魔獣騒動
「おい。何だ、アレは?」
ランヴィーア軍の陣地のほうから上がる煙を指差し、ルドガーは幕僚たちにそう尋ねた。しかし正確な事情を知っている者はいない。ルドガーも答えを期待していたわけではなく、煙の上がる様子を見ながら顎先に手を当てた。
「敵襲、でしょうか?」
「それにしては、煙の上がり方が鈍い気がするな」
敵襲、つまりイブライン軍の襲撃であるなら、混乱に拍車をかけるため、積極的に火をつけて回るはずだ。しかし今の煙の上がり方を見る限り、そういう意図は感じられず、ルドガーは首をかしげた。ランヴィーア軍の陣地が魔獣に襲われていると言うのは、彼にとってもこの時はまだ想像の埒外だったのだ。
(少数精鋭の首狩り作戦か……?)
ルドガーはその可能性を考える。つまりアルガムを含め、ランヴィーア軍の首脳部を狙った暗殺作戦だ。ただ、それをわざわざこんな白昼にやることはないだろう。とはいえ、ああして煙が上がっている以上、何者かの襲撃を受けている可能性が高いのは事実。友軍として、それを見過ごすことはできない。
「馬を引け。十騎ほどついて来い」
ルドガーはそう命じた。そして連れて来られた馬に颯爽と跨る。愛用の槍を受け取り、駆け出そうとしたところで、彼に声をかける人物がいた。
「お供します」
ルドガーに声をかけたのは、彼と同じく騎乗したジノーファだった。後ろにはシェリーとユスフが同じく騎乗してひかえている。
ルドガーは反射的に「駄目だ!」と叫びそうになったが、しかし咄嗟のところでそれを飲み込んだ。そもそも指揮官である彼が真っ先に飛び出すこと自体、褒められたことではない。それにジノーファは聖痕持ち。自分のことを棚に上げて彼を心配すると言うのも、おこがましい話だ。
「……分かった。お願いしよう」
結局、ルドガーは一つ頷いてそう応えた。そして幕僚の一人に、残りの騎兵をまとめていつでも動けるようにしておくこと、さらに残っている歩兵にも臨戦態勢を取らせることを指示する。全ての指示を出し終えると、彼はランヴィーア軍の陣地へ向かって駆け出した。
ランヴィーア軍の陣地へ近づくにつれ、ルドガーの疑問はますます深まった。なにしろ、敵軍の姿が一向に見当たらない。一体襲撃者は何者なのか。その疑問は響き渡る獣の咆哮を耳にした時、氷解した。
「これは、魔獣か!」
ルドガーはようやく合点がいった。ダンジョンの中では、すでに魔獣が確認されている。その魔獣が外へ出てきてしまうのは、決してありえない話ではなかった。
ランヴィーア軍の陣地は、なかなかひどい有様になっていた。死体が転がり、怪我人がうめき声を上げている。テントは倒され、火が燃え移って煙が上がっていた。かろうじて兵士たちの抵抗は続いているものの、魔獣の動きをとめることすらできていない。むしろ被害が増えるばかりだった。
これがもしダンジョンの中であったなら、兵士たちももう少しまともな抵抗ができたに違いない。ダンジョンの中なら、魔法が使えるからだ。しかしここはダンジョンの外。肉体の強靭さが戦いの趨勢を大きく左右してしまう。そして人間は魔獣にくらべてはるかに脆弱だった。
「アルガム殿はどこにおられる!?」
参謀と思しき男に、ルドガーは馬上からそう尋ねた。彼は少し驚いた顔をしてから、ルドガーを見上げてこう答えた。
「し、司令は前線で指揮を取っておられます! イブライン軍がこの機に乗じて動いた場合に備えてのことです!」
「承知した。助太刀するが、構わないな?」
「もちろんです!」
「では、我々であの魔獣を引き付けてここから遠ざける。その間に負傷者の収容と混乱の収拾を行ってくれ」
「了解しました!」
