ分かっていない様子だった。
シェリーの一言報告書「忠犬(予定)ラヴィーネ」
ダンダリオン「余はトラでも飼うか」




