暗転
早朝、まだ日も昇りきらない時間に、ジノーファたちはロストク軍の陣へ帰還した。ダンジョンから出てきた彼らは、さすがに疲れた顔をしている。休憩を挟みながらとはいえ、徹夜で攻略を行ったのだから当然だろう。
「ジノーファ様、ご無事でしたか!? あ、いえ、その決して疑っていたわけではありませんが……」
「うん、ありがとう。ルドガー将軍に報告したいことがあるのだが、どこにおられるだろうか?」
「か、確認してきます!」
そう言って駆け出した兵士の背中を見送ると、ジノーファは後ろを振り返った。そこには彼以上に疲れた顔をしたシェリーとユスフがいる。二人とも、ダンジョンの中ではもう少し元気だったのだが、外に出たことで疲れがどっと出たらしい。
「二人とも、休んでいるといい。わたしは、ルドガー殿に報告をしてくるから」
「いえ、わたしもご一緒しますわ。それこそ、メイドの仕事ですから」
「僕はジノーファ様の従者です。主をおいて休むなんてできません」
二人がそう言って譲らないので、結局報告には三人で行くことになった。確認してきてくれた兵士によると、ルドガーは自分のテントにいるという。ジノーファは彼に礼を言うと、シェリーとユスフを連れてそこへ向かった。
「ジノーファ殿! こんな朝早くからとは、何かあったのか?」
「ええ。実はダンジョンの中で、イブライン軍の傭兵と遭遇しました」
「なに!? 詳しく聞かせてくれ」
ルドガーに乞われ、ジノーファはその時の様子を詳しく話した。説明は主に彼がしたのだが、時折シェリーやユスフが補足をいれる。傭兵たちに案内させてイブライン軍の陣中に忍び込んだことを話すと、ルドガーは呆れるやら驚くやら、反応に困ったように苦笑を浮かべた。
そうしている間に、テントへ四人分の食事が運ばれてきた。ルドガーが用意するように命令しておいたものだ。そしてジノーファたちの説明が終わると、ルドガーは食事を食べるように勧めてから、小さくこう呟いた。
「そうか……。イブライン軍が、な……」
彼は思案するように顎先を指で撫でたが、しかしすぐに小さく首を振った。そして食事を食べ始める。同じものを食べているジノーファたちの顔には苦笑が浮かんでいた。やはり食糧事情はイブライン軍の方がいい。
「それにしても、敵陣へ堂々と乗り込むとは、無茶をしたものだ。疑われなかったのか?」
「大丈夫でした。この格好が、傭兵にしか見えなかったのでしょう」
そう言ってジノーファは服の襟を軽くつまんだ。彼は得意げな様子だが、一方シェリーやユスフは肩をすくめたり、苦笑を浮かべたりしている。彼の言っていることは正確ではない。より正しくは「傭兵とは思えないが、正規兵というのはもっと無理がある」だ。遭遇した傭兵たちの困惑が目に浮かぶようで、ルドガーは小さく笑った。
「堂々としていれば、意外と何とかなるものなのだな」
「ルドガー殿、それはどういう意味なのでしょうか?」
「いや……。それはそうと、ジノーファ殿。先ほど言っていた命令書を、見せてもらえないだろうか?」
「あ、はい。……これです」
そう言ってジノーファは腰のポーチから例の命令書を取り出し、二つ折りになっているそれをルドガーに手渡した。ルドガーはそれを受け取ると、特に部隊長の名前と押印を念入りに確認する。部隊長の名前に心当たりはないが、押された印は本物。イブライン軍の陣中へ忍び込んできた、これ以上ない証拠と言えるだろう。
「これは、預かってもいいか?」
「はい。そのつもりです」
「感謝する」
ルドガーはそう礼を言ってから、受け取った命令書を丁寧に懐へしまった。後でランヴィーア軍司令官のアルガムに見せてやらねばなるまい。彼はこの情報を喜びはしないだろうが、しかし報せずにおくわけにもいかない。気乗りしない仕事に、ルドガーは小さくため息を吐いた。