そう言って敬礼する男に、ルドガーは馬上から小さく頷きを返す。そして手綱を引き、部下たちに「行くぞ!」と号令を下して駆け出した。ジノーファもそれに続くが、その前に彼はシェリーとユスフにこんな指示を出した。
「槍を何本か拾っておいてくれ」
二人が頷くと、ジノーファも馬首をめぐらした。そして駆けていくロストクの騎兵たちの最後尾につく。先頭を駆けるのは言うまでもなくルドガーで、彼は槍を振り上げると、駆け抜ける勢いごと力任せに、魔獣の横っ腹を痛打した。
「グゥゥオオオ!?」
魔獣が初めて悲鳴を上げる。しかしその一方でルドガーも渋い顔をしていた。手応えが硬い。手傷は負わせたものの、そう深くはないだろう。想像した以上に硬い毛皮だ。彼に続いて後続の騎兵たちも魔獣に攻撃をしかけていくが、有効打にはなっていないように見えた。ちなみに、魔獣が動いてしまったので、ジノーファまで攻撃の順番は回らなかった。
「このまま魔獣をひきつけるぞ!」
そう言ってルドガーは馬首を巡らせ、魔獣を挑発するようにその近くを駆けさせた。ジノーファを含め、他の騎兵たちもそれに続く。魔獣は忌々しそうに吼え声を上げ、そして彼らを追いかけ始めた。
「よし、釣れた! ここから引き離すぞ!」
そう言ってルドガーは手綱を引き、人気のないところへ向かって馬を走らせた。その際、魔獣を引き離しすぎないよう、巧みに馬を操って速度をコントロールする。そしてランヴィーア軍の陣地から十分に離れると、彼は槍を左右に差し向けて騎兵たちを散開させ、そのまま魔獣を包囲させた。
「グゥゥウウウ……」
騎兵隊に包囲された魔獣は、足を止めて警戒するように周囲を見渡した。そして唸り声を上げながら、ハリネズミのような体毛を逆立てて騎兵たちを威嚇する。
騎兵たちは魔獣を包囲したままゆっくりとその周囲を動く。後はなぶり殺しにするだけのように見えるが、しかし彼らは手を出しあぐねていた。先ほど攻撃を仕掛けた際には、有効打を入れることができていない。中途半端な攻撃では、ダメージを与えることはできないだろう。
(さて、どうしたものか……)
魔獣の隙を窺いつつルドガーが思案していると、不意にジノーファと目が合った。彼は逆手に持った槍を掲げてみせる。彼の意図を察し、少し逡巡してから、ルドガーははっきりと頷いた。
それを見て、ジノーファは小さく笑った。そして馬の腹を軽く蹴って加速させ、魔獣の周囲を旋回させる。タイミングを計りつつ鋭く魔獣を見据え、魔獣の注意がそれた一瞬の隙を狙い、背中の聖痕を発動させると槍を投擲した。
「グゥゥオオオオオ!?」
魔獣が絶叫を上げる。ジノーファが投擲した槍は、魔獣の腹に突き刺さっていた。血が流れ落ち、地面を赤黒く染める。魔獣は口からも血を流していたが、しかしその目の凶暴な輝きは失われていない。それどころかさらに激しくなっているようにさえ見えた。
「グゥアアアア!!」
魔獣がジノーファ目掛けて突進する。深手を負っているとは思えない動きだ。怒りが痛みを超越しているのだ。一方、手ぶらになったジノーファはすぐさま馬首をめぐらし、向かってくる魔獣から逃げた。それも、魔獣がルドガーらに背を向けるように誘導しながら。
「今だ、畳み掛けろ!」
ルドガーがそう命じると、無防備な魔獣の背中目掛けて、さらに数本の槍が投擲された。しかしそれらの槍は、魔獣の硬い毛皮に弾かれ刺さらない。ジノーファの槍が刺さったのは、聖痕持ちの膂力があればこそなのだ。
「っち、牽制に専念しろ! それと、誰かジノーファ殿に槍を!」
兵たちの攻撃が有効打にならないのを見て、ルドガーはすぐさま方針を転換した。兵たちが散開するのを見てから、彼は馬を走らせて魔獣に迫り、その後ろ足に一撃をくれてやる。血は出なかったものの、魔獣はその一撃でバランスを崩し、その間にジノーファは悠々と離脱した。
「ジノーファ様!」
ジノーファは魔獣から距離を取ると、シェリーが合流して彼に槍を渡した。先ほど、ランヴィーア軍の陣地で拾っておいた槍だ。さらに何本かユスフが持っている。そしてジノーファは槍を受け取ると、また馬首をめぐらして魔獣の方へ向かっていった。
「グゥオ! ガァア!」
魔獣は騎兵隊によって足止めされていた。騎兵たちは周囲を素早く旋回して魔獣を惑わせ、さらに隙を見つけては攻撃を仕掛けて注意をひきつける。
ルドガーは自らも囮役をこなしていたが、ジノーファが戻ってきたのを見ると騎兵たちを散開させた。そうやって射線が空くと、ジノーファは躊躇うことなくまた槍を投擲する。二本目の槍は背中に突き刺さった。
「グゥゥウウウウウ!?」
「ほぅら、こっちだ!」
身体を仰け反らせる魔獣の鼻先で、騎兵の一人が槍を一閃させる。槍自体は当らなかったものの、魔獣の注意をひきつけるには十分。魔獣は苛立ったようにその騎兵を追いかけ始めた。
騎兵は絶妙な距離を保ったまま、魔獣をひきずり回した。確かに膂力ではジノーファに及ぶべくもない。しかし馬術ならば、彼らの方に一日の長がある。ロストク軍の騎兵は精兵揃いなのだ。
そうやって騎兵たちが魔獣の注意をひきつけてくれている間に、ジノーファは三本目の槍をシェリーから受け取った。それを見て、またルドガーがお膳立てを整える。射線があくとジノーファはすぐに三本目を投擲し、その槍もまた深々と魔獣に突き刺さった。
(これでも倒れないのか……)
離脱しながら横目で魔獣の様子を窺い、ジノーファは内心でそう呟いた。三本の槍が身体に突き刺さっていてなお、魔獣は四本の足で大地に立っている。血が止めどなく流れているが、いまだに血気盛んな様子だ。本当に消耗していないのか、それともやせ我慢なのか、顔色を窺っても分からない。
ただ、ジノーファはさほど心配はしていなかった。攻撃は通じるのだ。倒せない相手ではない。また出血している以上、体力は確実に削られている。それにここはダンジョンの外。仮に一発逆転の魔法があったとしても、ここでは使えない。
それからジノーファは騎兵隊と協力しつつ、さらに二本の槍を投擲し魔獣に突き刺した。そしてこの五本目の槍で、ついに魔獣の動きが鈍る。倒れることはなかったが、しかし動きが止まり明らかに苦しそうな様子だ。その隙を見逃さず、ジノーファは六本目の槍を投擲した。
「グゥゥウ!!」
六本目の槍は魔獣の首筋を貫いた。魔獣が大量の血を吐く。首を貫かれてなお倒れない魔獣に、ジノーファでさえ戦慄を禁じえない。しかしそれは魔獣の最後の意地であったのだろう。次の瞬間、魔獣は崩れ落ち、そして二度と動かなかった。
「ふう……」
魔獣が倒れたのを見て、ルドガーは馬上で息を吐いた。まだ気は抜けない。部下の一人に命じて、本当に魔獣が死んだのかを確かめさせる。そしてそれが確認されると、彼らはランヴィーア軍の陣地に引き返すのだった。
ランヴィーア軍の陣地の混乱はすでに収まっていた。ただ傷跡は深く、あちこちで怪我人がうめき声を上げている。そんな中、ルドガーたちが戻ってきたのを見つけ、先ほどの参謀と思しき男が駆け寄ってきた。
「ルドガー将軍、よくぞご無事で! それで、あの魔獣は?」
「討伐した。死体はそのままにしてあるから、好きにするといい」
ルドガーがそう答えると、周囲にいたランヴィーア兵たちが歓声を上げた。騎兵たちは軽く手を振ってそれに応える。ジノーファも笑顔で手を振っていたが、まさかこの少年が魔獣討伐の中核を担ったとはランヴィーア兵たちも思うまい。シェリーはそう思って苦笑するのだった。