「ここだけの話だがな、ランヴィーア軍の状況は良くない」
「攻略がうまくいっていないのでしょうか?」
小首をかしげるジノーファに、ルドガーは「それもある」と答えた。そして苦い表情のまま、こう言葉を続けた。
「だが、もっと全体的な状況の話だ。……要するに、増援が来ないのさ」
ランヴィーア軍がこのダンジョンを手中に収めるためには、対陣しているイブライン軍を排除しなければならない。そのためにはさらなる戦力が必要なのだが、いくら要請してもその増援が来ないのだ。どうも上層部が渋っているらしい。
「ランヴィーア王国の上層部が何を考えているのかは分からない。だがどうもここへ来て消極的な対応が目立つようになってきた、と感じている」
あくまで個人的な見解として、ルドガーはそう述べた。もともと今回の侵攻はスタンピードに端を発したもので、つまり計画的なものではない。恐らくだが、そう簡単にダンジョンを奪取できる状況ではなくなり、厭戦気分が広まってきたのだろう。
ただ前線、とくにアルガムはダンジョンの奪取を諦めていない。前線と政治中枢で温度差が生じ始めているのだ。そのせいでルドガーの立場から見ると、ランヴィーア軍の動きはどうもチグハグに映る。それが悪い方向へ転がらなければいいのだが、と彼は思った。
さて、食事を終えると、ジノーファたちはルドガーのテントを辞した。そして自分達のテントへ向かい、そのまま横になる。食事の後ということもあり、眠気はすぐにやってきた。人々が動き出すころの時間、三人はようやく眠りについたのである。
□ ■ □ ■
ジノーファたちが夢の世界へ旅立った頃、ルドガーは身支度を整えてランヴィーア軍の陣へ向かっていた。供は騎兵ばかりを数騎。ランヴィーア軍の陣中に到着すると、ルドガーはすぐにアルガムのところへ案内された。
「それで、ルドガー殿。朝早くから何用かな?」
「まずはこれをご覧ください」
そう言って、ルドガーはジノーファから預かった命令書を取り出した。それを見てアルガムは眉間にシワを寄せる。押印がイブライン軍の部隊長のものであるとすぐに気付いたのだ。
「これが、どうかされたのか?」
「実は、我が軍の客将がダンジョン内でイブライン軍の傭兵と遭遇しました」
「っ!?」
ルドガーの述べた内容に、アルガムが驚きを露わにする。そんな彼を少々不憫に思いつつ、ルドガーはさらに説明を続けた。
「彼は遭遇した傭兵たちに案内させて、イブライン軍の陣中に入り込みました。その命令書がその証拠です」
「……つまり、イブライン軍の連中はすでにダンジョンの出入り口を確保し、攻略を行っている、と?」
「どうやらそのようです。出入り口は二つ以上確保しているようですが、あまり数は多くないようですね。『あまり稼げていない』と傭兵たちはぼやいていたそうです」
ジノーファたちから聞いた話を、ルドガーはかいつまんでアルガムに話す。それを聞いてアルガムはますます渋い顔になった。
繰り返しになるが、イブライン協商国は商人の国だ。彼らは儲け話に目がない。そんな彼らの目に、巨大ダンジョンとそれに伴う利権はどう映るだろうか。それは火を見るよりも明らかなようにアルガムには思えた。
(奴らはダンジョンを諦めまい……)
イブライン協商国側の妨害を排除しつつ、ダンジョンを確保し、なおかつ安定的に管理する。言葉にすれば簡単だが、実際に行うのは極めて難しい。成功すればいいが、失敗すればその被害は莫大なものとなるだろう。下手をしたら国が傾きかねない。あまりのリスクの大きさに、アルガムは苦虫を噛み潰したようにして唸った。