さて、魔獣を討伐した後、ルドガーはアルガムに事情を説明するためランヴィーア軍の陣地に残っていた。彼と一緒に残ったのは四名の騎兵だけで、残りはジノーファらと一緒にロストク軍の陣地へ戻っている。
「すまない、お待たせした」
そう言いつつ、アルガムが慌しい様子でルドガーの待つテントに入ってくる。そして彼はルドガーと固い握手をした。
「此度の魔獣討伐に際し、ロストク軍の助力に心より感謝申し上げる」
「友軍として当然のことをしたまでです」
最初にそう言葉を交わしてから、二人はそれぞれ席について話を始めた。ルドガーからは魔獣討伐について話し、アルガムはイブライン軍の様子を説明する。
「この機に乗じて戦端が開かれることなかったのは、重畳でした」
ルドガーの言葉に、アルガムは重々しく頷く。後方が混乱しているときにイブライン軍の全面攻勢が行われれば、ランヴィーア軍の戦線は崩壊していたかもしれない。しかしアルガムは前線で自ら指揮を取ることにより、敵に対して隙を見せず、その危機を未然に防いだのだ。
だがその一方で、魔獣の被害は拡大した。死者はそれほど出なかったものの、多数の負傷者が出ていた。負傷者というのは、ある意味で戦死者よりも負担になる。戦死者は埋葬すればいいが、負傷者は治療して看病しなければならないからだ。さらに決して少なくない物資が、今回の騒動によって焼失している。
戦力の低下、負傷者に関わる負担、そして物資の焼失。これらを合わせると、その被害は、戦線の維持に支障が出かねないほどだった。
「最大の問題は負傷者だ」
アルガムはそう言った。物資については、ヘングー砦にまだ十分な量が集積されており、それを運んでくれば数日中には解決する。しかし深手を負った負傷者たちは、数日では回復しない。水薬にも限りがあるのだ。
そうなると負傷者は後方へ送ることになるが、しかし現状では交代要員が送られてくる保証はない。そうなれば戦線の維持はますます難しくなる。交渉するにしても、不利な条件を呑まされることになるだろう。アルガムにとって、それはなんとしても避けたい事柄だった。
「……ロストク軍には、ポーションを含めた物資に多少の余裕があります。それを提供しましょう」
「まことか!?」
ルドガーの提案を聞いて、アルガムは歓声を上げた。特に、ポーションはありがたい。ポーションさえあれば多くの兵がすぐさま戦線に復帰できる。また、死なずに済む兵も多いだろう。
「ですが、我々にとってもこれは虎の子の備蓄です。それを吐き出す以上、今後は余裕がなくなります。早期に事態の収拾をお願いしたいところです」
「……承知している」
ルドガーの言葉に、アルガムは少しだけ嫌そうな顔をしてそう応えた。ただルドガーの方に気にした様子はない。言うべきは言ったとばかりに立ち上がり、最後に握手をしてから彼はロストク軍の陣地へ戻った。提供を約束した物資も、こちらへ運びこまなければならない。
ルドガーが去ると、アルガムは頭を抱えて大きなため息を吐いた。物事は彼の思う通りには進んでくれない。まったく、忌々しかった。
(交渉、か……)
先ほどもルドガーに釘を刺された。アルガムはその選択肢をもう無視できない。実際、増援が来ないなら交渉せざるを得ないのは事実だ。だが交渉すればダンジョンの帰属権は間違いなくイブライン協商国のものになる。
(忌々しい……!)
アルガムは胸中でもう一度悪態をついた。しかし現実は変わらない。そしてそれが分かるくらいには、彼はまだ理性的だった。
シェリーの一言報告書「エリアボス並の魔獣、現る」
ダンダリオン「ダンジョンの管理は徹底させねばならんな」