さらに言えば、この場でアルガムが考え付くようなことを、ランヴィーア王国の上層部が見逃すはずがない。ルドガーから得た情報を伝えれば、間違いなく厭戦気分が強まるだろう。アルガムとしては面白くない展開だ。
しかしだからと言って、伝えないわけにはいかない。そもそもこの陣中には監察官が派遣されていて、彼を通して全ての情報は王城へ伝わっている。アルガムは確かに強権を与えられているが、それでも王城の指揮下にあるのだ。
隠蔽と言う言葉がアルガムの頭をよぎるが、しかし隠蔽したところで状況が好転する目途は立っていない。敗戦した後にそのことが露見すれば、アルガムの首は物理的に飛ぶだろう。そこまでのリスクを犯す気にはなれなかった。
すぐに講和の指示が来るのか、それは分からない。しかしアルガムの望む援軍が来ることは、もはやないと考えた方がいいだろう。そうなると、期待できるのはロストク軍の増援のみ。アルガムはわずかな希望を託してルドガーにこう尋ねた。
「この事態に際し、ロストク軍としてはどのようにされるおつもりか?」
「まず前提条件ですが、我が隊が派遣されたのは再びのスタンピードを防ぐためです。そしてこれまでの攻略を通じ、ダンジョン内のマナ濃度はずいぶん下がったと報告を受けています、私自身それを確認しています。
それで、我々としてはスタンピードの危機は当面遠のいたと考えています。あとはこのダンジョンが安定的に管理されれば、少なくともその目途が立てば、それ以上我が国が関わる必要はないでしょう。無論、ランヴィーア王国がその管理を行うのであれば、我が国としては最上の結果と言えるでしょう」
ルドガーはすらすらとそう答えた。要するに「ロストク帝国はこれ以上の派兵は行わない」という意味だ。そしてそれをアルガムは正確に察した。
「なるほど。了解した」
分かっていたことである。落胆は小さい。そもそも、あまりロストク軍の力を借りすぎては、いざ返すときが大変になる。ダンジョンを管理するのがランヴィーア王国ではなく、ロストク帝国になりかねない。そうでなくとも実利を得るのがロストク帝国であれば、ランヴィーア王国としてはダンジョンの奪取に失敗したに等しい。それでは意味がないのだ。
報告を終えると、ルドガーは例の命令書を残してアルガムのテントを辞した。残ったアルガムは、命令書を一瞥してから「ちっ」と舌打ちをもらした。まこと、状況は良くない。このまま対陣を続けても、金と労力の無駄であろう。その計算ができる程度には、アルガムは冷静だった。
撤退という単語がアルガムの頭をよぎる。しかしそれでもなお、彼はその選択をしがたく思っていた。今ある戦力だけでも、現在対陣しているイブライン軍だけなら排除は可能なのではないか。その考えを捨てきれないのだ。
(状況が好転すれば上層部も動くかも知れん……)
これまでは増援を待ち、数的な優位に立ってから、イブライン軍を排除するつもりだった。ダンジョンを確実に占拠するためにもさらなる戦力が必要なのだから、それが来て準備が整ってから動けばいい。アルガムはそう考えていたのだ。
しかし状況が変わった。王城では厭戦気分が漂い、イブライン軍はすでにダンジョンに食い込んでいる。ダンジョンを奪取したいと思うのなら、もはや増援を待っていられる状況ではない。自ら動いて状況を打破しなければならないのだ。
(しかし、な……)
失敗すればアルガムに将来はない。命を失うかはともかく、これ以上の出世は絶対に不可能だ。加えてイブライン軍を排除したからと言って、本国が増援を送ってくれる保証はない。優位な立場を利用し講和せよ、と言われるかもしれないのだ。
(どう、する?)
アルガムは迷った。現在のところ、彼はスタンピードによって溢れ出したモンスターの大群を殲滅すると言う、大きな戦功を立てている。イブライン協商国に入ってから顕著な働きはできていないが、しかしそれは戦力不足が大きな理由であるし、なにより「再びのスタンピードを起こさない」という最重要命題はクリアしている。
つまり今のところ、アルガムに大きな失敗はないのだ。そしてこのまま大きな失敗なく事を終えれば、彼は相応の評価を受けるだろう。左遷先から、中央の出世コースに戻れるのはほぼ間違いない。
もちろんその程度のこと、ダンジョンやそれにまつわる利権と比べれば、どうと言うことはない。しかし少なくとも辺境の左遷先からは抜け出せるのだ。何もかも失ってしまうよりは、百倍もマシである。それを思えば、ここで積極的に動くのは、リスクの大きな賭けであると言わざるを得ない。
「慎重に動かねばならんな……」
アルガムはそう呟いて立ち上がった。チャンスは一度きり。ルドガーの持ってきた情報の裏を取る必要もあるし、衝動的かつ軽々に動くことはできない。彼はそう自分を戒めた。いや、戒めるフリをして、保守的になっている自分の心を誤魔化した。
ルドガーから情報を得ても、ランヴィーア軍の動きは表向き変わらなかった。ただ、裏では斥候が活発に動くようになり、情報収集が強化されている。そうやって敵陣に隙やほころびを見つけたならば、一気に攻勢をかけて敵軍を排除するのだ、とアルガムは考えていた。
それが正しい選択であったのか、歴史は黙して語らない。ただ結果から言えば、彼は攻勢を仕掛けるタイミングを逸した。一匹の魔獣によって、ランヴィーア軍は大きな被害をこうむったのである。
それは、ルドガーがアルガムのもとを訪れてから三日後のことだった。ちょうど昼食の準備をしていた頃、ダンジョンの出入り口から一匹の魔獣が現れた。その魔獣は熊のような姿をしていたが、ダンジョンの中でレベルアップしたために、その姿は異形のものへと成り果てていたという。
「グゥオオオオオオオオ!!」
魔獣の咆哮が響く。ランヴィーア軍の兵士たちは反射的に振り返る。彼らは異形の魔獣の姿を目にし、そして息を飲んだ。
魔獣は巨躯だった。身体の大きさは牛ほどもあるだろう。そして、その形相は凶悪。上下の牙が伸びて、口からはみ出している。手足の爪は異常に発達していて、巨大で鋭く、まるでナイフのようだ。さらに身体中の毛が硬質化していて、まるでハリネズミの針のように逆立っている。
何より、その眼。まるでモンスターのように赤い不吉なその眼は、獲物を狩ってその肉をかき喰らうのだと言う、原始的で強烈な衝動によって爛々と輝いている。その眼が見据える世界に、身分や貧富による差はない。冷徹な弱肉強食の世界。それこそが、その魔獣の生きる世界だった。
そしてその世界において、その魔獣は紛れもなく強者だった。それで魔獣は獲物の群れへと突撃する。弱肉強食の世界において、強者は誰かの顔色を窺うことも、弱者の事情を斟酌することもないのだ。
突然の魔獣の襲来に際し、ランヴィーア軍の兵士たちは多少手惑いながらも、すぐさま迎撃を開始した。突進してくる魔獣に対し、まずは大量の弓矢を射掛ける。魔獣は巨大。弓矢は次々に命中する。しかしそれだけだった。
「おい、効いてないぞ!?」
悲鳴のような声が上がる。弓矢は確かに当った。しかし硬質化した魔獣の体毛に弾かれ、まったく刺さらない。魔獣はまるで雨を弾き飛ばすかのように弓矢を弾き、猛然と人の群れに迫る。兵士たちは盾を構えてその前に立ち塞がったが、しかしその顔は恐怖に引き攣っていた。
「必ず食い止めろ!!」
「グゥオオオオオオオオ!!」
部隊長の命令と魔獣の咆哮が重なる。次の瞬間、盾を構えて作られた防衛線はあっけなく破られた。魔獣が腕を振るうと、鎧はまるで紙切れのように裂かれる。兵士たちも果敢に攻めるが、しかし太い腕に振り払われ、近づくこともままならない。犠牲ばかりが増えた。
「うああああああ!?」
ついに一人の兵士が逃げ出した。他の者もそれに追従する。人と人がぶつかり、物が倒れ、テントが引っくり返る。昼食の準備のために火を使っていたことが災いし、あちこちで火の手が上がった。混乱が広がる中、魔獣は我が物顔で暴れまわった。
シェリーの一言報告書「朝帰り……」
ダンダリオン「ご苦労!」